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日記
(2011年3月)
2011/3/30 (Wed.)
震災募金活動

千葉にいる頃、駅前では多くの人々、NGO/NPOや高校生たちが、街頭募金活動をしていた。そして、あらゆる店で、募金箱が置かれている。
スポーツ界、芸能界では募金やチャリティー活動が盛んだ。昨日のサッカー日本代表対Jリーグ選抜の試合、久々のカズダンスには、不覚にも感動した。もってる。僕は、僕が知る限り、過去から現在までの日本代表FWの中で、カズこそ最も決定率の高いストライカーだと思っているが、その面目躍如。
石川遼は、今年の獲得賞金全額を義援金とするという。賞金以外にも、CMなんかでうなるほど儲けている彼は、賞金を寄付しても生活に困らないのだろうが、やはりその心意気には打たれるものがある。
さらには、イチロー、松坂、ダルビッシュ、ユニクロの社長、等々。
今回の桁違いの義援活動は、震災の被害もまた過去にない桁違いのものであることを、皮肉にも物語っている。
2011/3/27 (Sun.)
東北関東大震災

2011年3月11日金曜日、宮城、福島、茨城県沖を震源とする大地震が発生した。この地震は、すべてを一変させた。多くの人々の命が失われた。生き残った人々も、その家屋や財産が奪われ、以来避難所生活を余儀なくされている。
スーパーやコンビニから食料が姿を消した。24時間のコンビニが閉店する。ガソリンも全くない。ガソリンを入れるのに何時間も並ぶ。今まで利便にどっぷりと浸かった僕たちは、とたんに右往左往してうろたえる。
そして、今まで「何があっても絶対に安全」という謳い文句の元に、いかなる緊急事態をも考慮し、完璧な安全装置を備えていたはずの原子力発電所からの放射能漏洩。安全神話はもろくも完全崩壊、人間の想像力が、自然の前ではいかに乏しいものであるかが再び明らかとなった。


3月11日、小山市の避難所

3月11日の午後2時46分、僕は出張先の栃木県下野市にいた。事業所の2階で打ち合わせを終えて休憩ロビーにいるときだった。震度5強の揺れに、本当に建物が倒壊するんじゃないかいう不安が、机の下で一瞬よぎった。壁や天井の一部が落下してくる。横揺れが数分間続いた。地上のものすべてを弄ぶように、地面が生き物のように動き続けた。もちろん、今まで初めて体験する類の揺れである。今後死ぬまでもう二度と体験したくない揺れである。大地が荒れ狂っている。
5分後くらいに再び大きな揺れ。机の下へ。
揺れが収まった後の建物は、いたるところが破損し、ヒビが入り、剥がれ落ちている。社員はすべて外に避難。コンクリートの平地で座り込んで危険が去るのを待つが、余震は間断なく襲ってくる。ケツを地面につけていると、地震が来る前触れが肌で感じられる。始め細かく突き上げるような高周波の振動が前触れで、その後大きな横揺れが続く。駐車場の車は、おもちゃのように前後左右に揺れている。ポルターガイスト現象で今にも無人のまま動き出しそうな雰囲気である。
しばらく携帯も全くつながらなかったが、徐々に情報が入ってくる。マグニチュードは8.4、宮城県は震度7、郡山は震度6強だと言う。何ということだ。

1時間ほど外にいた後、おそらくもう大丈夫だろうと言うことで食堂に入る。ここは平屋なので比較的安全らしい。で工場長から発表があり、今日の業務は終了(当然だ)、ここの社員は課長以上がリーダーとなって明日以降のことを話し合い、出張者は、車で出発することになった。郡山からの出張者がかなりいて、郡山まで車で戻るグループと、東京方面に行くグループとに別れる。僕はいつもであれば郡山へ戻るのだが、今週末は東京で髪を切ることにしていたので、東京組に加わる。郡山へ戻る人は25名程度、東京組は10名ほど。

事業所の食堂で、従業員の人たちがおにぎりを作ってくれる。一人一つのおにぎりと、災害用の水のペットボトル。これらを携えて出発。東京組は、小山駅までバンで送ってもらう。下野の街は、建物が倒壊しているとか地面に大きな亀裂が入っているなどということはない。だが、停電のため信号が点灯していないので、いたるところで大渋滞となっている。コンビニでは食料を求める人々が押し寄せている。スーパーの前では、余った食材だろう、無料で配っている。冷蔵も冷凍も出来ないのだ。この大きな地震では、すぐには電気は復旧しないだろう。

20分ほどで小山駅に着く。だが、電車は全く動いていない。仕方なく僕ら5人は、西口に歩く。レンタカー屋は長蛇の列。徐々に日が暮れてくる。寒風が強くなってきて、外は寒い。ホテルの部屋を探すも、各ホテルでは電気がないため営業を出来なくなっていて、どのホテルも「今日の宿泊は出来ません」との張り紙を出している。そんな中、あるホテルに頼み込んで、ロビー奥にあるレストランで休ませてもらえることになった。
日が沈み、停電の室内は真っ暗となる。15分に一度くらいの間隔で、地震が来る。ホテルの人はとてもいい人で、レストランに避難した人々に、懐中電灯、毛布を与えてくれる。ありがたい。次に小山に来たら絶対にここに泊まらねばなるまい。

外に偵察に出ると、街は真っ暗。商店もレストランもカラオケも居酒屋もすべて閉まっている。小山駅の周りに、帰宅できない人々が集まる。真っ暗な街に人があふれるという異様な光景だ。明かりのないコンビニに長蛇の列が出来ている。みんな食料を必死になって買い込んでいるのだろう。電気を燃料として動く街は、すべての機能を停止している。車だけは動き続けている。が、バスやタクシーはほとんどやってこない。長蛇の列がみるみる膨れ上がる。
ホテルには1時間くらいいただろうか、避難所が出来たので、そこに移ったらどうか、とホテルの人が勧める。そこなら情報もあるだろうからとのことだ。これ以上迷惑をかけるわけにもいかず、僕らは避難所に移動することにした。道に迷い、小山市役所で場所を再度聞く。小山第1および第2小学校の体育館が避難場所になっているそうだ。第1はもう人で一杯なので、僕らは第2小学校に向かう。

すでに体育館には70人くらいの人々が集まっていて、後からも続々とやってくる。帰宅できなくなったサラリーマン風の人が多い。入り口で名前と住所を書き、水をもらう。体育館にはマットが敷いてあり、その上の狭いスペースを陣取る。寒い。発電機で照明をつけている。しばらくして、毛布が体育館に届けられた。あまりの寒さに我先にと毛布に群がる人々を、市役所の人が一喝する。
「人数分ありますから、待ってください!まずはお年寄りや子供に配りますから!」
この大地震と寒さでパニック状態になっている人々は、この声でようやく正気に戻る。市役所の人も立派だ。

僕らは毛布に包まり、することもないので眠ろうとするが、僕は寒くて全然眠れない。それにまだ午後9時である。体育館にはもうすでに200人近い人が集結している。体育館ではNHKラジオが常に流れていて、刻一刻と今回の地震の状況が報告され、次々に被害の状況が明らかになってくる。
すると、次はご飯の配給があった。レトルトでお湯を注ぐと温かいわかめご飯が出来るやつ。事業所でもらったおにぎりはさっき食べてしまったので、このご飯の配給はうれしかった。今日は飯食えないと思っていたところで出た上に、暖かいというところが、この寒さの中で身にしみる。カンパンよりも数段いい。
一息ついて腹にもものを入れたので、眠れるかなと思ったが、やはり寒くて眠れない。寒さの中で悶々とする。横になっている間も、余震が続く。そして、午前1時過ぎ。電気が戻った。床に横になって見上げる先、体育館の天井に吊るされた電灯が輝く。そしてついに、待望のストーブが運ばれてきた。計6台の大型灯油ストーブである。これがつくと、体育館は一気に暖かくなり、僕は眠りに落ちた。

寝ている間も四六時中地面が揺れる。午前4時ごろ、かなり強い地震。体育館の屋根は落ちないだろうか。ラジオでは直前に緊急地震速報が流れる。地震後、新潟と長野で震度6強だと言っている。太平洋側だけでなく、日本海側も揺れている。東北全体が鳴動している。

3月12日土曜日
朝7時前に起きる。ラジオは夜中からつけっぱなし、津波の被害が甚大であることを伝える。外に出てみると天気がいい。ほぼ快晴だ。

3月12日早朝、小山市の避難所で説明するJR職員

7時過ぎに体育館にJRの職員が来て、小山駅発着の電車、新幹線は運休中、再開の見込みも立っていないことを告げる。新幹線は小山と郡山間で電柱が倒れ、復旧にはしばらく時間がかかるとの事。しかし、大宮から南の首都圏の電車は、本数が少ないながらも動いているそうで、東京方面に戻るには、大宮まで出ねばならないことが判明する。その後小山市長が避難者の激励に訪れる。市の職員も大変だ。きっと昨晩は徹夜で物資の運搬とか各避難所間の連絡をしていたことだろう。
朝ごはんが配られる。昨日と同じレトルトのご飯だ。こんな状況で、ご飯が出てくるのだけでもありがたい。

小学校の視聴覚室では、テレビが見れた。地震後初めて、今回の大災害の一端を、映像で目の当たりにする。ニュースでは、恐るべき津波が、街を、家々を飲み込んでいく映像が流れている。あり得ない。人の造りし建築物は、こんなにももろく流れ去ってしまうのだろうか。津波の前に、とくに木造建築は全くの無力だ。根こそぎ流されている。茫然自失となる。

僕ら5人は、とにかく大宮まで戻ることにする。手段は、タクシーしかない。自転車という案も出たが、自転車屋が開いてない。ちなみに、小山から大宮まで50kmほどだそうである。
まずタクシーが捕まらないだろうと思っていたが、なんと一台の流しのタクシーを拾うことが出来た。おとなしそうな初老の運ちゃんは、大宮まで行ってくれるという、しかも5人乗せて。
僕らは思わぬ僥倖に笑顔となる。大災害の最中、こんな幸運があってもいい。
道は、それほど混んでいなかった。大宮までひたすら南下。天気がいい。ぽかぽか陽気。大宮までは順調だったが、さすがに大宮駅に近づくと大渋滞。大宮から南しか電車は動いていないので、みんな大宮駅に向かっているのだ。運ちゃんは裏道を駆使して渋滞を避けながら大宮駅に近づく。小山のタクシーの割にはこの辺りの土地勘もあるようだ。

午前11時過ぎ、2時間半ほどで大宮駅に到着。料金は18700円。ここまで運んでくれた運ちゃんに礼を言う。
ここから先は案外楽だった。本数が少ないとはいっても電車はすぐに出発した。僕は西小山に行き、散髪。店長の嶋田さんには大丈夫だったかと聞かれる。郡山は震度6強だったので、家が心配だ。
今日は実家に戻ることにする。本当は中山競馬に行きたかったのだが、当然のごとく週末の競馬は中止となった。関東でも震度5あったというから、地震の規模の大きさが分かる。

3月13日日曜日
今日は何とか郡山に戻りたい。宇都宮までは電車が復旧していたのでまず宇都宮へ。だが、宇都宮からの足が全くない。レンタカーはすべて車が出払ってしまっていて貸してもらえない。高速バスも走っていない。何しろ、東北自動車道が通行止めなので、高速バスも何もないのだ。僕は途方にくれる。一刻も早く郡山に戻りたい。なぜか。僕は来週の土曜日、3月19日から、バングラデシュに旅行することになっているのだ。旅の準備をしなくちゃいけない。だが、今回の大災害は、とても海外旅行どころではないことを徐々に僕に思い知らせてくる。
何とか情報を収集しようと、宇都宮駅東口側にあるインターネットカフェに入る。郡山に戻る手段は、自転車か。
と会社の上司から電話が入り、当面は品川本社に出社せよ、との指示。しばらくは郡山に戻れそうにない。戻りたくても足がないとは。まさかこのような事態に直面するとは、普段は到底想像できない。

3月14日月曜日〜3月18日金曜日

3月14日早朝、計画停電のためすべての列車が運休となりシャッターが下りた
JR千葉駅前で右往左往する人々 ⇔ シャッターに貼られた貼り紙

千葉の自宅から品川に出社。計画停電のおかげで月曜日は千葉駅の電車が動いていなくて出社できず。火曜日は出社できたものの午後2時過ぎには全社員に帰宅指示。水曜日は自宅待機。木、金は通常通り業務。我々の工場は北関東と東北に多く、今回の震災で大きな被害を受けた。特に僕が以前働いていた仙台の事業所は、津波の被害で一時社員たちが孤立した。この様子はテレビでも流れ、心配したが、孤立状態はしばらくして解消され、社員はすべて家に帰れたそうだ。良かった。だが、社員駐車場には波が押し寄せ、車はすべて流されてしまったとの事。保険はきくのだろうか。
原子力発電所の事故が深刻さを増している。「絶対安全」を掲げ、地元住民の反対を押し切って建設を推進してきた原発だが、その安全神話はもろくも崩れ去った。地震には耐えたが、津波には耐え切れなかった。「想定外の津波」というが、放射性物質という超危険なものを扱う以上、想定外では済まされない。結局、「絶対に安全」などということはあり得ないのである。となると原発の建設自体が今後ほとんど無理になってくるのではなかろうか。この事故は全世界の原発関係者、推進派も反対派もすべてが注視している。
実家のある千葉市の状況は、被災地の惨状とは無縁だ。食料も普通にある。だが、一つだけ、ガソリンがないのは同じである。ガソリンスタンドには数kmにおよぶ長い車の列が出来ている。そして、計画停電で街は不規則な機能不全に陥っている。

旅行会社に電話する。「被災地の郡山に戻れず、パスポートが取ってこれない。キャンセルする場合、いくらになるか?」
旅行会社の係の人の回答は、意外なものだった。
「今回の大災害が理由であれば、キャンセルしても全額戻ります」
これで腹は決まった。19日までに郡山には戻れそうにない。品川出社を言い渡されているし、何より郡山に戻るすべがない。パスポートがなければ、どんなにあがいても海外には行けない。再発行している暇もない。さらには、こんな未曾有の災害下、自分の会社の復旧が急務となっているのに、1週間も遊んでいるわけにはいかない。会社の犬になり下がったサラリーマンの悲哀。いや、それよりも、東北在住者として、東北の復興のため自ら動かなければならない。
僕は、断腸の思いでバングラデシュ行きをキャンセルすることにした。

あの11日の大地震のあと、地面は揺れ続けている。千葉でも、震度3クラスの地震が毎日起こる。それ以下のものも含めると、四六時中地面が動いている感じだ。こんな地震の連鎖は、もちろん生まれて初めてのことだ。このまま日本全体が揺れ続け、再び来る大地震で日本が崩壊してしまうのではなかろうか、という予感が、あながち絵空事ではないように思えてくる。

それにしても、これだけの大地震の予知ができないというのはいかがなものか。もういいかげん、通常の科学の限界を認め、もっと別の方法を真剣に考えた方がいい。別の方法とはすなわち、「動物による地震予知」である、鳥や魚や昆虫は、地震の前にそれを察知して妙な行動を示すことは、一般に広く知られていることである。この研究者をもっと積極的に地震予知に登用し、動物の力を使って地震を予知したほうがよっぽどいい。
今回の地震では、被災地の人々の秩序ある行動と忍耐が国内、海外から絶賛されている。さすが東北のジジババだ。日本人は忍耐強いと思うが、特に東北地方は気候が厳しい、特に大雪に閉ざされる長い冬にはほとんど何も出来ない状態となるため、もともと東北の人々は我慢することを知っている。我慢することが普通なのではないか。電車だってバスだって、雪にあったらいくら遅れても不思議ではないのだ。それをじっと待つ。そんな文化だ。
大都会では、時間通りに電車やバスはやって来ることが当然であり、そんな環境に慣れた人々は、少しでも電車が遅れようものなら、すぐに不満と苛立ちを表明することになる。雪が降って交通が大混乱したら、それこそこの世の終わりのごとき騒ぎである。「利便性」は、人間の重要な特質をどんどん退化させる。首都圏で今回レベルの大地震が起こったらと思うと、災害による被害以外の、もっと別の、人間としての弱さが剥き出しになるような気がする。「みんなが他人」の大都会で、助け合っていけるか。逆に言えば、そんなことが起これば、少しは都会の人間も人間らしい心を取り戻せるかもしれない。阪神のときはどうだったのだろうか。

現代人は、電気のある生活に慣れきってしまった。電気が来ないと、とたんにパニックだ。電車が動かない、コンビニは営業しない、それだけでもうあたし生きていけないわ状態。通常その利便に浴してきたものが突然なくなると、とてつもない不便を感じてしまうのだ。それが当然だと思うからだろう。
一度便利=楽に慣れてしまうと、もう後戻りは出来ない、というのが人間である。いうなれば、悪い進化である。退化と言ってもいいかもしれない。今さら電気のなかった江戸時代に戻れとは言わないが、電気がなくても生きていけるすべを、いや、せめてこういうことが普通に起こり得るんだということを想定した備えを、もっと真剣に考える必要がある。

3月21日月曜日

崩れ落ちた海沿いの遊歩道

津波被害の惨状

乗り上げた車

スッチャカメッチャカの部屋

大雨。千葉県の災害対策センターに電話して、今日ボランティア活動が行われるかどうかを尋ねる。答えは、「今日は天気が悪く、2次災害の危険もあるため、ボランティア活動は中止」とのこと。
だが僕と友人の伊藤は、ひょっとしたら僕らの力を必要としていることがあるかもしれない、と思い、ホームセンターで長靴と雨具と手袋を買い込み、津波で大きな被害を受けた旭市に向かった。
街は、海沿いのある一画が、大きなダメージを受けていた。海沿いの遊歩道は、一部が地震により亀裂が入り崩落している。ガードレールはグニャグニャに曲がって倒れている。海沿いに並ぶ家々の多くは、津波により全壊している。特に古い木造家屋のダメージがひどい。木材と瓦礫の山と化してしまった家々の持ち主の痛みは、到底計り知れないものである。想像力を使えば使うほど、言葉が止まる。
自分の財産が一瞬にして何もかも奪われてしまったのだ。これからどうやって生きていくか。運よく全壊はまぬかれた家でも、1階部分が柱以外すべて流され、建っているだけ、という状態も多い。
道には、家から運び出され、積み上げられた家財道具が雨にぬれていた。液晶テレビ、冷蔵庫、洗濯機、テーブル、布団。
海沿いの道を歩く。消防署員たちや警察官とすれ違う。時々、家から物を運んだり、掃除をしたりしている人々に出会うが、彼らは僕らには目もくれない。
海沿いの公園では、道に敷き詰めたタイルがところどころ浮き上がって散乱している。ボランティアか、市の職員か、それとも建設会社の人であろうか、冷雨の中、タイルを集めて積み上げる作業をしている。
飯岡漁港では、横になって岸に打ち上げられたような漁船が数隻見られる。重機が動いて、漁港に溜まった土砂を取り除いている。
寒い。冷たい雨が降りしきっている。
僕と伊藤は、被災地を後にした。家を失くしてしまった人々は、避難所で過ごしているのだろう。みんな、冷たい雨の下で打ちひしがれ、まだ立ち直るには時間が必要だ、きっと。
旭では、ガソリンスタンドが結構開いていて、並んでる車も少ない。千葉市の状況とは大違いである。被災地だから優先的にガソリンが回ってきているのだろうか。千葉ではガソリンを入れるのは至難の業だが、ここ被災地の旭では簡単だ。ガソリンの偏在。誰が何を必要としているのか。物資はどこまで届いているのか。もう必要としていないものがじゃんじゃん送られるような状況になっていないか。ここまで大災害だと物資調達状況のコントロールが難しい。本当に必要としているときには届かなくて、ある程度行き渡った後に過剰に送られる。送られる側の被災者と送る方の人々の善意に、タイムラグがあるのだ。国や自治体は動きが遅い。ボランティアの出番。

3月22日火曜日
ついに会社から郡山へ戻れとの指令が出た。郡山にいる社員に対しても、22日から自宅待機が解除され、出勤指示が出たのだ。明日23日、栃木事業所へ出社、その後那須塩原からバスで戻ることにする。先週末頃から、ついに東京と福島や仙台を結ぶ高速バスの運行が再開、さらに那須塩原(今は東北新幹線は那須塩原までしか開通していない)から郡山への高速バスも一日7往復するようになり、機は熟した。
3月24日木曜日
朝8:40、福島交通の高速バスは、那須塩原駅を出発。午前10時、ついに郡山に戻った。街は平静だ。ところどころ地震により崩れたり亀裂が入った光景を見かけるが、そのような細部はほとんど目につかない。普通の、ぼんやりした目で見れば、郡山の街は震災前と同じように見える。
13日間車を停めていた駐車場(リパーク)に向かう。ガソリンがない。会社に電話して営業しているガソリンスタンドを聞くと、駅近くのガソリンスタンドに並べ、とのこと。だが、見たところ車の列は数kmに及んでいる。これじゃぁ並んでいる間にガソリンがなくなっちまう。
僕は意を決してそのまま会社に向かうことにした。まだ会社往復くらいのガソリンはある。ビビリながら駐車場の出口ゲートで駐車券を精算機に入れる。11日から今日24日まで、13日間も停めたのだ。だが、料金は9600円。安い。安すぎる。一日700円だ。
天気がいい。郡山は、福島第一原子力発電所からおよそ50km。放射能はどうか。だが、原発との間には、高さ1192mの山がある。この山が放射性物質の到達を防いでくれればいいのだが。
12時に会社到着。久しぶりの会社では、みんな普通に仕事をしていた。建物は場所によって大きなダメージを受け、立ち入り禁止となっているところもある。震度6強の威力。昨日までは暖房が入らなくて、みんなコートを着ながら仕事をしていたとのことであるが、今日は暖房が戻り、暖かい。だが食堂は営業していないので、昼飯は持参である。僕はさっき会社近くの食堂で済ませてきた。
みんな普通だ。放射能などくよくよ考えていても仕方ない。ここは避難地域でも屋内退避地域でもないのだ。
初日から夜10時までかかって仕事、そりゃそうだ、この一大事、お客さんへの出荷が滞っていて、やきもきしているお客さんからの問い合わせで手一杯となっている。復旧までどうやって出荷をつなげていくか。
夜10時過ぎ。ほぼ2週間ぶりに郡山の自宅に戻った。マンションは、見たところ傾いてもいないし亀裂も入っていない。一部階段の一番下の地面が盛り上がって割れていたくらいで被害は収まっている。部屋に入る。その惨状は、想像通りだった。すべてのものが動いている。本棚とカセットケースとオーディー機器はすべて崩れ、本とテープが一面に散乱。洗濯機は倒れ、ホースのプラスティック部分が折れ、水が噴き出していた。断水は数日間だったというから、2週間近く水が垂れ流されていたことになる。だが、不幸中の幸いで、水はほとんどが洗濯台の上から排水口を通って排出されていて、部屋の中が水浸しになることは避けられた。
台所の散乱もひどい。冷蔵庫は扉が開いた状態で中の物が飛び出ていた。グレープジュースが床にぶちまかれ、冷凍庫に入っていた茶碗のご飯は飛び出し、茶碗が割れている。棚に入っていた小皿はすべて床に落ちていて、ほとんどが割れている。冷蔵庫の上の電子レンジとオーブントースターも落下。ガスコンロもホースを一杯に引っ張った状態で下に落ちかかっていた。危ない。こちらも洗濯機と同じく元栓は開けっ放しなので、もしホースが外れていたら惨事となるところだった。コンロの上に置いておいた味噌汁の鍋は、度重なる振動でコンロから落ち、一面に内容物つまり味噌汁をコンロ台の上にぶちまけていた。が、もう2週間近くたつので、すべて干からびてしまっていた。これが真夏だったらこれまた発酵して大変なことになっていただろう。冬でよかった。
食卓の上の調味料も炊飯器も、調理台の上のまな板も、何から何まで床に落ちて散乱している。本震だけでなく、震度4クラスの余震が、ここ郡山では10回くらいあっただろうから、どんどん物が落ちて散乱していったものと考えられる。
だが、机の上に置いてあったパソコンは、幸いにも床に落ちていなかった。液晶モニタは倒れていたが、命に別状はなさそうだ。部屋全体を見ると、どの方向に揺れたかがよく分かる。明らかに、東西方向を基調とした横揺れである。コタツやじゅうたんが、かなり引きずられて、西から東方向に1メートルほど動いていた。じゅうたんごとその上のものまで動かすくらいの地震とは、恐ろしい。
だが、家財道具一式、家まで津波で流されてしまった人に比べれば、部屋に物が散乱したくらいは、何ていうことはない。
■当たり前だが忘れている教訓:地震に備え、洗濯機の蛇口とガスコンロのガス元栓は、使い終わったら常に閉にすること。
これからはいつ何時震度8とか9とかの地震が起こるとも限らないので、備えを万全に。今回、想定外の津波が、人間の想像力の限界を改めて教えてくれた。今後は、この地球では、人間の想像力や科学力など及びもつかないことが何でも起こりうる、ということを常に頭に入れておく。

3月25日金曜日
朝、今日の昼飯を調達せねばと思って、出勤前にコンビニを回るが、何も売っていない。弁当、サンドイッチ、惣菜、パンの陳列棚は空だ。何もない。何件か周って、ようやくおにぎりを1個買うことが出来た。すべてのコンビニで、購入の数量制限をしている。おにぎり1個まで、パンは2個まで、といった具合だ。だが、そもそもパンなんて影も形もない。食料とガソリンは、まだ全然この郡山に届いていないのだと痛感する。
出勤中、いくつかのガソリンスタンドに車の長い列が出来ているのを見る。ガソリン事情も最悪だ。今日の帰りには絶対に入れないといけない。もう燃料空のランプが点灯している。
この日も夜9時まで仕事をし、やってると情報を得たガソリンスタンドへ。ビンゴ。夜9時半、10分も並ばずに、しかも満タンに入れることが出来た。だたガソリン代はアホみたいに高い。どうやら福島県内はガソリン不足で値段が高騰しているらしい。ここではレギュラーがリッター158円。こんな値段見たことがない。だが、ギリギリのところでガソリンを入れられた喜びの方が大きい。これでしばらくは息をつける。
夜、行きつけの食堂が営業していた。うれしい。しばらくは食料品が手に入らないので、自炊もままならないだろう。そうなると頼みは外食である。吉野家は昨日閉まっていたが、この食堂は11時まで通常営業していた。少しずつ、平常に戻って欲しい。

3月26日土曜日
部屋の整理は少しずつしている。いまだに毎日比較的大きな地震があるので、本棚に本を積み上げても、また地震で崩れ落ちるのではないかと思うと、作業をする気がなくなる。
ニュースによれば、郡山に「石油列車」が震災後初めて到着したそうである。磐越西線が再開したことに合わせ、横浜(根岸)から新潟経由でやって来た。タンクローリー60台分だ。被災地や中通りへガソリンや灯油を届けるそうである。これでガソリン事情が改善してくれればいい。
コンビニには相変わらす何もない、今日からはタバコも売ってない。JTがタバコの出荷を停止したそうである。雑誌もない。おにぎりはあったが、弁当やカップ麺やサンドイッチやサラダはない。買いたかったものの中で、唯一、東スポだけはあった。先週から変則開催で、中山で実施予定だった重賞は、基本阪神で行われる。
近くのヤマダ電機はガラス張りで、ガラスが大きな被害を受けたそうで、営業を中止している。洗濯機のホースを買い換えねばならないが、家電量販店も駅前のヨドバシ以外はどこでやっているか分からない。
夜、昨日と同じく食堂へ。夜11時までフルでやっている。ありがたい。食料が手に入りづらい時期なので、11時近くでもお客さんが多い。
帰り道、ホッとモットの営業状況を確認したが、閉まっていた。早く開いてほしいものだ。

3月27日日曜日
昼頃、行きつけのスーパー、ヨークベニマルに行った。1週間ほど前はほとんど物がなくて店が開いている時間が極端に短かったようなので、期待せずに行ったのだが、驚くことに、この日、食料は十分にあった。ほぼ平常どおりの営業と言っていいだろう。野菜、果物、肉、魚、惣菜類は、平時と遜色のない品揃え。無かったものは、カップ麺、納豆、牛乳類、卵、くらいか。納豆は、産地の茨城が被災しているので仕方ないだろう。他は問題なし。コンビニの品薄との落差は、一体どうしたことか。仕入先の被害が小さかったのだろうか。
話は全く変わるが、今日の未明に行われた競馬のドバイ・ワールドカップ(GT)で、日本馬のヴィクトワール・ピサが、日本馬として初めての優勝を飾ったというビッグニュースが飛び込んできた。しかも2着も日本のダート王、トランセンドというではないか。日本馬のワンツーである。快挙だ。しかも、映像を見てみると、トランセンドは常にハナ(先頭)で引っ張り、ヴィクトワール・ピサは、1角最後方から向こう上面で2番手までまくり上げ、最後の直線ですぐに先頭に立ち、それから直線400mくらい、先頭のまま世界の一流の強豪の追撃を退けたのである。そして、トランセンドも、二番手のまま直線を走り切った。胸がすく勝ちっぷりだ。
サラブレッドに日本を元気づける気持ちなどサラサラないだろうが、あまりにもタイムリーな快挙である。日本は、強い。
だが、僕が一番好きなブエナビスタが8着に敗れたのが残念でならない。今まで出走したすべてのレースで3着以内、このドバイに出走した日本馬3頭の中では一番の実力者だったからなおさらだ。まぁ、ブエナビスタ入れたワンツースリーだったらあまりにも出来過ぎか。
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