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CENTRAL ASIA
中央アジア
(2)タシケント その2

広々としたタシケント新市街。雨模様

旧ソ連様式の建築、ウズベキスタンホテル

広大なティムール広場。広さの割りに人が少ない

ウズベキスタンの英雄、ティムールの騎馬像(ティムール広場)

サイールゴフ通り。晴れた。

テレビ塔近くのレストラン、感じのいいウェイトレスのネーちゃん

地上に現れた地下鉄

タンポポの綿毛

墓地まで道案内してくれた、4人のウズベキスタンの家族

日本人墓地

2012年4月29日日曜日。
午前8時過ぎ起床、朝食。朝、雨の音がしていた。中庭での朝食も、テーブルが屋根のある下に移動している。朝食中も雨が降ってきた。降ったり止んだりしている。だけど空には青空が広がってきた。昨日と同じように、しばらくしたら晴れそうだ。
朝食後部屋で横になる。外では雨がまた激しくなる。10時頃、宿のオバちゃんたちに、「今晩もう1泊延泊する」ことを告げて、雨の中外に出る。傘は持っていないので、ウインドブレーカーのフードをかぶる。雨が激しくなってくる。昨日はチョルスー・バザールを中心としたタシケント旧市街を巡ったので、今日は新市街を散策する。
タシケントには地下鉄が走っている。地下鉄チョルスー駅はチョルスー・バザール横に出入り口がある。入り口には警官が立っている。地下鉄はブースでコインを買って自動改札に入れる。『地球の歩き方』では料金は500スムとなっていたが、値上げしたのか、700スムだった。一律料金である。
改札前には荷物検査をする警官(または駅員)が待っていて、乗客の荷物を一人一人改める。旅行者にはパスポートの提示を求める。いちいち面倒だが、これが旧ソ連ということなのだろう。冷戦的社会主義の名残り。
地下鉄構内でも迂闊な動きは禁物だ。写真やビデオは禁止。ホームには駅員だか警備員だかが乗客の動きに目を光らせている。
今までの各国の地下鉄の経験からして、まず清潔で整然とした地下鉄は想像していなかったがその通りだった。車両は古く、決してきれいとは言えない。だが、ホームは古いながらもゴミなどは落ちていなく、清潔に保たれている。またどの駅も照明はシャンデリア風で豪華で、旧ソ連の趣味だろうが、これには独自性を感じた。
バフタコールで乗り換え、ティムール広場最寄のアミール・ティムール・ヒヨボニ駅で下車。
旧市街から地下鉄で新市街に降り立つ。階段上がったところに、濃い緑色の制服を着た警官が立っている。だが彼は威圧的ではなかった。
階段から上がった場所は、さっきまでいた喧騒の旧市街とは別世界。日曜日の朝11時、広々とした車道と歩道には車や人がほとんどいない。通りには、警官の姿だけが目につく。人がいないのに何を警備しているのだろうか。そして、四角的装飾がゴテゴテと多用された旧ソ連のビル群が誰もいない町を見下ろす。廃墟のようなウズベキスタンホテルがソ連的建築を象徴している。
さらには広大な公園。つまりすべてが大げさで、威信主義的に造られている。いきなりこれがソ連か、ということが実感される。僕はソ連の印象など持っていなかったが、何事も大げさなのがソ連だと何となく直感した。
ティムール広場は広大で、人がいない。中心に、勇壮なティムールの騎馬像がそそり立つ。だが、人がいないため、虚しく見える。写真を撮っていると、徐々に観光客が集まってきた。田舎から出てきたのか、家族連れや修学旅行の子供達の一行。昨日チョルスー・バザールで出会った、日本人のオバちゃん3人組に再会する。3週間の旅行を終え、今日日本に出発するのだという。3週間も中央アジアを旅していたというのか。なかなか興味深いオバちゃんたちだ。ツアーに違いないが、3週間は長い。
サイーハゴフ通りをそぞろ歩く。すっかり空は晴れた。独立広場近くでまた警官に「写真を撮るな」と注意される。奴が視界から消えたら、僕はすぐにカメラを構える。
新市街。車道も歩道も広い。街路樹がずっと続く。公園も多く、緑がやたらと多い。が人は多くない。ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場へ。この豪奢な建物は、1947年完成。第2次世界大戦後、タシケントに抑留させられた日本兵などの強制労働により造られた建物の一つである。この建物は、地震のときにびくともしなかったそうである。
劇場前の広場にも人は少ない。再び雨が降り出す。すぐ近くのウズベキスタン博物館へ。中央アジアは、戦乱に次ぐ戦乱で支配者交代の歴史を綿々と繰り広げてきた場所である。言い換えれば、それだけ重要な場所だったということだ。ヨーロッパとアジアを結ぶ道、シルクロードの要衝に位置する。人々は何千年も前からこの場所で殺し合いを続けてきた。中国、モンゴル(チンギス・ハーン)、イスラム(ティムール)などがここの支配者となっては敗れ去っていった。支配者が変われば文化も変わる。そして前の文化と後の文化が融合する。この場所からの出土品は多岐に渡る。石器時代の武器や土器に始まり、仏教からイスラムのものまで、様々な物品がこの博物館に展示されている。
PM2時。博物館を出て、橋って最寄の地下鉄駅ムスタキリク・マイダニ駅へ。ここからテレビ塔のあるハビブ・アブトゥラエフ駅へ行く。テレビ塔のふもとにある中央アジアプロフ・センターでプロフを食べるのだ。アミール・ティムール・ヒヨボニ駅で乗り換える。女性係官に聞いて、すでに入線していた電車に駆け込み乗車する。
PM2:33ムスタキリク・マイダニ駅に着き、走ってテレビ塔を目指す。プロフセンターに駆け込む。が、残念ながらプロフは終わってしまっていた。ここは3時頃にはなくなり次第終了だとのことで走ったのだが報われず。意気消沈。せっかく走って駆け込み乗車までしたのに。『歩き方』には「プロフセンターへは早めに行こう」と書いてあったのだが、博物館は見るのに時間がかかってしまった。1時間以上いたのだ。それだけ見るものが多かったということだろう。
途方にくれ、近くでプロフが食べられるレストランを探す。腹ペコだ。ここテレビ塔の根元は、スポーツ施設が集まっていて、テニスコート、フットサル、陸上競技場、体育館等がひしめいている。駅のほうへ戻ると、ありました。怪しい階段の下に地元レストランが!プロフもまだあった。プロフというのは、中央アジアでは昼飯に食べるらしく、夕方になるともうやっていないらしいので、良かった。サラダも頼んで満足、満腹。ウェイトレスのネーちゃんは全く英語をしゃべらず、メニューもウズベク語(ロシア語)のみだったけれど、プロフは世界の共通語。さらにサラダは『歩き方』の写真指差しで通じた。「あるある」と彼女は頷く。言葉が通じないところで『歩き方』の料理写真は絶大な威力を発揮する。これさえ見せれば食堂でのコミュニケーションはあっという間だ。言葉は要らない。そういえば昨晩のZaminレストランでも同じことをした。あっちは少し英語をしゃべれる若者が何人かいたが。ありがとう『歩き方』。逆に言うと、このトマトキュウリサラダは、ウズベキスタン人はみんな食べている、ということだ。大衆食堂にある定番メニューなのである。
ウェイトレスのネーちゃんが、カウンターのレジのところで、僕とのやり取りの顛末を、楽しそうにオバちゃんに話している。チラチラとこちらを見る。うーん、人気者はつらい(笑)。
食後、タバコを2本吸って、ネーちゃんの写真を撮っていいか尋ねる。快くOKしてくれた。
レストランを後にし、テレビ塔へ。プロフセンターの方からテレビ塔の方へ抜けようとするが抜けられず、愕然とする。スポーツセンターでは結構大きな大会をやっているらしく、テレビ局の中継車がスタジアムの横に何台も乗り付けて放送している。
結局大通りに戻ってテレビ塔正面へ。展望台に上がるのに6000スムもした。高い。荷物を下で預け、エレベーターで上がる。エレベータまでの通路には、世界の名だたるタワーの模型が並んでいる。東京タワーも完備。さすがに東京スカイツリーはない。
展望台からタシケント一望。高層ビルは少ないが、緑が多い。住宅街でも、家と家の間や、道には必ず緑のこんもりとした木が植えられている。遊園地が見える。
テレビ塔の真下、地下鉄が一瞬だけ外に出る区間があり、時々電車が現れる。地下のモグラが地上に出ている時間は15〜20秒くらい。これを塔の上から写真に収める。地下鉄構内は撮影禁止だが、ここから車両をシューティング。何てことだ。鉄道ファンならたまらないだろう。ちなみに、タシケントには鉄道博物館もある。僕は鉄ちゃんではないけれども。
テレビ塔に上がったのが16:38、降りたのが17:15。日が傾いてきた。スポーツセンターの周りの歩道にはタンポポが綿毛となって密集している。タンポポの写真を撮っていると、変な子供が一人で僕に近づいてくる。タンポポを引き抜いてポーズを取るから、奴の写真を撮ると、とたんに「金くれ」だと。「ふざけんな」と一喝する。
これから日本人墓地へ行く。再び地下鉄に乗って中心部へ。アライバザール向かい、ティムール通りからバスに乗る。バス停ではかわいい女の子がバスを待っている。しばらくしてやって来た38番バスに乗り、車掌のニーちゃんに『歩き方』を示し、「ここに行きたい」と告げると彼は頷く。バスは街なかを突っ切り、南へ走る。人はたくさん乗ってきては降りてゆく。38番はタシケント市を南北に走る路線。30分近く乗っていて、まだ着かないのかとちょっと不安になってきたが、車掌のニーちゃんはちゃんと覚えていて、目的地に着くと、「ここだ」と僕に知らせてくれた。いい奴だ。すぐ右に路地を入り、緩やかな坂道を上る。すると、日本人資料館の立看板を見ている4人の親子がいた。いや、よく見ると、初老のオバちゃんと孫3人、という風情だ。オバちゃんは髪が金髪で、しかも派手なピンク色の服を着ていて、パっと見何か特殊な人のようにも見える。女の子と男の子、さらに小さい男の子。
そこが資料館であることが僕にも分かった。もう閉まっていたが、ここは映画監督のスルタノフ・ジャラロビッチという人が集めた資料を自宅で公開しているものらしい。
4人と話が始まる。いや、初老のオバちゃんと年長の女の子とが少し英語を話せたので、実質的には彼女ら二人との会話だ。
「私は日本から来ました」
「ここは〜が作った博物館ね」
「閉まっているみたいですね」
女の子が僕に聞く。
「日本はどこからですか?」
「福島。知ってる?」
オバちゃんがすぐに反応する。
「フクシマ?フクシマって、今大変でしょう」
「そう」
僕は聞いてみる。
「日本人墓地に行きたいのですが、ここでしょうか」(と『歩き方』の写真を見せながら向かいの建物を指差す)
「あーこれよこれよ」
彼女らは、僕を先導して、墓地の入り口からさらに奥まで僕を先導してくれた。何しろ日本人が眠る墓はかなり墓地の奥まったところにあるらしいのだ。ここはムスリム墓地で、その一画に日本人墓地がある。
入り口でオバちゃんが墓地の人に道を聞いてくれる。
「この人が日本から来て、日本人墓地に行きたいといってるわ。案内してくださらない?」
とでも言ってくれたのだろう。
墓地の人は「よく来られました」と僕に挨拶をして、別の詰所のようなところで若者二人を道案内につけてくれる。中学生か高校生か。途中まで4人組と若者二人、そして僕で歩く。途中、おばちゃんは「じゃぁ私達はここで」と言ってお別れをした。別れ際、オバちゃんは手に持っていた袋に入ったナンと小さなケーキを僕にくれた。巨大なサマルカンドナンが入っている。
「いいです、そんなとんでもない」と辞退しようとしたが、「いいからお土産に持っていきなさい」と聞かないので、僕は厚くお礼を言って受け取る。ここまで案内してくれた挙句に、お土産までくれたのだ。本当にいい人たちだ。
「何かあったらここに電話しなさい」と電話番号までくれた。彼女らの写真を撮ってサヨナラを言って別れる。去り行く彼らに手を振る。これが最高の一期一会。
若者二人組は僕を案内して日本人墓地に連れて行った。広大な墓地には大きな木があり、草むらがあり、花が咲いている。区画区画に墓石が建つ。墓地には小路がつけられているが、整然としていないので、案内がなければ目的地にはたどり着けないだろう。広大な墓地の一番奥、そこはこぎれいに整地され、何十人もの日本人の墓石がある。
第2次大戦末期、満州に居住していた日本軍兵士や日本人民間男性は、ソ連により抑留され、シベリアやソ連各地に連行されて強制労働を課せられた。その数40数万人。そのうち6万数千人が、厳冬下の過酷労働のために亡くなった。辛苦と絶望の末に異国で生涯を閉じるという悲劇。シベリア強制連行・労働のことはみんな知っているが、ここ中央アジアにも日本人捕虜が連れてこられたことはあまり知られていない。ウズベキスタン、カザフスタンには各地に日本人が不遇の末に没したことを追悼する墓地が点在する。彼らは、故国のために大陸で戦い、また商い、戦後は強制労働に従事し、そして二度と故国の土を踏むことなく、遠く離れたここ中央アジアで亡くなったのだ。その無念さを思うと、僕は言葉を失う。手を合わせ、ただ一心に追悼する。
四角い墓石が等間隔で地面に埋められている。各石には漢字で故人の名前と出身地が刻まれている。そしていくつかの墓標に、「鎮魂」の文字とウズベキスタン各地で亡くなった日本人の人数が刻まれている。もう辺りは日が暮れかかり、暗くなりつつある。僕は、ここで失意のうちに亡くなった日本人兵士の思いに寄り添おうとする。
今の日本の繁栄は、ここで死んでいった人たちがその礎を造ってくれたのだ。彼らの犠牲なくして僕らの生活は成り立っていないことを我々は忘れてはならない。過去の戦争で日本のために命を落とした人々に、改めて感謝する。
若者二人は、無報酬で僕を案内してくれた。こいつらもいい奴らだ。帰り道も彼らと墓地の入り口まで戻る。もう日はとっぷりと暮れた。PM7:30。帰りのバス38番を待つがなかなか来ない。20分くらい待ってようやく来たので乗り込む。アブドゥラ・コディリ近くで下車し、そこから地下鉄でチョルスーに戻ったのはもう9時だった。
9時過ぎ、昨日のZaminレストランで再び夕食を食らう。昨日の店員達が僕を笑顔で迎えてくれる。美味い。ウズベキうどんとでも言おうか。肉や野菜のあんかけうどん。
チョルスーバザールの脇の道で、夜だというのにナンを売っている若者達がいる。彼らは円盤のようなナンを右手で接近する車の前にかざし、売ろうとする。車のヘッドライトに右手の円盤を差し出す。面白い光景だ。名づけて、「ナン売りヒッチハイカー」。車のライトにシルエットで浮かび上がるナンを持った彼らの右手。あたかもヒッチハイクしているようだ。面白すぎる絵。写真を撮ればよかった。なぜ彼らはこんな夜までナンを売っているのだろうか。明らかに売れ残りじゃないか。どうしても今日中に売り切らなければならない理由があるのだろうか。
奴らは僕にも声をかけてきた。ウズベク語で。
「ナンはどうだ?」
「もう持ってる」
僕は手に提げたビニール袋をかざす。そう、僕は墓地でオバちゃんにナンとケーキをもらったのだ。
PM10時前ホテルに帰り着く。宿代3泊分を宿のおじさんに払う。60ドル。そしてレジストレーションをもう1日分延長してもらう。古いのは返し、捨てられる。
今日はウズベキスタン人の温かい人柄に触れたいい一日だった。長い一日。

<追記>
■昨日のZaminの会計のニーちゃんは、トマトサラダをカウントし忘れていたことが今日分かった。6000スムは安すぎると思ったのよ。というか彼が間違えたのではなく、伝票を記入したウェイターの間違い。今日はしっかり9400スム取られた。だけどそれでも安い。これで3.35ドル(268円)。安い!今日は昼のプロフ+サラダも9500スムだった。
■地下鉄
 車両は古い。ホームで完全に停車する前に扉が開く。しかも扉が開いている時間が短い。多分4秒くらいだろう。急いで乗り込まないと危ない。だけど汚くはない。少なくともゴミは落ちていない。これは画期的なことだ。日本以外ではおよそ考えられない。照明がおしゃれ。間接照明もあれば、シャンデリア調の豪華な駅もある。警官の男と駅係員の女が絶え間なく乗客とホーム上の状況を監視している。
■旧ソ連建築
実に独特だ。これを個性と言わずして何と言おうか。この旅で、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスの各国で、僕は旧ソ連建築をいうものを初めて目の当たりにしたが、どれも独特の個性を持っていて、実に新鮮だった。

(続く)
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(中央アジア旅行記 −2−

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