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芸術と容姿
2009年1月

先日、NHK BSで、『みんなロックで大人になった』というロックの歴史を語るBBCの番組(2007年制作)が放映された。この手の番組は、数年に一度はどこかのテレビ局かプロダクションが制作する。もちろん僕は全話録画した。このようなロックの歴史番組の第1話は、通常プレスリー、チャックベリーからビートルズへ、というような流れが一般的なのであるが、このシリーズの初回は、ジミヘン、クリーム、ストーンズ、ザ・フーといったブルース起源型バンド・アーティストにより、現在の多様なロックの原型が誕生した、というものだった。ビートルズがあまり出てこなかったことに僕は大いなる違和感を禁じえなかったが、だが逆に言えば、やはりビートルズはビートルズなのであり、上記に挙げたバンドが所属するようなジャンル分類すらを拒絶する、唯一無二のバンドであることが証明されたとも言える。

さて、ここで言いたいのはそんなことではない。NHKでの放送では、各話の最初に、番組ナビゲーターのピーター・バラカン(音楽評論家)とマーティ・フリードマン(ロックギタリスト)が出てきて、その回の内容の概略を説明するのだが、オルタナティブ・ロックの回で、マーティ・フリードマンが、こう言った。
「日本では、ヴォーカリストでもギタリストでもいいのだけれど、とにかくバンドに誰かイケメンがいないと売れない。」

なるほど、言い得て妙である。
日本人だけではないと思うが、確かにそうだ。これが、日本人の芸術性無視の容姿重視。日本人というのは、カッコよけりゃ、かわいけりゃ、何でもいいのである。一体何を見ているのだろうか?
音楽の本質というのは、耳で聞く芸術だ、ということではないのか。視覚的演出は二次的なものである。

これじゃグラビアアイドル人気と同じじゃないか。
音楽ではなく、それを演奏または作る人間そのものの外見容姿によってその音楽を好きになるという、本末転倒型芸術愛好である。
僕も確かに、幼少の頃は、ピンクレディーが好きだった。だがそれは、言うまでもなくその音楽が好きだったのではなく、その刺激的な外見である。つまりグラビアアイドルを好きになるのと同じなわけだ。彼女らが露出衣装でテレビに出てくると、僕はもう、ブリンカーをつけた競走馬のように目をギロギロさせて画面を一心不乱に眺めたものである。ミニスカートの場合、画面の下側から覗き込むように、荒い息遣いをしながら、何とか見えないものかとある一点を凝視したものである(笑)。もちろん、彼女らのレコードなどは買う気にもならなかった。当然である。音楽には興味がないのだから。
モーニング娘。がなぜ人気なのか。この深遠なテーマについて、以前バンドメンバーの山本と熱く議論したことがあったが、つまりは「彼女らがかわいいから」ということではないか。つまり、彼女らの音楽や歌がいいから、というのではなく、ただ単に外見で好きか嫌いかを判断しているだけなのだ。あれだけ様々なタイプを取り揃えることで、男どもの幅広い嗜好を吸収し、より多くの男性ファンを獲得する戦略であろう。ただし、そういう理由で好きになったはいいが、写真集だけじゃなくレコードまで買ってしまう、ということは、僕には信じられない。なぜ彼女らの曲がヒットチャートの上位を占められるのか。おニャン子クラブのレコードは買わなくても、写真集は買う。これが男の本来的な性ではないか。なぜレコードまで買うのか。声も聞きたいのだろうか。理解不能だが、世の中で起こっていることは、そういうことだろう。
”ビジュアル系”というのはそういう人間の嗜好をうまくつかんだバンド形態の典型なのである。音楽における芸術性は二の次、イケメンを集めれば、それだけでCDが売れるのだ。全く世の中どうかしている。

音楽だけではない。映像作品の世界も同じ。ドラマ一つとっても、カッコいいとか美人の俳優、女優が出演しているドラマは、彼らの演技力やドラマの質に関係なく人気である。日本人は、美男美女の俳優・女優が出ていれば、どんな駄作でも盲目的に見るわけである。『ちりとてちん』が低視聴率で、『篤姫』が高視聴率を稼いだというのが絶望的な好例である。嘆かわしや。

他の芸術を見てみよう。
彫刻や絵画や文学は静的な芸術である。人々に供される作品の形態は、完成形の動かないものであり、それらを鑑賞する。ここに、彫刻家や画家や作家の出番はない。彼らが介在しなくても、完成形の作品があるだけで、芸術を鑑賞できる。ゆえに、彼らの容姿とは関係なく、純粋に芸術性だけに集中できる。
これに対し、音楽はライブやコンサートで分かるように、時間軸的に動的な芸術である。つまり、音楽家がある有限の継続する時間の間芸術を紡ぎ出し、それを観客が鑑賞する芸術である。音楽を奏でる時間そのものが芸術鑑賞時間である。ライブではアーティストと聴衆は、リアルタイムに芸術瞬間を共有する。音楽という芸術の特異性は、この”ライブ性”である。ここが落とし穴である。これによりステージングや視覚的演出が入り込む余地が出てくるのだ。音楽、特にロックとは本質的に音楽そのものプラスでそういう視覚的エンターテイメントの要素もあるので、もちろん僕だってステージングを完全否定するものではない。ライブを見ていると、実際いいバンドというのはその音楽だけでなく、独特、個性的な動きをしていることが多い。初期のザ・フーの鳥肌ゾクゾクのカッコよさといったら、風車ギターとか、マイクを放り投げるとか、ギターをアンプに叩きつけてブチ壊すとか、ドラムセットをすべて蹴飛ばすとか、そういう突き抜けたパフォーマンスに拠るところが大きい。
しかしながら、やはりそれは二次的なものであり、音楽が良くなければ、パフォーマンスでいかに度肝を抜こうが奇抜だろうが全く意味がないのである。

思えば、話はそれるが、スポーツというのは純粋にその競技者の実力を評価するべきだが、これも人が動いてやることだから、競技者の人気には、外見容姿、果てはその素行までがモノをいってくる。朝青龍のような実力者が憎まれ、実力の伴わない美人のビーチバレー選手が狂的な人気を博することになる。

さて、今までの話とは逆になるが、テレビに出ちゃいけない3大ミュージシャンとして、山下達郎、稲垣潤一、槇原敬之を昔から僕は強く推している。音楽は、それを奏でる人間の外見じゃない。評価すべきは、音楽そのものなのだ。だから、音楽などというものは、音さえ聴いていればいい。上記3人は、そのことを僕たちに教えてくれる。
ニキビ面のマイケル・スタイプ率いるREM、頭がおかしそうなイアン・ブラウンがフロントマンのストーン・ローゼス、これらのバンドの人気こそが正しい。



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