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日記
(2011年7月)
2011/7/31 (Sun.)
なぜ野球だけ?


猛暑

ビデオ編集機
2011/7/17 (Sun.)
ゴールデンウィーク in 仙台

夜、草むらを吹き抜ける風がサラサラと草を鳴らす。
猛暑の中の爽やかな涼風。
だけど、セシウムを含んだ風か・・・。

さて、6月は梅雨らしい天気が続いたが、7月に入ってからはいきなり真夏がやって来た。郡山でも連日30℃を軽く超えている。
僕が住む鉄筋マンションというものは、断熱性が高く、夏は最悪だ。外よりも数℃高いだろう。
僕は部屋の窓という窓を全開にしてこの暑さを何とかやり過ごそうとしているが、とても無理だ。汗をダラダラ垂らしながら部屋にいると、何もする気が起きない。この間行ったバングラデシュよりも高温多湿なんじゃないかと思えてくる。
そんなわけで、僕の部屋の放射線量は、もはや外とあまり変わらないんじゃなかろうか。しかしまぁ、暑さで死ぬことも出来ない。
 
 
 

窓を開けないようにしている人たちにとっては、今年の夏は過酷になりそうだ。7月初旬でこの暑さとは、先が思いやられる。エアコンをガンガンにかけないと耐えられない。暑さだけでなく、放射線との戦い。節電どころの騒ぎではない。
ちなみに僕は、ほとんどエアコンをつけない。去年の酷暑も、クーラーは一度も使わなかった。

ところで、今年のゴールデンウィーク、5月1日〜2日の2日間、バングラデシュに行く前、僕は仙台に行った。そこで会社の元同僚の伊藤氏と数年ぶりに再会し、被災時の話を聞き、被災地を回った。
日常が奪われ、非日常の世界に一変した3月11日。そこから数日間、被災地は、非日常というより、修羅場だった。街なかに死があふれる。この状況は、大災害以外では、戦場しか考えられない。建物は根こそぎ壊滅し、車は流され破壊され、人の死がそこらじゅうに確認される。普段は人目につかないように隠されている「死」が。これを目の当たりに体験した人が、癒しようのないトラウマを背負い込んだことは、その場面を想像すれば容易に推測できる。
3月12日、テレビで津波が街を飲み込んでいく様子を見て、何か、映画の1シーンのように、すぐには現実視できない部分があったが、その濁流の中で多くの命の灯が消えたことに対して、しっかりと想像力を働かせる必要がある。

国の命令で、「戦争に行って人を殺して来い」と言われるのも嫌だが、津波で人々が飲み込まれていく有様を見るのも辛い。
僕の仙台の元同僚たちは、建物の6Fに逃げ込み、ここで津波が猛威を振るう様子を何も出来ないままに眺めた。その後、助けを求めて何人もの人々が建物にやって来、一命をとりとめた人も多かったという。長い人で3日間この建物に閉じ込められたらしいが、夜など、助けを求める声が、どこからともなく、電灯の消えた真っ暗闇の下界から聞こえてきたという。

その後も、当時の様子については、仙台で被災した他の元同僚からいろいろな話を聞いた。自然の猛威の前で、人は簡単に命を落とし、人の造りし物は、造作もなく崩壊する。

仙台で僕は、仙台、多賀城、七ヶ浜と、昔僕が庭にしていた場所を回った。仙台駅前の繁華街である名物アーケードを歩いた限りでは、震災から2ヶ月経ち、店はほとんど開いていたし、人々の賑わいも僕が仙台にいた頃とほぼ変わらないように見えた。
しかし、海沿いの地域は、壊滅していた。車は道端に大破した状態で放置され、累々とその死骸を横たえていた。どうやったらその態勢になるの?というくらい、あらゆる状態で車はやられている。木の上のほうに引っかかっているものもある。
潮の匂いに加え、海から上がってきた汚泥の悪臭が辺りを包む。
昔会社の記念イベントの際にバンド出演した場所、「夢メッセ宮城」も建物は残っていたが、壊れるままになっていた。
よく買い物に行っていた会社近くのジャスコも、震災以来ずっと休業。ここから海まではすぐ近くで、ほとんど障害物がないため、津波が一直線にこのジャスコを直撃したことは容易に想像できる。ジャスコにも多くの人が逃げ込んだそうである。
用水路には、流された車や瓦礫がはまり込んであふれかえっている。重機でも不可能なくらいに車はぐにゃりと曲がったり、原型をとどめていなかったりする。電信柱が倒れ、信号機が倒れ、街路樹が倒れ、そのままになっている。

僕が通っていた会社では、連日一部の社員が出社し、泥、瓦礫撤去、機材の清掃作業を続けている。電気もまだ復旧していないので自家発電。最近ようやく昼には弁当が準備されるようになったそうである。隣にあったセブンイレブンもやられてしまったが、移動冷蔵車で品物を運んできて、駐車場でおにぎりやサンドイッチの簡易営業を始めていた。
会社の駐車場には、社員の車や、海の方から流れてきた車の大群が所狭しと並んでいた。いずれももう二度と乗れそうにないほど破壊されている。
七ヶ浜の海沿いの地域は、壊滅状態。瓦礫がちょっと動かされて、ようやく車が通れるくらいの道がついていた。変わり果てた風景。僕が住んでいた会社の寮は、太平洋を見下ろす高台にあるので、海にはすぐ近いけれど被害を免れていた。
とにかく、色んなものを見た。日常であればあり得ない光景、生まれて初めて見る光景ばかりを。
多くの人の命、記憶、思い出が失われた。

5月2日の午後、僕は多賀城市内で車を路肩に停めて写真を撮っていた。するとガシャンというすごい音がして、振り返ると、原チャリに乗った男が、僕の車の右のドアミラーにぶつかって、ドアミラーを粉々に吹き飛ばしていた。さらに、ドアミラーにぶつかる前、原チャリのスタンドかキックバーが、右後ろのタイヤに突き刺さったのだろう、タイヤが完全にパンクしていた。
ドアミラーにぶつけた左腕を押さえながら、男は僕に謝ってきた。
僕は、車を誰かの車にぶつけたこともないし、誰かにぶつけられたこともないので、このときは怒るというよりも、車が破壊されたことが結構ショックだった。ボロボロの車ではあるけれど。
この男性の名前はOさん。警察は呼ばず、タイヤとミラーを弁償してもらうことで示談成立。まずタイヤをスペアタイヤに換え、原チャリのOさんと連れ立ってタイヤ屋に向かう。被災後のゴールデンウィークだけあって、ほとんどの店が閉まっている。が、国道45号線沿いの割と大きなタイヤ屋が営業していた。ここで僕が履いていたブリジストンのスタッドレスを1本買う。型は違ったけど、まぁ仕方ない。8300円。
次に、Oさんは原チャリをタイヤ屋に置き、僕の車に乗り込み、扇町にあるホンダカーズに一緒に向かう。ゴールデンウィークでも車のディーラーはやっていた。僕の車は古いので、当然のごとくドアミラーは取り寄せとなるという。仕方ないので、郡山に帰った後修理することにする。
Oさんの名前と住所と電話番号を控え、郡山で修理した後、領収書を送るので銀行口座に振り込んでもらうことで同意。

仙台の街なかには、被災してグチャグチャになった車がいたるところに散乱し、積み上げられていて、この中に僕と同じホンダインテグラはないかしら?と探してみたくなる。当然ながらドアミラーが無傷な車も相当ある。僕のインテグラは古すぎてないにしても、型が合うドアミラーが探せないかなぁ、と不謹慎にも思ってしまう。どうせこれらはすべてが廃車なのだ。だが、保険とか被災証明の関係で、当然のことながら、これらの車を分解したりすることはできない。窃盗やね。
ちなみに、これらの放置された被災車には、所有者が分かっている場合はその旨の張り紙がしてある。

Oさんとは結構話をした。僕より5歳年上。多賀城市内のアパートで被災し、アパートは津波でやられ、一時避難所にいたが、今は知り合いのところで生活しているという。そんな彼から金をふんだくることに若干の心苦しさを感じるが、それとこれとは話は別。明らかに彼の過失である。
ホンダカーズからタイヤ屋に戻る。結局右のドアミラーは直せなかったので、Oさんに言われ、ドアミラーの残った骨組みに、粉々に割れた鏡の一部をガムテープで貼り付けて、急場を凌ごうとしたが、角度的にこれではほとんど後ろが見えなかった。
Oさんとはここで別れる。
郡山への帰り道、極力車線変更をしないように運転する。
郡山に帰還後、バングラデシュ旅行へ出た。ミラーを修理したのはその後。ドアミラー丸ごと交換で、5万円。僕の車の右ドアミラーは、メーカー在庫が6個しかなかった。危ない危ない。
左のドアミラーも動きが悪いので、ホンダカーズの人には、「在庫がなくなる前に換えたほうがいいのでは?」と提案されたが、5万円も出せるか!と一蹴。

Oさんに手紙を送り、領収書と僕の銀行口座を伝える。数日後、彼は僕の口座に入金してくれた。
もう彼に会うこともないだろう、ちょっと不思議な一期一会。
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