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死(2)
2003年1月

生の数だけ死がある。すべての生きとし生けるものが、いつか死ぬ。つまり、すべての生き物は、死を前提に生きているのだ。
ある本で読んだことがある。「死はすべての生き物にやがて訪れる。生きていることの方が実は奇跡なのだ。」

自分の愛犬が死んだ後数日は、街で犬の散歩をしている人と犬を見て、心の中でこう思った。
「この犬もいつか死に、その時にこの飼い主が悲しむんだな。」
そして、電車では、乗っている人すべてを、自分も含め、「いつか死に行く生き物」として、見るようになる。今動いてるのはその時までの一瞬の輝きに過ぎないのだ、と・・・。

これだけたくさんの人間がいるのだから、数多くの死が毎日起こっている。しかし、通常、社会では、この「死」が表面に見えてこない。無数の、その関係者のごく小さな輪が、人目につかないところ(病院)でその営みを繰り返している。
よって、通常は、自分の周りの人間が死ぬなどしてその関係者になったときはじめて、日常生活で死に直面することとなるわけだが、そうでなければ、本来はこの世界で無数に起こっている「死」に直面する機会は少ない。

今の日本社会で(おそらく欧米でもほぼ同じだと思うが)、死を毎日日常的に意識する場所は、病院や火葬場くらいであろう。

だが、特殊な環境、ではあるが世界に数多く存在するところ、例えば「戦場」では、「死」は特別なものではない。

そして、インドのヴァラナシでは、死が日常である。ここは、戦場のような特殊な場所ではない。人々がごく普通の生活を営んでいる街である。別名・大いなる火葬場。インド中のヒンズー教徒の遺体がここに集まってくる。ヒンズー教では、聖地・ヴァラナシで荼毘に付され、その遺骨をガンジス川に流せば、輪廻からの解脱が得られるという。ヒンズー教徒にとってこれは最高の幸福であり、「死んだらヴァラナシへ」というのが彼らの人生の希望の一つなのである。
朝起きて、顔を洗い、朝食をとる。ガンジス河畔で子供たちがクリケットをして遊んでいる。その隣では、無数の死者が、火葬されているのを見る。24時間、その火が絶えることはない。
そう、この街では、「死」が、日常のごくありふれた一風景なのである。生物にとって、「死」は珍しいものではない。だが、人間の死は、野良犬やアフリカの野生動物のような死ではない。そこには確かに、自然でいてかつ「思考すること」を勝ち得た人間らしい死に対する尊厳が存在する。

人間が旧人からの進化の過程で、死者を埋葬するようになったのが、人間的精神性、ひいては宗教心の芽生えと言われる。それまでは、ほとんど猿と変わらなかったのが、だんだんと思考する生き物になっていく過程で、そのような「死」に対する特別の感情が生まれたのである。自然の荒波の中で無邪気に生きて死んでゆく動物とは決定的に道を分かち、「死を恐れ、死にたくない」という感情を持つようになったのである。(「死」に対する恐れ、ここから逃れるために人々は宗教にすがる。これが宗教?)
人間の死は、動物のそれとは違うのである。というより、死に対する尊厳があることが、「思考すること」を勝ち得た人間と他の動物との違いなのである。

死は日常であり、自然なことである。だが、それに接する度に巨大な、どうしようもない悲しみが襲ってくる。こればかりは達観する必要はないと思う。
泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑う。それも人間である。

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