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日記
(2013年3月)
2013/3/31(Sun.)
引越し


徹夜で荷造り。朝になっても一向に終わらないので、7時20分に風呂に入り、一旦仮眠を取る。10時ごろに起きて作業再開。
昼飯は行きつけのセブンイレブンの弁当。この部屋で食べる最後の飯か。
夕方、ようやくダンボールに入れるべき品々の荷造りは終了。引越し業者の連中が来たのは、午後5時だった。3月末は引越しが立て込んでいて、この時間しか取れなかったのだ。それでも今日31日に対応してくれるとのことで、感謝しなければならない。
メンバーは3人。山のような僕の荷物をたった3人で運ぶのか。かわいそうに。しかも僕の部屋は3階建ての3階、エレベータなし。
しかし、この引越し屋さんたちの手際のよさと恐るべき体力にはいつもながら感心させられる。特にリーダーの人は、本の詰まった重いダンボールを2箱重ねて運んでいる。今日はきっと朝から何軒も引越しをやってきて、僕のところで何軒目なのか知らないが、尋常でない体力と筋力と持久力だ。
だがさすがに物が多いのでそのうち日が暮れ、急に寒くなってくる。僕はエアコンをつけ、寒々しい部屋を暖める。
そして午後7時過ぎ、すべての荷物が4トントラック内に運び込まれた。引越し3人組にお礼を言い、引越し完了。一人何もない部屋に残される。いつもいつもこの瞬間は脱力感と感傷に襲われる。今までに何度引越しをしたか数え切れないが、誰もいない、何もない部屋に一人佇む時間は寂しい。ここに住んだ年月が走馬灯のように胸に去来する(笑)。
しばらく掃除をし、午後9時前に部屋を出る。今日は郡山駅の東側にあるビジネスホテルに泊まり、明日車を引き渡して、郡山生活が終了する。
ホテルにチェックイン後、体が熱っぽくなり、頭がボーっとしてくる。シャワーも浴びずに寝る。
2013/3/30(Sat.)
荷造り

夕景 (福島県郡山市)

今思い返してみると、あまりにもあっけなく、19年間の会社生活が終わった。何しろ退職を考え始めたのが2月中旬で、決めたのが2月末で、3月末に辞めるまでたったの1ヶ月。この1ヶ月間はまたたく間に過ぎ去った。最後の数日間はさらに加速して瞬時に過ぎ去った。水曜、木曜は関西方面に出張し、得意先や代理店の方々へあいさつ回り。木曜夜は大阪で朝まで取引先のお客さんらと飲み、最終出社日の金曜は朝大阪から東京へ戻り、東京の同僚に挨拶し、昼過ぎに郡山へ戻って、わずか数時間しかオフィスにいなかったのだが、書類提出やら出張精算やらであっという間に時が過ぎ、いわゆる「長年勤めた会社を辞める感慨または感傷」に浸る暇が全くなかったのだ。ただ、そんな慌しさの中でも、同僚から花と贈り物をもらったときには、この会社には人生の半分くらいの長きに渡って在籍したのだから、長かったなぁ、という思いは込み上げてきて、泣きそうになった(笑)。
驚いたことに、同僚の贈り物は、大きなレンズのついたデジタルカメラだった。いわゆるレンズ交換型カメラというやつだ。僕は今まで「写真家」を自称しながら(笑)、銀塩にしろデジタルにしろコンパクトカメラしか持ったことがなかったので、この贈り物はうれしいサプライズだった。物欲のない僕が、もし金があったら買いたい電化製品といえば、この大きなレンズのカメラだったのだ!(いや金は持っているのですが)
そもそも、このようなカメラは結構高価だろうに、これを選んでくれた(であろう)SさんやMさんに感謝せねばなるまい。ありがとう。
今日は一日中荷造り。引越しは明日の夕方。
2013/3/29(Fri.)
退職

まさか自分がこういう写真の主人公になろうとはねぇ・・・。

今月末をもって、19年間勤めた会社を辞めることにした。今日が最終出社日。
先月末退職を決めてから、今月はまたたく間に過ぎ去った。休みを取る暇もなく業務の引き継ぎと退職手続きをし、夜は相次ぐ送別会。
昨日は取引先のお客さんが壮行会を開いてくれ、餞別に包丁をもらい(笑)、最終日の今日、同僚の有志一同からカメラと花を贈られた。設計メンバーが開いてくれた夜の飲み会では、「しんやちゃん、おつかれさまでした」(笑)の文字とともにケーキが出てきた。
飲み会が終わり、深夜家に帰って一人になると、なんか、泣けてきました。

来週の月曜4月1日から、僕は朝起きても何もやることがなくなる。今まで、報酬をもらう代わりに、人生のほとんどの時間を仕事に費やしていた。これからは、無収入になる代わりに、すべての時間を自分の好きなように使える。当たり前のことだけど、底知れない不安と底知れない自由は表裏一体。
だけど、さすがに、いずれは働かんと。
どこかの組織に帰属していない状態というのは、幼稚園に入るまでの幼年期を除けば、生まれて初めてのことだ。次のことは、何も決まってない。
まぁ、これから華麗なるセカンドキャリアが始まる、ということにしておこう。
2013/3/14(Thu.)
英語DJ

富士山見える?富士見銀座 (東京十条)

千葉の新名物、モノレール。懸垂型としては長さ世界一


夜、会社の帰りに時々聞く福島FMの番組では、帰国子女だかハーフだかの割と年かさの女性DJが、英語を要所要所に使っている。つまり、曲名紹介とか、オープニングの決めフレーズとかを華麗な英語で装飾するのである。
「今日も素敵な音楽で60分お付き合いください」みたいな慣用句を完璧な英語で言うわけである。
曲の合間のしゃべりやリスナーからの手紙紹介は、もちろん日本語だ。
このパターンは、英語ペラペラのラジオDJにおいては全く通常の構成である。昔で言えばエイミーとか、いや、逆に言うとラジオDJは英語ペラペラを売りにしていることが多く、そういうラジオがあまりにも多くて僕らFM世代はそれが当然だと思ってきた。

そんなある日、面白い手紙が紹介された。
「○○さん(この女性DJの名前)のオープニングの英語のフレーズ、あれ何と言っているのか教えてください」

ガーン!僕はまぁ普通に英語を聞き取れるので、よほど難解な単語を言ってなければ、こんなラジオ番組の短いフレーズは大抵理解できるが、一般のリスナーはそうではないのだ。自分がひいきにしているラジオ番組で何を言っているか分からないのは、結構なストレスだろう。ここに至り、僕は思う。
「なぜこのDJはわざわざ英語をしゃべるのだろうか?これって、リスナー無視の、ただ単に英語で決めればカッコいい、という無意味な虚勢じゃないか?英語しかしゃべれないんならともかく、日本語ペラペラなんだから、すべて日本語で話せばいいじゃん。ここは日本だぜ?」と。
またしても、英語を使えばカッコいい、みたいな英語崇拝主義が日本人の根底を蝕んでいることに気づく。以前僕は英語で歌を歌う日本人シンガーソングライターを痛烈批判したが、それと全く同じ価値観である。
バカバカしい。だけど、こうやって僕がバカにしたとしても、世界では英語がまぎれもない国際語である。どこの国のラジオからも、断片的な英語が聞こえてくる。日本が特殊なわけではない。残念ながら、英語の国際力にひれ伏すしかないのか。
否。これだけは言っておこう(笑)。ラジオDJはともかく、初期衝動による表現は、母国語でやらなければならない。いや、母国語でしか出来ないのだ。僕が歌を作るなら、日本語でしか表現は出来ない(日本語化している英語は除く)。自分の心の奥底から湧いてくる思いの丈を、どうやって英語で表現するというのだ?
それがロックというものだ。
(あれ、また以前と同じことを繰り返してる気がするけど気のせいか)
2013/3/11(Mon.)
東日本大震災から2年

この2年、無数の不幸をメディアで目の当たりにした。高度情報社会、あまりに数多くの悲劇があからさまにされ、皆が知るところとなった。それはそれでいい。事実を知ることが、助け合いや連帯を生み出し、今後の備えになる。
だが、あまりにも多くの悲劇は、僕らを不感症にさせる。戦場で、あまりに多くの死を目撃した兵士が、死に対し、殺人に対し不感となるように。死が日常となる世界では、生の意味が下がり果てる。
震災2年に当たり、不感症になってはならない。震災から1年くらい経ったところで、「『絆』という言葉に食傷気味」という風潮に、かの箭内道彦氏は反発し、「『絆』の価値を絶対に減速させてはならない」という意味のことを発言し、「その通り!」と思ったものだ。
そして、不幸や悲劇を一くくりで考えてはならない。漫然と全体を見るのではなく、そこにある一つ一つの不幸が、関係する人たちにとっては究極の意味を持つということを理解する必要がある。一つ一つが、同等の価値を持つ。

普段どおりであれば、失うことのなかった命。あまりにも多くの命が、普通であれば平穏であったはずの命が、自然の猛威によって失われた。それは特別な死だとも言えるだろう。

2003年、青年海外協力隊の派遣前研修において、派遣された国で不幸にも交通事故で亡くなった一人の協力隊員についての話があった。途上国の発展に微力ながらも尽力した彼の活動記録や残した日記などの紹介があり、その早すぎる死に、研修に参加した候補生達からは啜り泣きが聞こえた。僕は泣くどころか、妙に冷静にこう思った。
「この協力隊員の死と、他の一般の人の交通事故死とで、一体何が違うのだろうか?同じではないか?彼の死が飛び切り不幸なのではないのではないか?絶対的には不幸なことに間違いはないが、相対論としては、同じような不幸は、そこらじゅうに転がっている」と。
もちろん本人に志半ばで無念の思いはあろうし、日本に残された家族のショックは計り知れない。だが、いつでもどこでも危険は隣り合わせなのだ。日本にいてさえ自分に落ち度のない交通事故で不意に亡くなることがある。不慮の事故、殺人で死亡・・・。世の中はそんなニュースで溢れている。明日はわが身。

一つだけ言えるとすれば、この協力隊員、不慮の事故や殺人により命を失った人、また震災で亡くなった人々から、僕らはそれを彼らが残してくれた遺産として何かを学び取らなければならない、ということだ。それが感情的であり理性的でもある人間が賢明になる道なのである。愚かな戦争から僕らは何かを学び、今の平和があるのだ。

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