2017/12/31 (Sun.)
鋸山(のこぎりやま)登山 晴れ時々曇り@千葉市

ロープで降りる |

石切り場跡の超人工ゴルジュ |

ロープを使って岩を登る |
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地獄のぞき |

ツリーハウスから木の枝が出放題 |
2017年も大晦日。今日はコンスケ父娘、裕助と鋸山に登る。
コンスケ号で千葉から鋸山へ。
鋸山は、千葉県の山としては珍しく、千葉県内だけでなく他県の人にもその名を知られた山であろう、多分。なぜならこの鋸山には、山の上にある寺、巨大石仏に百尺観音、そして断崖に張り出した「地獄のぞき」や石切り場跡など、観光として楽しめる見所が多いためである。
山頂へはロープウェイが延びており、登山というよりは観光地としていまや確立していると言っても良かろう。
ちなみに、その名は、山頂の稜線がギザギザになっており、のこぎりの歯のようであることに由来する。
で我々である。さすがに千葉県民として、上記観光地は何度かすでに行ったことがあるので、我々の目的は登山である。鋸山は、観光だけでなく、登山道が4コースくらいあり、登山者にもなかなか楽しめる山である。
2014年の正月に観月台コースを登って以来、4年ぶりとなる今日は、車力道という道から登ることにする。
麓のレストラン土産物屋複合施設の駐車場に車を停め、登山口へ。途中、鋸山登山案内所があり、話好きのおばさんとひとしきり話す。
そのあたりの住宅街にはいつも猫がいて、人懐っこく我々に近づいてくる。
登山道に入る。車力道は、鋸山が石切り場として稼働していた昭和初期ごろ、切り出した房州石を、ネコ車というリヤカーに乗せて女性たちが麓に運搬したという道で、80kgの石を3つ、つまり240kgの石を乗せて運んだという。
登山道のところどころに、立派な説明看板が設置されている。
しばらく登ると、「アドベンチャーコース」という道の分岐があり、そこに入る。この道は正規の登山道ではないらしいが、案内板が設置されており、「この先コース外!きけん!!」と注意している。この看板には、日本語の他、英語、中国語、韓国語で表示されている。
このコースでは急斜面にロープが設置してあり、割と危険な急斜面降りや岩場登りが次々に出てきて楽しい。
道は、石切り場跡に入る。石壁を削って造られた狭い通路は、「超人工ゴルジュ」というべきもので、真っ直ぐな壁が屹立する異空間となっている。
その後、東京湾が見える展望台、地球が丸く見える展望台に到達。前回4年前はここに日没間際に到着し、海に沈む燃え盛る夕日を山の上から見るという予期せぬ幸運を得たが、その後真っ暗な中を下山する羽目になった。
今日は午後1時過ぎ。相変わらず絶景である。遮るものがない西側の眼下一杯に東京湾が展開している。海の先には神奈川県の三浦半島。今日は雲が多く、富士山は残念ながら見えない。
南側には保田の街、その先にいくつもの岬が東京湾に細く突き出ている。最後の岬が館山である。
この展望台は平地でベンチが4つくらいあり、休憩するに最適である。コンロを出してお湯を沸かし、コンスケが持ってきたカップ麺を食べる。赤いきつねと鴨だし肉うどん。そばではないが、年越しうどん。
店を広げてすぐ、先日の元清澄山の時のように、次々と登山客がここに上がってくる。ちょうど午後1時くらいに山頂に着く人が多いのだ。
うどんを食べる。山頂は吹きさらしで、さすがに冷えてくるが、このうどんはとても良い。
うどんを食らったあと、裕助が持ってきたコーヒーを飲む。冬の山頂では温かいものを作ることで冷えた体が生き帰る。

百尺観音 |
ここからは西側に降りる細道があり、ここを降りる。尾根道を歩くとすぐに正規の周遊道に出る。ここはもはや登山道ではなく、ロープウェイや車で来た人たちが地獄のぞきや石仏を見るための観光道路である。いきなり普通の服装をした人がたくさん現れる。
せっかくなので我々も地獄のぞきをのぞき、百尺観音を拝む。石壁に掘られた百尺観音は、さすが百尺、相変わらずの圧倒的身長である。
鋸山山頂にある日本寺は、奈良時代724年に聖武天皇の勅詔により行基が開いたとされる。先日行った千葉県最高峰の愛宕山山頂にも行基は同じ724年に入っている。彼は貧民救済や橋や道のインフラ建設の社会事業を行った僧として有名だが、近畿地方から房総までやって来て山河を巡り、その足跡を残している。
百尺観音は、昭和35年から6年をかけて、石切り場跡に掘られたものである。これは戦没者と交通犠牲者供養を念願しているという。
下山は観月台コースを降りる。もうすぐ麓というところで、2つのツリーハウスを見つける。近くにトイレもあり、どうもなにか野外活動でもする区画のようである。
ツリーハウスに登ってみる。木の枝が小屋のいたるところから突き出ていて、全然密閉されていないので、冬の野宿は無理そうである。
ふと下を見ると舗装道路が見える。道路までは割と急な斜面なのだが、斜面に沿ってロープが張ってあり、このロープを伝えば簡単に降りられそうなのでここを降りることにする。
金谷から久里浜に向かう東京湾フェリー乗り場でトイレに行き、お土産を買う。私はネギ味噌を購入。こないだ小千谷で買った「かぐら南蛮味噌」が家で好評だったので、二匹目のドジョウを狙う。ご飯にかけて食べるのがよい。
帰りは飯を食わずに千葉に直帰。
2017年も終わる。
4月以降の9か月間は仕事をせずに過ごした。5月〜7月の旅のあとは、わりと引きこもり的であったが、引きこもりもなかなか楽しい。寝て、ネットを見て、動画を作って、文章を書いて、本を読んで、ギターを弾く。このような引きこもり生活では運動不足で不健康となるのが大問題なので、週に1、2度のペースで川とか山に入った。ってことは、引きこもりではないか。
いったいこの時期は私の人生のうちでどんな意味を持つことになるのか、まったく見当もつかない。
鋸山 写真集
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2017/12/29 (Fri.)
忘年会 晴れ@千葉市

3次会は4人 |
今日は午前中に父親と二人で墓の掃除をしに行く。春秋の彼岸、夏のお盆、そして年末が1年のうちで4大墓参日である。
墓参りのあと、近くの中華料理屋で昼飯。中華丼。
夜は今年唯一の忘年会。千葉の居酒屋で8人。
2次会はカラオケ、3次会は行きつけのバー、ペニーレイン。
中学時代の友人、ヨーダは久しぶり。気づいたらもうみんなアラフィフである。 |
2017/12/26 (Tue.)
津森山(つもりやま)・人骨山(ひとほねやま)とスイセン 晴れ@鋸南町

津森山山頂から東方向を望む。長狭平野の先に太平洋 |

人骨山山頂から見下ろす |
スイセン |

無人野菜直売所で菜の花を購入 |
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今日は鋸南町にある津森山と人骨山に登る。
佐久間ダムに到着したのが11時15分。そこでコンビニ弁当を食べ、ダム湖の写真を撮っていると、ごついカメラを持ったおじさんに声をかけられる。おそらく彼はスイセンを撮りに来たのだろう。
「宮城から来たんですか?」
「いえ、千葉です」
「車のナンバー、ずいぶん遠いなと」
11:30、歩き始める。
天気はいいが風が強く、体感温度が低い。
始めは舗装道をダム湖脇の坂道を上る。大崩(をくづれ)地区を歩く。大崩バス停は終着なのか、鋸南町営循環バスが停まっている。八雲神社を過ぎると、大崩公民館。
道沿いにはスイセンが延々と咲いている。この辺りの家々は農業が生業のようだが、この時期、スイセン栽培も収入源となっているようだ。来月がスイセン最盛期だと思うが、すでにスイセンは咲き乱れ、チラホラいる観光客のお父さんお母さんに対して、農家の人たちは軒先にバケツを置いてスイセンを入れ、売っている。
1月に入ったら、この辺りは人であふれると推測される。そういえば、佐久間ダム周辺の駐車スペースは、すべて有料だった。こんなところで駐車場が有料ってことは、相当数の人が車でこのスイセン観光地に押し寄せるのに違いない。
私は当然そんなところには停めない。佐久間ダムの無料駐車スペースに置いてきた。
ほどなく津森山の登山口に行きつく。そこから山に入っていくが、まだ舗装道路である。携帯電話の立派なアンテナ塔が立っている。普通の民家の敷地内を通り、やっと山道に入る。そして少し登るとあっという間に津森山の山頂に到達。案内板とベンチがある、開けた山頂である。標高336m。3つの石碑がある。金毘羅大権現やら、浅間大権現を祀ってある。
房総の山々の展望が素晴らしい。特に北側には、左手の東京湾から鋸山、そして郡界尾根の峰々が右手に向かって連なっている。東〜南東の方角には、長狭平野と、先日登った愛宕山の丸いレーダーが見える。長狭平野の先には、太平洋。南には富山のツインピーク。
この山頂からは、西の東京湾と東の太平洋が同時に見える。これはわりと珍しいのではないか。房総半島の南に行けば行くほど陸地は細くなるので山に登れば内房と外房、両方の海が見えることになるが、山頂でも360°の眺望がきかないところは多い。
この山頂では西側の展望だけがないのだが、西に続く尾根をさらに進むと、西側の展望が開けた展望台がある。ここからの富士山の眺望は良かった。私はいままで房総の山から富士山が見えた経験はほとんどないのだが、さすがに冬晴れの今日はよく見える。
だが惜しむらくは山頂付近に雲がかかっていて、雪をかぶったりりしい山頂はお預けであった。
風が強く、寒い。暴風に近い。開けた山頂は障害物がなく、風がじかに吹き付ける。
登りで汗をかいたがすぐに冷える。
山頂を辞し、先刻の舗装道路に戻り、南に進む。法明の分岐から西に折れ、人骨山の登山口に出る。
「ひとほねやま」と穏やかな名前ではないが、由来は知らない。
案内板に従って、山の南東側から回り込んで尾根に登る。斜面では農家の男性がスイセンの手入れをしている。ここにもスイセンがいたるところに植えられている。
しばらくロープが設置された尾根筋を急登して、これまたあっけなく人骨山山頂に到達。292.6m。山頂に樹はないが、胸くらいの高さの草が冬枯れして茶色くなっている。
佐久間ダム、富士山がよく見える。房総の山容が手に取るようにわかる。低山の魅力である。
西側に降りる道がないか探すが、なさそうなので来た道を戻る。
舗装道路に出、八雲神社まで戻って参拝する。
大崩バス停では、ちょうど鋸南町営バスが車庫に戻ってきたところだった。さっきは青バス(青い車体)だったが、今度は赤バスである。
スイセンが道端に目一杯咲いているのをカメラに収める。茎とのトータルで言えば、なかなか独特な花である。
途中、田舎によく見かける「無人野菜販売所」があった。菜花(菜の花)が一袋だけ残っていて、100円だったので購入。竹で作った貯金箱ポストのようなところに100円玉を投入する。
「食用ナバナは、は茎も葉も全部がおいしく食べることができます」という文言が書かれた紙が貼られている。
昨今、野菜の値段がアホみたいに高い。キャベツやレタスが1玉298円とか、常軌を逸した値段となっている。1袋100円の野菜は懐に優しい。
佐久間ダムに戻ったのが午後4時。今日の行動時間は4時間半。二つの山を登ったものの激しいところがなく、活動時間も短かったので負荷はやや物足りない感じ。
津森山・人骨山 写真集
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2017/12/24 (Sun.)
有馬記念
今年の有馬記念は、引退レースだったキタサンブラックが有終の美を飾って幕を閉じた。
私は大団円が嫌いなので、面白くない結末だった。
当然、馬券は穴を厚めに買ったため、トリガミ。
幸せというものは、一極に集中しない方がいい。
単なる判官贔屓か。 |
2017/12/19 (Tue.)〜12/21 (Thu.)
長岡、小千谷へ

水上−長岡間の雪景色 |
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長岡の大通りの雁木 |

長岡城址。駅の近く、ビルの間にたたずむ |

栄涼寺にある河合継之助の墓。背後には上越新幹線の高架 |

河合継之助が欧州から購入したガトリング砲 |

長岡駅前には地上通路が縦横に走る |

長岡のB級グルメ、洋風カツ丼 |

榎峠古戦場 |

信濃川 |

司馬遼太郎『峠』の碑 |

越後名物、へぎそば |

小千谷駅前。鯉の通路がたくさんある |

慈眼寺の「会見の間} |
12月19日火曜日。今日から2泊3日で、越後に出かける。目的地は長岡と小千谷。
長岡は、河合継之助と山本五十六という、2人の偉人を輩出した街である。2人も偉人を輩出した街というのは、そうそうあるまい。鹿児島とか萩とかは、幕末から明治維新であまたの人材を輩出したが、長岡というそれほど歴史の表舞台に出てきたことのない場所から2人というのは、特筆に値すると思う。もちろん、この2名以外にも多くの人物が出ていようが、全国知名度という点では、この2名が群を抜いていよう。
千葉から普通列車に乗る。移動手段は、JRの普通列車。そう、青春18きっぷ使用である。
朝8:36千葉発の東京行き快速に乗る。東京で上野東京ライン快速アーバンに乗り換え、終着高崎着が11時20分ごろ。水上行きの上越線まで40分くらいある。
ここで昼飯を食べようと、駅の周りで大衆食堂を探すが全然ない。駅の外には巨大なヤマダ電機のビルがそびえていて、その中にもレストラン街があるが、こういうデパート的なもののレストラン街というのは高いと相場が決まっているので行くのをためらう。
そうこうしているうちに時間が無くなってくる。やっと駅近くに中華料理屋を見つけ、入る。ランチを注文。電車の時刻まであと20分弱。時間がない。店員さんに、急いでるので早く出してくれるように懇願する。
願いが通じて、ランチはすぐに出てきた。ラーメンに豚の角煮丼(小)、サラダにキムチでたったの620円。安すぎる。だがゆっくり味わうこともなく、10分弱でかき込み、そそくさを会計をして駅に走り出す。
ギリギリで12:02の上越線に飛び乗る。セーフ。高崎発水上行き。
13:07水上着。水上に近づくころに車窓は雪景色となる。
水上駅の外でタバコを一服。
13:40上越線水上発長岡行き。
水上を出るとほどなく電車は地下に潜る。湯檜曽と土合は地下の駅で、その長いトンネルを地上に出たら雪国だった。トンネルに入る前とは雪の量が違う。本格的な豪雪地帯に突入した。ここから新潟県である。湯檜曽駅と土合駅の下り線ホームは、谷川岳を貫くトンネル内に設置されており、そのトンネルが新清水トンネルで、一方上り線側のトンネルを清水トンネルという。かの有名な川端康成の『雪国』の冒頭、「国境の長いトンネルを抜けたら、そこは雪国だった」の「国境」とは群馬県と新潟県の国境であり、「トンネル」とは、この清水トンネルである。
電車は真っ白な雪の平原を進む。雪原の向こうには、雪をかぶって黒々とした地肌をまだらに見せる山々が連なっている。時々近くに雪林が通り過ぎる。利根川は相変わらず近くを黒々と流れている。
越後湯沢、岩原スキー場、上越国際スキー場といったスキー場の脇を電車は通り抜ける。
湯沢温泉は、前出『雪国』の舞台である。
新潟県は、日本海から張った弓のような、三日月のようなかたちをした県である。この三日月の一部が膨らんでいびつとなっているあたりが越後湯沢である。
電車は、このいびつ部をどんどん北上する。六日町、五日町、小出。小出と言えば、只見線の新潟側の終着駅で、ここから福島の只見地方へ、これまた豪雪の中をいく路線である。
雪原を走り、しばらくすると街に着く。それを繰り返す。街の建物は雪をかぶっているが、こんな雪の中に人の生活は他の地域と変わりなく営まれている。
長岡が近づくにつれ、雪が少なくなってくる。
15:29長岡着。千葉から普通列車でおよそ7時間。千葉、東京、埼玉、群馬と北上し、新潟県の長岡。そんなに遠い感じはしない。
新潟県は古くは越後と呼ばれ、戦国時代、上杉謙信公が治めた地として知られる。豊臣秀吉の死の直前、秀吉は上杉景勝に対して、越後から会津への移封を命ずる。秀吉としては、自分の死後を見据え、徳川家康の押さえのために江戸の北に配置したのである。上杉が移封となった後は、関ケ原の合戦で秀吉の願いもむなしく徳川の世となり、いくつもの譜代大名が越後に配置された。長岡藩もその譜代の一つである。
長岡藩、幕末で7万4千石。幕末の藩主は、三河時代から家康の家臣だった牧野家。長岡は藩都だった城下町である。
長岡は雨。寒い。いまにもみぞれになりそうな天気である。
まず長岡駅の観光案内所に飛び込み、長岡の観光情報を得る。
駅からは渡り廊下のような回廊が近くに延びている。また、駅前大通りには立派な雁木アーケードで広い歩道が保護されていて、雨雪に濡れることはない。
来年2018年は、長岡開府400年の記念年だそうで、街にはそののぼりがあふれている。
1618年といえば、関ケ原の戦い後18年、大坂の陣の後にこの街が拓かれたということか。
長岡の名物と言えば、花火。大東亜戦争時に長岡大空襲があった8月1日、毎年行われる。
その絢爛さは全国でも指折りである。
その花火を紹介するシアターがアオーレ長岡という駅に隣接した施設内にあり、そこで15分ほどの3D花火映像を鑑賞する。
その後、曇天に闇が降りてくる中、長岡戦災資料館に行く。ここは、1945年8月1日にアメリカによって行われた長岡大空襲の背景や写真などを展示している小さな博物館である。
一室の展示室に、太平洋戦争の歴史、アメリカによる空襲の詳細、狙われた都市、使われた焼夷弾の遺物や模型、空襲された長岡の惨状を示す写真。
ここで焼夷弾の構造を学ぶ。焼夷弾はナパーム弾とも言い、何本もの筒が束ねられた形をした弾で、投下後に空中で各筒が解放されてバラバラとなり、それぞれの筒が地表との衝突時に火薬により着火して中の発火材料が燃え、日本の木造家屋を焼き尽くすという焼却殺人兵器である。
制空権と制海権を得たアメリカは、日本の大都市から順番に選び、中小都市に至るまで、当時のほとんどの主たる都市を空襲した。軍事施設や工場だけを狙ったのではなく、市街地を狙って一般市民を無差別虐殺したのである。
新潟県では、第一の都市新潟が、原子爆弾投下の候補地となっていたため結局終戦まで空襲されず、第二の都市である長岡が、終戦直前の8月1日に襲われた。
私の住む千葉県でも、千葉を始め、銚子や館山などがやられている。
午後4時半、資料館を出ると、すっかり夜になっている。
予約しているビジネスホテルに歩く。みぞれ的な雨。チェックイン後、飯を食べに外に出る。
長岡駅の周りを歩き廻るが、あまり良さげな食堂がない。いつも旅で困るのが、夕食である。昼時には定食を出す大衆食堂が開いているが、夜になると居酒屋かラーメン屋しかない、という街が多い。そういう街は困る。私は無類の定食好きである。丼ものも悪くないが、栄養のバランスという意味で、定食はいい。
しばらく歩き回ると、ようやくラーメン屋兼定食屋兼居酒屋を見つけた。店内に入ると、わりと酒客のサラリーマングループが多い。
カウンターに座って「長岡田舎定食」を頼む。
この定食はいい。メインの鶏のから揚げに加え、郷土料理であるのっぺや栃尾油揚げなどが付けあわされている。
ホテルに戻り、フロント脇の無料パソコンエリアで少しネットを見た後、大浴場で体を温める。大浴場は、いい。
12月20日水曜日。長岡は曇り空だがところどころに薄い水色が見える。
朝9時過ぎ、街を歩き始める。
長岡城はいまはなく、現在の長岡駅がかつての長岡城だった場所である。駅の裏、ビルの間の一画が保存され、城址の石碑が立っている。
長岡城は、北越戦争で一旦新政府軍の手に落ちたが、その後長岡藩が、夜陰八丁沖という池を渡って襲撃して奪い返した。しかし、その戦いで河合継之助は足に重傷を負い、4日後に新政府軍に再度奪回される。これを機に長岡藩は会津に敗走することになる。
長岡駅前には三尺玉をかたどった花火のモニュメントがある。
長岡駅の線路下のガードをくぐり、長岡藩主牧野家の代々の墓や河合継之助ら藩士の墓がある栄涼寺に歩く。
栄涼寺の本堂裏には、長岡藩主や藩士の墓が雪をかぶっている。いつの間にか空が青く晴れあがった。空の青と地の白が鮮やかな対照をなしている。
路地は融雪道となっていて、雪国にありがちな赤さび色の道路である。最近では日本を周っているときに、富山の高岡で見た。
次は河合継之助記念館。河合継之助の屋敷があった場所に建てられた、彼にまつわる資料を展示した記念館である。
入口に彼が幕末に藩に導入したガトリング砲が飾られている。当時この砲は日本に3門しかなかったという。そのうち2門を河合が購入した。いまでいう機関銃の原型のようなものである。
始めに15分ほどのビデオを見た後、館内展示を見て回る。
河合継之助。何を隠そう、私も司馬遼太郎の『峠』で彼の人生を知ったクチである。長岡藩の藩士として幕末に生まれ、攘夷討幕の激動の中で日本各地に遊学した後、藩の筆頭家老まで異数の昇進をし、長岡藩をして武装中立させようと奔走した意志の人である。彼は、他の討幕の志士たちが日本の未来のことを考えたのに対して、長岡藩士として、長岡藩の生きるべき道を必死で模索した人である。幕府側にも薩長にもつかず、長岡藩が武装中立できるように財政を立て直し、人材を登用し、軍備を整えた。しかし、小千谷での新政府との会談が不調に終わり、旧幕側に立って新政府軍と戦いの火ぶたを切らざるを得なかった。それが北越戦争である。
山県狂介(有朋)、黒田了介(清隆)が率いる新政府軍を大いに苦しめたが、徐々に援軍により膨れ上がった新政府軍に圧倒され、最後には敗れて会津に敗走、長岡城下で負った傷が元で只見の塩沢村で死去する。維新の100傑に数えられる、先見性と確固たる意志、行動力を持った偉人である。
継之助が書いた書簡が展示されている。それにしても、江戸時代までの人が書いた文章は、全く読めない。漢字かな混じりであることが多いが、漢字は崩してあるし、かなも字と字がつながっていて略化されている。せめて江戸時代くらい、人が書いた文章が読めれば、こういう博物館ももっと楽しみが増えるのだが。
昼飯は昨晩行った食堂でランチ。
食後は山本五十六記念館へ。
山本五十六。彼もまた長岡出身、大東亜戦争時、海軍省の事務次官を経て聯合艦隊司令長官としてアメリカとの戦いの指揮を取った人物である。アメリカで武官を務め、かの国の強大な国力を知り、開戦前は断固として日独伊三国同盟に反対し、対米開戦に反対しながら、開戦が決まった後は皮肉にも自らが海軍の実働部隊のトップとして戦場でアメリカと戦わねばならなかった。真珠湾攻撃という奇襲を立案し、戦争序盤は優位に進めて早期に講和するという彼の目論見は、アメリカの反撃によって崩れる。そして、南太平洋のブーゲンビル島上空で、前線視察に向かう途中にアメリカ軍機に撃墜されて戦死。
山本長官という卓越した司令官を喪った後は、戦況は悪化の一途をたどり、敗戦に至る。
記念館には、大東亜戦争の背景から経緯をたどる展示がされている。山本長官の書簡が多い。さすがに明治後年から大正、昭和の文字は何とか読める。現在の書式に近い。
展示室中央に、ブーゲンビルから運ばれた山本長官が乗っていた海軍機の翼の一部が展示されている。翼は一部がひしゃげ、まがり、傷ついている。
展示を見終わった後、お土産として山本五十六カレー・戦食ごはんを購入。自衛隊系の博物館に行くと必ず売っている海軍カレーなども売っている。
4時半近い。日が暮れかかっている。近くの山本五十六記念公園へ行く。ここには彼の生家が移設されていて、彼の胸像が飾られている。雪が降り出す。
一旦ホテルに戻り、しばらく休憩して夜の街に出る。
「殿町通り」という近くの歓楽街を歩く。あまり人通りはない。
雁木は駅の近くは大規模なアーケードのような感じだが、小さな路地に入ると昔ながらの小さな軒である。
駅の近くはところどころ、各色の電球でライトアップされていて、クリスマス前の雪国の雰囲気を増大させている。
夕食は三度、例の食堂へ。「洋風カツ丼」という長岡B級グルメを食す。その名の通り、洋風ソースがかかったカツがご飯の上に載っている。なかなかいける。
12月21日木曜日。晴れ。
2泊3日の旅の最終日。今日は長岡から小千谷に移動し、いわゆる「小千谷会談」が行われた慈眼寺(じげんじ)に行く。
その前に、割と時間があるので、北越戦争の戦場跡に行ってみることにする。八丁沖か榎峠か朝日岳のどこに行くか迷ったが、バスの時間を勘案して、榎峠に行くことにする。長岡駅からのバスは本数が少なく、なかなかうまく日程を組み立てられない。
9:30の長岡駅発のバスに乗り、榎峠へ。小千谷との市境付近、浦柄三差路バス停で降りる。山に近く、気温が低い。バスを降りると身を刺すような冷気に驚く。信濃川沿いに山が続いている。
榎峠古戦場は、雪に包まれていた。ここが、長岡藩と新政府軍が戦端を切った場所である。片側が山で、一方は信濃川を見下ろす。ここは長岡に進撃するための要衝で、最初は新政府軍がここに布陣したのだが、小千谷談判破談後に長岡藩がすぐここを奪取した。長岡藩がここから対岸の新政府軍に対して撃ち下ろしたのだろうか。
信濃川沿いを歩くと、妙見堰という、信濃川にかかる巨大な水門がある。妙見堰資料館が建っていて、無料なので行ってみたい気もしたが、バスの時間が気になり、まずは妙見神社のバス停でバスの時間を確認する。まだ40分くらいある。
妙見堰の小千谷側のたもとに、司馬遼太郎の『峠』の石碑が建っているので、それを見に行く。
信濃川は広い。水鳥が多数水面に浮いている。黒っぽい水と雪の白が水墨画的風景を構成している。
バス停に戻り、小千谷方面へのバスに乗る。小千谷駅前に着いたのが12時。昼飯だ。
駅のロータリーにある和田というそば屋で、名物のへぎそばを食す。腰がありうまい。
駅前には鯉をかたどった歩行者用通路がいくつもある。きっと雪よけなのだろう。小千谷は錦鯉で有名な町らしい。
駅の近くに観光案内所を探すが見当たらない。土産物屋のおばさんに聞いたら、信濃川を渡ったところにしかないという。
仕方なく慈眼寺に向け歩き始める。だいたいの道は分かる。
駅前通りを真っ直ぐに歩くと、信濃川にかかる大きな橋となる。それを渡り、さらに進むと慈眼寺がある。駅から歩いて30分くらいだろうか。
慈眼寺。この寺は、北陸を小千谷まで進軍してきた新政府軍が陣を構えていた場所である。そして、北越戦争の戦端が開かれる直前、1868年旧暦5月2日、長岡藩家老の河合継之助と、新政府軍の軍監であった土佐の岩村精一郎らが会談した場所である。俗にいう小千谷会談。
ここで河合は、長岡藩の立場を説明し、新政府に嘆願書を差し出し、戦争を回避しようとした。だが、若輩の岩村は、これを拒絶、北越戦争が始まることになる。
のちに、長州の品川弥次郎が、「あのとき岩村ではなく、山県か黒田が河合と会っていれば、戦争は回避できたであろうに」と嘆いた、運命の会談であった。
岩村自身も後年、「あのとき河合の人物を知っていれば、別の対応もあったであろう」と述懐している。要するに、河合継之助がいかなる人物であるかを知らなかったわけである。
彼らが会談した「会見の間」がいまでもこの慈眼寺にそのまま残っている。
今朝慈眼寺には電話して、訪問することを告げてある。会見の間は本堂内にあり、常時人がいるわけではないので、見学するには事前に一報を入れておく必要があるのだ。
慈眼寺本堂脇の建物で来訪を告げると、女性が対応してくれた。彼女は本堂の電気をつけ、説明テープを流してくれた。
会見の間は10畳ほどの畳部屋で、ここで河合と新政府側4名が会談した。だが会談はわずか30分で打ち切られる。新政府側は、河合の話をほとんど聞かなかったようである。
幕末のこの時期、様々な会談があった。坂本龍馬が仲介して薩長密約を成立させた桂小五郎と西郷隆盛の会談や、江戸無血開城を実現した西郷隆盛と勝海舟の会談などだが、どちらも会談は決裂していない。
この小千谷では会談は不調に終わり、悲劇の始まりとなる。
会見の間の脇の廊下には、当時の遺物が展示されている。河合継之助、岩村精一郎の書簡や、当時の砲弾、長州藩が使っていた7つ玉のそろばんなど。
雪に包まれた本堂とその奥の観音堂。そして小さいながらも立派な山門が、この寺の由緒正しさを表している。
慈眼寺に隣接して、幼稚園が建っている。幼稚園と寺の敷地がほとんど一体化している。
小千谷駅に向かって戻る。天気はいい。雪晴れだ。
小千谷駅前の土産物屋で、小千谷の名産だという「かぐら南蛮」という唐辛子の一種を使った「かぐら南蛮味噌」と、「朱鷺のたまご」というお菓子を買う。
小千谷発15:48の上越線に乗って千葉の方向に戻る。2両編成の電車は、混雑している。高校生か大学生か、若者たちがたくさん乗ってきては降りる。この上越線の各駅では、雪に埋もれたようでいて人々は埋もれずに生活している。岩原スキー場でたくさん人が降りるのを見て驚く。スキー場駅だけど、住宅街もある。山奥にポツンとある駅というのは少なく、どの駅の周りにも小さな街が広がっている。高校生の中には、長靴を履いている人もいる。
電車が水上に着いた頃には、もう日が暮れた。
帰りも水上、高崎、東京で乗り換え、千葉着が21:53。
2泊3日、越後の旅。
長岡・小千谷 写真集
長岡・小千谷 動画 |
2017/12/18 (Mon.)
私が撮った写真が本に掲載 晴れ@千葉市
私が撮影した写真が、ある本に掲載された。子供向けの教育本で、PHP研究社刊、『探検!世界の駅』という本だ。
この本は、駅の役割や構造を説明し、そのあと世界中の駅を写真と文章で紹介している。
各駅の写真のうち、南米アルゼンチンのパタゴニア地方にある「フィン・デル・ムンド駅(世界の果て駅)」の写真と車両写真が私が撮影した写真である。一応巻末にはどの写真を誰が撮ったのかのクレジットが入っている。
写真はあまりピンとくる写真ではない。私が2011年12月にパタゴニアを旅行した際に撮った写真である。
(その時の記事はこちら)
どういういきさつでこうなったかというと、数か月前、上記駅の写真を探していた出版事務所の担当者が、きっと検索したのだろう、私のホームページを見つけ、そこに掲載されていた写真を借用願えないか、と問い合わせがあったのである。
私は快諾し、12月13日に本が出版の運びとなった。無報酬かつ、本すらももらえなかったが(悲)。
まぁ、自分の名前が市販の本に掲載されるのはおそらく初めてなので、これはこれで良い経験だ。 |
2017/12/14 (Thu.)
四度目の九十九谷 晴れ@君津市
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沢沿いを下るも途中で行き詰まり撤退 |

里山の地蔵 |

神野寺奥の院の天狗面 |
今日は、9月以降4度目の九十九谷遠征をする。
熊調査のためではなく、九十九谷から鹿野山神野寺に至る山行を完遂したいがためである。
今日は昨日購入したオリンパスのデジカメを投入する。GPSのログをオンにして、行動軌跡も取る。
空は冬晴れ。いつものように九十九谷公園に車を停める。新日鉄の白渓山荘脇から山に入り、沢に降り、林道を横切ってしばらく沢沿いを歩き、ロープ場から山を登る。
熊らしき獣に遭遇した地点を過ぎてさらに進む。「展望台」と書かれた小さな案内板が時々出てくる。それに従って歩くも、またまた道を見失う。というか、いくつか山道が枝分かれしているのだ。山道というか、けもの道のような踏み跡もあり、本流と思われる道をなるべく選んできたつもりだが、度々道を見失うことになる。見失っては引き返したり、そのまま進んで再びそれらしい道に出たりする。
そうこうしているうちに進んできた道は再び別の沢に降りる。そこから沢沿いを進むが、途中で道が消失する。
地形図を見ると、沢沿いに下れば、舗装道路に出れることになっている。沢をへつり、巻きながら進むも、やがて行き詰まる。へつれなくなり、巻けるような両岸でなくなった。房総の沢らしく、水量はごく少ないが、普通の山靴ではすぐに濡れてしまう。沢沿いの山のなかを歩くのはえらく難儀だが、沢は平坦なので、沢を下るのが一番簡単である。沢靴さえあれば履き替えてこのまま沢を降りるのだが、今日は沢靴も替えの靴下も持ってきていない。
仕方なく引き返す。沢に降りた地点から逆方向に歩くと、また別の道を見つけた。方向的にはこれを再び登っていけば何とかなりそうである。
登る。きちんとした道である。作業道やけもの道ではない。しばらく歩くと、念願の案内板、しかも、「田倉林道」と書いてある。この林道こそ、目指す林道である。
道を見つけた安堵感から、昼飯にする。午後1時近い。沢で道が分からなくなったあたりから、ちょっと焦りが出ていて、飯の時間ももったいなく歩き回っていたのである。
なにしろ、このごろは午後4時半になればもう日没である。夜の山を彷徨うわけにはいかない。夏ならまだしも、冬のビバークは勘弁だ。
飯を食って一服し、歩き再開。だが歩いているうちにまたもや違う道に入ったらしい。だが道は集落まで降りており、民家が点在する舗装道路に出た。田倉林道かと思ったが、その道をずんずん進むと、唐突に大きな国道に出たので、自分が今どこにいるのかが再び分からなくなる。
2万5千分の1地形図を凝視する。どこからどう来たというのか。よく分からない。だが、幸いなことに、「関東ふれあいの道」の案内板があったので、国道を横切って鹿野山方面に進む。
で、鹿野山林道に出て、ようやく自分がどう歩いてきたかを理解することができた。
始めの方で「せりおおはし」なる橋を渡ったのだが、それは、本日の予定ルートより大分南にある「芹」という集落内の橋であった。想定よりもずっと南に下ってしまっていたのである。
現在地が分かってよかった。あとは鹿野山林道を歩いて、鹿野山トンネル脇から再び山に上がって、尾根道を神野寺に向けて登っていくだけである。
鹿野山トンネルの脇から山道に入り、トンネルの上を尾根まで急登する。
そこからは尾根道を北上する。途中、水路のようなコンクリート構造物が崩壊している。
神野寺が近づくと、右手がゴルフ場となる。見上げるとゴルファーがカートに乗って移動している。
それを横目に見ながら歩くと、鹿野山ビューホテルというホテルが、ゴルフ場の芝生の向こうに見える。そしてすぐに舗装道路に飛び出る。左に行けば神野寺、右がホテルとゴルフ場である。
神野寺は立派な神社である。山門と本堂は丹色をしているが、派手な赤ではなく、古さのためか若干くすんだ赤である。
本堂裏の甕の水が凍りついている。寒いはずだ。
近くにいた工事のおじさんが私に話しかける。彼曰く、神野寺は嘘か誠か、聖徳太子時代からの古刹だという。そして、参道に居並ぶ石燈籠は、徳川家ゆかりのものだという。なるほど、徳川の三つ葉葵の紋が入っている。真偽は分からない。
ここで新調したオリンパスのデジカメのバッテリーが切れる。なんという短寿命であろうか。GPSログを取っているため、電池の消耗が早いのは分かるが、それにしても1日もたないとゆゆしき問題である。ソニーは昔から小型化・スタミナ性能に優れているが、オリンパスはスタミナ性能ではソニーにはかなわないのだろうか。バッテリー容量の問題だろうか。
いずれにせよ大いなる失望。換えのバッテリーを買わねばならない。
寒風吹きすさぶなかを神野寺から九十九谷公園に向かって歩く。途中、鹿野山ゴルフクラブが左側に広がっている。日没が近く、プレーしている人はいない。
九十九谷公園に帰り着いたのは午後4時。日が暮れかけている。西日に照らされた九十九谷を眺める。
九十九谷 山行 写真集
家に帰り、デジカメで記録したログを見てみる。よい。どう歩いたかがこれでようやく頭の中で確定する。そして、自分がどう迷ったか、特に沢あたりでの行ったり来たりが、無情なくらいに何本もの乱れた線となって地図上に表示される。これと撮影した写真を見れば、山中で迷った時の心の焦りが蘇ってくるではないか。 |
2017/12/13 (Wed.)
デジカメ購入 晴れ@千葉市
今日は、新しい防水デジカメを購入した。オリンパス製。
ソニー製以外のデジカメを買うのはこれが初めて。オリンパスの製品を買うのも生まれて初めてだろう。以前書いたが、愛用してきたソニー防水のコンパクトデジカメが、いくつか不具合があって修理に出したのだが、「もう保守部品がないので修理できません」という。購入したのが2010年、しかも生産終了も2010年で、保守部品保有期間は5年間。よって、2015年を過ぎると、もう修理できない、というのである。まったく腹立たしいこと半端ない。
とても気に入っているデジカメなので、もっと使いたいのだ。まぁ、壊れてしまったわけではなく、一部の機能が使えないだけなので、まだ使おうとは思っている。
そこで、アウトドアで過酷な環境下で使うことを想定し、新しい防水デジカメを購入することにした。上記の修理不可のソニーのデジカメも防水なのだが、チャチな防水で、以前沢の冷たい水中で何度か撮影したら、その後レンズが曇ってしまった。数週間で曇りは取れたが、それ以来もう水の中に入れるのをはばかっている。
防水デジカメの機能をいろいろ調べ、最終的にオリンパスかゴープロかで迷ったが、ゴープロは動画中心であり、どちらかというと静止画の方が撮る機会が多いので、オリンパスにした。このカメラのいい点は、防水などのタフ性能もさることながら、GPS機能が付いていることである。ナビゲーションはできないが、カメラがGPS信号を記録し、あとでパソコンなどでログを確認でき、その日の山行や沢行を地図上でたどることができる。これはいい。
一方で欠点は、大きいことである。コンパクトデジカメだが、かろうじてポケットに入るくらいの大きさである。いままで使っていたソニーのデジカメは、するりとポケットに入るほど小型だったが、このオリンパスは、ポケットに入れると、急な斜面などを登るのに、ポケット内で邪魔に感じるかもしれない。
購入前、修理についてオリンパスに問い合わせてみたが、結局、オリンパスでも、保守部品の保有期間は、デジカメの場合生産終了から5年間だという。ソニーと変わらない。
醜悪なメーカー談合である。
ユーザー視点というものがまるでない。メーカーは、大切に長く同じ製品を使うユーザーを好ましく思っていないのである。壊れたらそいつをゴミにして、次の新製品をどんどん購入してほしいのである。彼らは、自分が儲けることしか考えていない。 |
2017/12/10 (Sun.)
愛宕山(あたごやま) 自衛隊基地開放日 晴れ@南房総市
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習志野の第1空挺団の落下傘を背と胸に担ぐ。背に担ぐのが本パラシュートで
重さ20kg、胸に抱えるのが緊急用パラシュートで重さ6kg |

愛宕山山頂 標高408.2m |

愛宕山山頂近くから見た長狭平野と房総の山々。大山千枚田が見える |
「鴨女丼」という海鮮丼。美味い。 |

市原クオードの森のイルミネーション |
今日は愛宕山山頂に立つ。
愛宕山というのは、千葉県の南房総にある県内最高峰の山で、高さは408.2m。
この県最高峰は、47都道府県のうちで最も低い最高峰ということで、要するに、千葉には標高が低い山しかないということである。県外の人間からは「千葉には山がない」と揶揄されている。だが、本ページで何度も強調している通り、千葉の山をバカにしちゃいけない。低山の割には山は深く、谷も深い。
いままで、房総半島でいろいろな山に登ってきたが、まだ愛宕山には登ったことがない。肝心の最高峰にまだ登っていないのはなぜか?
それは、愛宕山山頂一帯は航空自衛隊嶺岡分屯基地が所在し、レーダーサイトとなっており、一般人は許可なく入れないからである。日本一低い最高峰といえども、行きにくい場所であると言えよう。
よって、愛宕山山頂に立とうとすれば、事前に自衛隊に連絡して予約し、基地の門から自衛隊員同伴のもと登ることになる。基地はレーダー基地だけに山頂周りに建設されているのである。自衛隊員も業務中に一般人に付き合って登山するなど、業務が暇なのかいな?と皮肉りたくもなるが、これも一般人に対する配慮、サービスだと思えば好ましいことである。なお、愛宕山山頂は、基地内に入ってしまえば、15分程度ですぐに到達できるようなので、業務に大きな支障はないに違いない。
なぜ今日行くことにしたのか?それは、今日、年に数回の峯岡基地開放日で、一般人が基地内に入れるイベント日なのである。
基地には、麓の長狭小学校から無料シャトルバスが出ている。友人3人と車で行く。指定された駐車場に車を停め、大型バスに乗りこむ。人が多い。バスは満席。たくさんの人が基地イベントに参加するようである。何台ものバスがピストン輸送している。
駐車場では、迷彩服を着た自衛隊員たちが、車の誘導やバスに乗りこむ人の案内をしている。
バスは愛宕山を登り、15分ほどで基地に到着。
基地にはヘリコプターや対空砲車、兵員輸送車などが展示されており、運転席に乗れるようになっている。自衛隊員がいろいろ説明してくれる。
「これ、パトリオットですか?」
「違います」
早速、自衛隊員の頑丈なヘルメットをかぶって、対空砲火車両の前で記念撮影。
北朝鮮からミサイルが飛んで来たら、ここのレーダーが活躍するのだろう。
建物が多い。事務棟のような建物は4階建てくらいあり、その他に体育館もある。
体育館では、入間基地から来た自衛隊員たちが、和太鼓の演奏をしている。ここ嶺岡分屯基地は、航空自衛隊入間基地の分屯である。
習志野から来た陸上自衛隊第1空挺団は落下傘装備を展示していて、それを体験装着できる。パラシュートを収めた背嚢は20kgもありそれを背に背負う。万が一それが開かなかった場合に備え、緊急用パラシュートを胸側に装備するのだが、これも6kgある。これらを担いで飛行機からダイブする。スカイダイビングでは高高度から落下するのだが、自衛隊の落下傘部隊は300m程度の低空から降りるため、パラシュートは輸送機から飛び出すと同時に開くようになっているそうである。
パック3ミサイルの形をしたゆるキャラが子供たちを迎えている。「パックさんP太」というらしい。いざという時に死を賭して国を守る自衛隊員が、こんな仕事もしているのかと思うと泣けてくる。
腹が減ったので出店でお好み焼きを買って食べる。ボリュームがあり500円。焼きたてだし、良い。
腹が満たされたら、愛宕山の山頂に登ることにする。体育館の脇から舗装道を歩き、愛宕神社に登る山道に入る。愛宕神社は、奈良時代、行基がこの地に入ったことが由来となっているそうである。
神社を過ぎて進むと、山頂はあっけないほどにすぐである。体育館から15分ほど。
山頂では、自衛隊員が「千葉県最高峰 登頂証明書」のカードを配っている。無料。いい。
山頂付近にあるレーダー関係施設の撮影は禁止。
山頂から少し降りたところに広々とした芝生広場があり、ここから北方面展望が完全に開けている。長狭盆地と房総の峰々が目の前にパノラマ展開している。素晴らしい眺め。
左下には大山千枚田、東京湾の手前には鋸山、その他房総郡界尾根の山々が左から右にずっと連なっている。残念ながら富士山は見えない。
大ぶりでずっしりと重い高倍率双眼鏡がいくつか設置され、それで遠くを見れるようになっている。さすが自衛隊。
家族連れが多いから、子供たちは楽しげに双眼鏡をのぞき込む。
この広場内に、巨大な球形のレーダーが設置されている。
上空ではブルーインパルス的戦闘機のデモ飛行が展開される。さらには、アパッチ的攻撃ヘリコプターが低空を飛行し、私たちは歓声を上げる。
2時間弱基地に滞在し、バスで山を下りる。帰りのバスも満席。
この自衛隊基地の開放日は、自衛隊と自衛隊員を身近に感じるイベントとして実に有意義だと思うのだが、願わくば、もっと自衛隊員の日常を見せるような展示があっても良かったと思う。日課とか、訓練とか、食事はどんなものを食べているとか、休日は何をやっているとか。
昼飯は、鴨川市に移動し、行列ができる海鮮の店、名代亭(なだいてい)。もう1時半近いが、まだ並んでいる。我々が並んですぐに1組の客が出て、我々の前に並んでいた客が入ったので、割とすぐに入れるかなと思ったが甘かった。延々30分以上待つ。そうこうしているうちにネタがなくなったらしく、我々と後ろに並んだ老夫婦をもって今日は閉店、ということになった。
店に「今日はおしまい」の表示が掲示されてからもまだ待たされる。要するに、客が出てこない。まだ食べてないのか、それとも食べ終わったのにダラダラ滞留しているのか。
45分くらい待って、ようやくバイクツーリングの客がぞろぞろと出てきて、やっと入れる。
「鴨女丼」という海鮮丼を頼む。飯にありつけたのは2時半。並び始めてから1時間後であった。
海鮮丼は美味かった。それぞれのネタが新鮮なのだろう。ご飯の量も多く、1200円と高価だが価格通りに満足できる内容。
飯のあとは、市原市のクオードの森へ。ここは市民の森公園となっており、山の中に遊歩道がつけられている。
遊歩道を歩く。園内には川が流れていて、そこに手掘りのトンネルが掘られている。
紅葉の中、木板の歩道を歩いていくと、山に擬木の階段が上がっている。登る。なかなか急な階段でキツい。登った後も尾根道が続く。公園なのに本格的な登山道のようである。
歩いているうちに午後4時が過ぎ、日が暮れてくる。
やっと山を下りて元の道に戻ったのは午後5時前。
入口方向に戻ると、クオードの森の目玉、イルミネーションが今にも点灯するところであった。このイルミネーションを見に大勢の人が集まっている。
午後5時、外はすっかり暗くなった。案内人のカウントダウンとともに、一面のイルミネーションが点灯する。
イルミネーションが一斉に点灯する瞬間を見る人はあまりいないと思うが、ここでは、それを見せることを一つの売りにしている。
田舎のイルミネーションは都会と全く違う趣である。都会にはもともと光が多く、そのベースの光をイルミネーションが上塗りするのだが、周辺に光が全くない田舎でのイルミネーションは、その鮮明さが都会とは全然違う。そりゃそうであろう。ホタルの光は暗闇のなかでこそ美しいのである。
様々な色を駆使したイルミネーションは素朴であるが美しい。地面を湖に見立てて、青一色の波のようなイルミネーションの周りを、富士山や滝、光のゲートなどの装飾の光が囲む。これを見るために多くの人が集まっているの頷ける。
いいものを見た。
車で帰途につく。先日も通ったが、すぐ近くの月崎駅のライトアップを通り過ぎる。
小湊鉄道の各駅は、趣向を凝らしたイルミネーションで装飾されている。
小湊鉄道は、クオードの森とも提携しているようで、月崎駅からクオードの森へのバスを運行している。
SLやイルミネーション列車など、様々なイベントを展開する小湊鉄道は、その路線が通過する各市町村の町興しともコラボし、人々を楽しませ、観光客を増やす努力を怠りなくやっている。好ましい。
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2017/12/7 (Thu.)
小坪井沢上向〜トンネル完抜〜本坪井沢下降 沢登り 晴れ@君津
小坪井沢。ナメ床の沢が続く |

トンネルに続く小坪井沢の支流筋 |

房総の山奥に口を開けるトンネル |

トンネル内部のフラッシュ撮影 |

トンネル内の待避所。コウモリがぶら下がる |

本坪井沢側のトンネル出口。上にかろうじて口を開けている |
本坪井沢側のトンネル坑口は、土砂と倒木でふさがれてしまっており、
外からは判別できない |
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本坪井沢源流部にある滝 |

月崎駅のライトアップ |
今日は先週(11月29日)に果たせなかった、坪井沢の奥のトンネルをくぐりに沢を登る。
概要は先週と同じなので前説は省くが、同じように車を停め、同じようにメガソーラー工事現場に入り込み、同じように沢に降りる。
靴を履き替え、本坪井沢と小坪井沢の合流点から遡行開始。午前9時50分。
天気はいい。先週同様晴れているが、先週に比べると気温がだいぶ低い。今日の予想最高気温は10℃くらいのようである。
今日は本坪井沢ではなく、小坪井沢のほうを遡上する。
小坪井沢も平坦な谷で、先週遡行した本坪井沢よりは沢床が狭い。ナメが続く。 房総名物、洗濯板状の凸凹ナメ。水量は少ない。ほとんど流れがない。深くてもせいぜい足首くらいの深さである。だが水に入るとさすがに冷たい。足先が冷えてくる。できるだけ水に入らずに歩く。
両側の斜面は切り立っていて、ゴルジュ状となっている。崖の高さは時に数10mと高く、時に低くなる。
ナメ滝が出てくる。ナメ滝の下には割と深い壺がある。1mくらいあるところも出てくるが、避けて滝に取りつける。この陽気で腰までの水には入りたくない。
沢にも落葉が多い。茶や黄に色づいた枯葉が沢を敷き詰めている。
再度説明するが、この小坪井沢には、昭和の戦前・戦後期に、伐採した木材を運搬するためのトロッコ軌道があったという。この沢沿いを木製の橋脚に支えられたレールが、笹川湖の方まで敷設されていたというのである。そして、その軌道は、小坪井沢の上流部で支沢に入り、その先の岩塊に穿たれたトンネルをくぐって、さらに本坪井沢の本流まで伸びていたというのである。沢沿いのトロッコ軌道と山奥のトンネル。いまでは痕跡はほとんど残っていない。
唯一、橋脚杭を立てたと思われる人工の丸い穴が沢床の端にところどころ残っているのみである。
いくつかの大きな支沢が入る。ずんずん行く。だが、2時間近く登って来たがまだトンネルのある支沢には着かない。そうこうしているうちに沢は源流めいてくる。水の流れがなくなり、倒木が目立ち、さらに決定的なことには、沢は細流となってずんずん尾根に向かって登り始めてしまったのだ。
これはいかん。明らかにもう過ぎてしまっている。
沢を戻る。もう12時だ。支沢が入るたびに支沢の方を少し上がってみるが、違うようである。
そのようにいくつかの支沢の出合を過ぎ、だいぶ戻ったところ。
なんと、ここに小さな案内板を見つけた。先月の保台古道にあった案内板のごとく、カマボコ板で作ったような小さな小さな板に、「トンネルへ→ 長さ約300m」と書かれている。
もう少し大きな案内をしてほしかった・・・・。
まぁ、仕方ない。どの支沢かをきちんと認識していなかった自業自得と言えよう。
それにしても大幅に時間をロスした。この支沢には、遡行開始してからおそらく1時間くらいで着いていた。それがもうすでに2時間以上が経過している。1時間以上はロスした。
気を取り直して支沢を上がる。例のトンネルは、小坪井沢の支沢と本坪井沢の支沢をつないでいる。
いきなり倒木と岩が行く手を阻む。これを超えるとしばらくは平坦な廊下状となる。水はない。支沢なので本流よりはだいぶ狭い。このあと次から次へと倒木が出てくる。
それらの倒木を切っては投げ、投げては切っていると、いままでで一番大規模な倒木帯が現れる。
なんとかそれを超えると、ついにそれは現れた。
それは、房総の深奥、山と川と森の中に、黒い口を開けていた。
今は跡形もなく消えた軌道が存在したことを証明する、確固たる証拠である。
いまや、人気の全くない山奥である。沢も山も、太古からの自然の営みを営々と続けていたようにしか見えない。それが、昔は木造構造物の上をレールが敷かれ、トロッコで山人たちが木材を運んでいた様子を想像するだけで頭がジーンとしてくるではないか。こんな山のど真ん中に、人間の活気があったことが、今となっては信じられない。100年も経たないうちに、人間の痕跡はほとんどすべてが消滅した。人間の造ったものは、自然の中ではあっという間に廃物になってしまう。それだけ自然の営みは、ダイナミックだということだ。
そんなことを考えながら、呆然としてトンネルの坑口を見つめる。脇からさらに細い支沢が入っている。このトンネルは、小坪井沢の支流と本坪井沢の支流の間にある岩塊を掘り抜いたものである。
しばらく呆然としたあと、リュックの中からヘッドライトを取り出し、ヘルメットに装着する。
いよいよこのトンネルをくぐり抜ける。
このトンネルの坑口だけは、かつての賑わいをかろうじて留めるものであるはずだが、もう周りに人工物がなくなってしまった以上、この坑口は、外から眺めた限りにおいては、ただの自然の岩塊に口を開けた洞穴としても通用しよう。
そういう意味では、いまとなっては跡形もないトロッコ軌道の痕跡であるこのトンネルは、いまや周りの大自然に溶け込み、それほどの違和感を与えないことは、自然の営みのダイナミックさと巧妙さ、包容力を表現するものである。
だが、中に入れば、それは確かに人が造りしモノであることがひしひしと伝わる。
入口の高さはおよそ2m、幅も2m。中に入ってしばらくすると、出口の光が、かすかに見える。
当然真っ暗である。下は泥濘でぬかるんでいるが、歩行に困るほどではない。中を歩くうち、どんどん天井が高くなる。入口には土砂が堆積し、見かけ上高さが低くなっていたのだ。本来の高さは、3mくらいあるだろう。
途中、側壁を1m四方くらい穿った空間が掘ってある。鉄道につきものの退避所だという。
天井が白く光っているように見える。ライトを向けると、銀色の筋が天井を走っている。なにか地層のようなものだろうか。
コウモリの気配は感じなかったが、構内で撮った写真を後から見ると、マントを巻いたようなコウモリが、逆さまに釣り下がっているのが確認できた。彼らは、前述の待避所の天井が好みらしく、そこに多くぶら下がっている。写真には10数匹のコウモリが写っていた(右写真には2頭のみ。人間が入って来たから逃げたのかしら?)
300mの隧道。長い。建設から100年くらいあと、坑内の暗闇にいると、こんな山奥によく造ったものだという思いと、それが人が去った今でもひっそりと存在していることに感慨を感じる。
出口の光は弓型で細く、なにかが坑口を塞いでいることが想像される。
300mを歩き、ついに出口にたどり着く。入った側の光は、ここからもはっきりと見える。ほぼ直線のトンネルである。入った側は近くに倒木があるものの出口自体はふさがれていないので、光がよく見える。
でこちら側の出口。土砂と倒木でなかば塞がりかけている。下には土砂が堆積し、3mほどもあった天井が低くなっている。
坑口は正面がもう塞がっていて、上部に向かって開いている。上を見上げると太い倒木が塞いでいる。洞穴のなかから空を見上げるような形である。
これが割と出にくい。折り重なる巨大倒木の隙間の空間に身体をねじ込んでなんとか外に出る。
外から見ると、何本もの巨木が完全に坑口を塞いでいて、坑口は判別できない。本坪井沢の支流筋から少し上がったところに坑口が掘られているのだが、この支流筋に土砂や倒木が流れ込んで塞いでいる形である。
このトンネルから50mほどですぐに本坪井沢の本流である。水の流れはない。
すでに午後1時15分。ここで昼飯。
ここは先週到達した地点かどうかは不明。なにしろこの谷は似たような景色が多く、目印となる地形が少ない。
食後、上流に滝があるというので少し登ってみることにする。すぐに滝が現れる。高さは3〜4mある。この滝には先週出くわしていないので、ここは先週未達地点であることを知る。
せっかくなのでこの滝を登る。水が少し流れ落ちていて、水線を直登する。水が冷たく、水に濡れた手が冷える。
滝上部の沢は、小さな石の河原に日が差し込み、美しい風景をなしている。
ここから本坪井沢を下降し、入渓地点まで引き返すことにする。
滝を降り、沢を下流に向かって歩き始める。
途中から、先週見覚えのある場所に出てくる。
落口にビーバーダム状の倒木が折り重なっている滝、その下のナメ斜滝を降りる。
そして再び水たまり部分にやって来て、再び大高巻きする。
高巻き中、急斜面を下っている最中、すぐ脇に小鹿の死骸があって鳥肌が立つほどビックリする。死骸には血が流れている。斜面を滑落したのだろうか。
この山域がこれだけ鹿天国化しているからには、鹿を捕食する天敵はいないに違いない。すると、血が流れているということは、餓死などではなく、事故死ではないかと推測される。
先週と同様、河原には大勢の鹿が降りていて、たくさんの鹿を見る。彼らは私の気配を感じて慌てて河から斜面を跳ね上がっていく。
入渓地点に戻ったのは午後3時30分。入渓してからおよそ5時間40分。今日は1時間以上時間をロスしているので、このコースを普通に歩けば、おそらく4時間半くらいで完遂できると思われる。
小坪井沢〜トンネル完抜〜本坪井沢下降 ユーチューブ動画
小坪井沢〜トンネル完抜〜本坪井沢下降 写真集
帰り、市原市内にある小湊鉄道の駅、月崎駅がイルミネーションでライトアップしている。山道を走って来て忽然と現れる光の洪水。そのきらびやかさに一瞬口を開けて唖然とする。
山の中のイルミネーションは、暗さときらびやかさの圧倒的落差が魅力である、もっとも、イルミネーションの魅力とは、そもそもそのギャップを楽しむことである。
車を降りて写真を撮る。美しい。 |
2017/12/3 (Sun.)
田代林道〜元清澄山〜三石山 山行 晴れ@千葉

田代林道 |
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元清澄山山頂 |
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展望が開けたところに忽然と現れたメガソーラー発電所の建設現場 |
今日はいつもの友人2人と、房総で一番山深いと言われる元清澄山系を歩く。
まずは片倉ダムへ行き、駐車場に車を停める。
今日は何かの祭りらしく、道の駅ではお父さんお母さんが野菜を並べた店を出したり、大鍋におでんを作ったりしている。
午前10時、歩き始める。
片倉ダムの脇から田代林道に入る。途中いくつもの閉鎖道が枝分かれしている。そのうち本線にもゲートが出てきて通行止めとなっている。車は通れない。人は通っていいのかどうか分からないが、この後に出てきた土砂崩れ現場などを見ると、自治体側としては「歩行者も通行すべきでない」というスタンスは明らかだと思われる。いわゆる「廃道」らしい。
ゲートの脇道を迂回すればゲートは簡単に越えられる。林道は、田代川と近づき遠ざかりしながら蛇行している。三角屋根のログハウスがある。誰かの別荘だろうか。
歩くうちどんどん廃道感が出てくる。相当古いスズキアルトが道端に屍をさらしている。この赤い金属体は、いつからここにあるのだろう。
途中、土砂崩れで岩と土砂が完全に道に堆積している。まさに廃道。これを超える。その後も何か所か土砂崩れや倒木で道が塞がっている。
廃道とは言え、道は確かで、それほど劣化はしていない。一面の枯葉のうえを踏みしめて歩く。冬とはいえ天気がいいので、木漏れ陽の歩行となり気分がいい。
この廃田代林道は長かった。終盤、房総名物手掘りのトンネルをくぐるとようやく、「関東ふれあいの道」に突き当たる。すでに2時間くらい歩いている。
ここから東に登る。しばらく急登すると、元清澄山の山頂に到達。標高344.2m。13時。ちょうど3時間歩いた。
山頂には木製のテーブルとベンチがあり、ここに陣取る。コンロで湯を沸かし、ポタージュを作る。買ってあった弁当と一緒に食べる。そして食後のコーヒーが胃に沁みる。山頂は木々に囲まれているものの、さすがに風が強く、休憩中の体は一気に冷える。暖かい飲み物は最高だ。
我々が山頂に到達したあとすぐに、続々と登山者が上がって来た。おじさん二人組、おばさん二人組、それとトレイルランをしているという若者一人。この若者は今日すでに30kmも走ったという。ちょうど昼頃に山頂について昼飯、というコース計画を立てている人が多いらしい。
おばさん二人組は、土の上に腰を下ろし、ずっとペチャクチャ喋りながら昼飯を食べている。聞くともなしに話を聞くと、単なる世間話である。彼女らの話は尽きない。
飯も食べ終わり、山頂から降りる際、おばさんたちも降りる準備を整えていたので、話しかけてみる。今日は長い山行のようである。見たところ60代のおばさん二人、ここまでの道のりもすでに長いのだが、疲れも見せずケロッとしてる。一人が書き込みをした地図を持っていて、入念にこの山行を準備、イメージしたことがうかがえる。脱帽。
彼女らと同じ方向に降りる。再び田代林道との合流点に出、そこから三石山方面への尾根を登り返す。ここからは「関東ふれあいの道」で、三石山への尾根道となる。いくつもの小ピークを都度回り込みながら尾根を歩く。ピークがたくさんあり、これをいちいち登っていたら相当に体力を消耗するだろうというくらいに尾根上に次から次へと小山が現れる。各ピークにはそれを回り込む迂回路がつけられている。
山道を歩いていて、突然視界が開ける。その光景は目を疑うばかりのものである。
いきなり、唐突に、山の中のメガソーラー発電所の建設現場に出くわすのである。
いままで山の中の樹々と枯葉と土を見てきたところに突然ピカピカに光るソーラーパネルの海が広がるのである。これは「トンネルを抜けたら海だった」的な景色の壮大な転換であり、予期せぬことだっただけにその驚きは半端でなかった。
しばらく3人で呆然として山の中に拓けた人工の景色を見つめる。
山道はこの発電所を回り込むようにつけられている。この発電所に降りてショートカットしたら、片倉ダムに最短で行けるので、「ショートカットしちゃう?」と3人で誘惑にかられるが、やめておく。不審者として警報が鳴ってもつまらない。
だが実は、私は先週、すでにこの工事現場に侵入していた。先週、本坪井沢を遡行するのに、工事現場を通って沢に降りているのである、
やがて山道は発電所を離れていく。30分ほどで片倉ダムから工事現場横を通って北に延びる舗装道路に出る。午後3時50分。
ここは三石山山頂の観音寺入口のすぐ脇である。参拝しようとするも、午後3:50で終了とのことで、ちょうど時間切れでかなわず。
しばらく休憩し、片倉ダムに向けて舗装道路を歩く。メガソーラー発電所の工事現場入口を過ぎると片倉ダム。
駐車場にたどり着いたのは午後5時。冬の日はすでに暮れている。今日の行動時間は7時間。
帰りはいつものラーメンを食べずに千葉に直帰する。
田代林道〜元清澄山〜三石山 写真集
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2017/12/1 (Fri.)
日本の冬 晴れ@千葉
ミャンマーパアン市、2016年1月11日午前7:21の気温、16.2℃ |

ミャンマーパアン市、2016年4月18日午後3:54の気温、45.0℃
(温度計に直射が当たっているので、気温よりは高いと思われる) |
日本は寒い。今年の冬はこれまで、平年に比べてわりと寒いようである
私は今年の3月までミャンマーに3年間住んでいた。日本の冬を越すのは4年ぶりである。
私が住んでいたミャンマー東南部のパアン市では、まぁ感覚的に言って常時25℃以上ある。20℃以下に気温が下がるのは、12月〜2月の朝晩だけである。このときの最低気温は15℃くらいであろう。
一方、3月〜11月は、日中常時30℃以上ある。特に暑さが厳しいのが4月と5月で、最高気温は40℃以上に達する。
5月、もうダメ、死ぬ、という頃に雨が降り始め、気温は下がり、今度は怒涛の雨季に突入する。この雨季が10月、11月まで続く。
日本の繊細な季節の移ろいとは対照的に、ダイナミックな気候変化である。
さて、4年ぶりの日本の冬は寒くて堪える。友人と出かけても、私は厚着が目立つ。ミャンマーの暑さに慣れたからだろう、寒さ耐性が弱っている感じがする。
人間の環境適応力というか、順応力はたいしたものである。動物は生き延びるためにいろいろな機能を持っている。
しばらくしたらこの日本の寒さに再び慣れるだろう。
ミャンマーでは、気温を表す言葉は「暑い」がベースで、そのベースの上に、「ひどく暑い」、「普通に暑い」、「ちょっと暑い」に分類される。
体感気温というものは多分に相対的なもので、暑さに慣れてしまうと、冬の朝晩の15℃が「ひどく寒い」ということになる。「涼しい」ではない。最高気温が常時35℃ならば、20℃も気温が下がれば、それは「寒い」ということになる。
とはいえ、ミャンマーでは、12月〜2月の冬でも、涼しくなるのは朝晩だけで、陽が出てしまえば日中は30℃近くあるので、服装はペラペラの長そでシャツで問題ない。ところが、ミャンマー人ときたら、朝晩の15℃に耐えかね、突然ジャンパーにマフラーという格好になる。北国かっ!?と突っ込みを入れたくなる。
私の場合は一番寒い1週間くらいトレーナーを着るか着ないか、という感じである。つまり、一番寒くてもトレーナー程度で問題ないのである。寒いのは朝方だけなので、日中はトレーナーを脱ぎ捨てることになる。まぁ、ミャンマー人も日中はジャンパーやマフラーは脱いでいるが。
日本人が0℃〜5℃で感じる寒さを、ミャンマー人は15℃で感じているに違いない。
日本の気候に慣れ親しんだ人間とミャンマーの気候に慣れ親しんだ人間とでは、やっぱり基本的対環境性が違うらしい。
いや、ひょっとしたら、年中暑くていつもペラペラの半袖シャツに半ズボンなどを常衣しているミャンマー人は、少し寒くなるとここぞとばかりに重ね着して、少しでもおしゃれをしたいのかもしれない。
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