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日記
(2017年11月)
2017/11/29 (Wed.)
本坪井沢遡行、敗北 晴れ@千葉
 
靄の中の片倉ダム
 
入渓地点
 
突然、水たまりのような瀞場が延々続く場所が現れる
 
 
ナメの斜滝
 
黒い滝
 
ナメ床に落葉が降り敷く
 
ここまで来て撤退

今日は君津市の笹川湖の東側の山中にある本坪井沢を遡行する。南には元清澄山を含む尾根が走っており、この本坪井沢は、そのあたりに源を発し、北に流れ、笹川湖に流れ込む。
なぜ冬の寒い時期にこの沢を登るのか?
実は、この沢の西隣に、小坪井沢という川が本坪井沢と並行して流れている。本坪井沢と小坪井沢は、下流部で合流し、ほどなく笹川湖に流れ込む。一方、それらの上流部で、それぞれの支沢が、300mもの長大なトンネルでつながっているというのだ。

房総の山奥にある300mものトンネル、それを聞いただけでワクワクするではないか。
今日は、本坪井沢を登り、上流部でこのトンネルを通り抜け、隣の小坪井沢から降りてくる、というコースを歩きたいと思ったわけである。

千葉から朝早く片倉ダムに向かう。いつもの房総の田園と山を走る。今朝は冷え込んだからか、濃霧が発生している。

片倉ダムには8時半ごろに到着。ダムのコンクリート斜面を見ると、放水が斜面上を流れている。
ダム湖では釣り人がボートを出している。朝の湖が靄に沈む。

片倉ダムから林道を少し三石山方面に上がったところに、メガソーラー発電所の工事現場がある。以前はここはエースゴルフ場というゴルフ場が建設途中で頓挫し、長らくゴルフ場造成跡地として山を削り取ったあとの骸のような姿をさらしていたようである。
ところがいまではその造成跡地に、メガソーラー発電所が急ピッチで建設中である。すでに多くのソーラーパネルが先行して設置され、その周りの広大な地面がショベルカーなどの重機で急速に整地されつつある。とてつもなく広い敷地である。

工事車両出入り口の駐車帯に車を停め、歩き始める。工事現場に入って重機が蠢いている広々とした造成地を歩く。通常であれば、安全性の問題から工事現場には一般人は立入禁止だと思うが、私はヘルメットをかぶって手には地図を持って歩いたので、きっと何かを確認している工事関係者として周りからは見えたであろう。
ダンプカーや関係車両がひっきりなしに行き交っているが誰も私を見咎める人はいない。
明らかに建設現場のヘルメットとは違うし、服装も作業服ではないのだが。

広大な工事現場の南側には山が広がっている。しばらく造成途中のうねった土のうえをウロウロしていたが、工事現場のはずれの方から林の中に入り、緩斜面を選んで谷に降りる。
降りた谷は、本坪井沢と小坪井沢との合流点のすぐ近くであった。
ここで沢靴に着替え、本坪井沢の方を歩き始める。10時20分。

房総の谷らしく、両岸は崖となり切り立っている。河床は石が転がるゴーロで、左側の崖上がメガソーラー発電所の工事現場で、その部分は崖が土砂崩れしていて谷に土砂や木々が崩落している。
途中から谷が狭くなり、ナメ床の廊下状となる。
水は少なく、谷は平坦である。時々倒木が沢を覆っている。
川は蛇行に次ぐ蛇行の連続。これも房総の谷の特徴である。

河も河原も黄色や茶色の落葉で埋め尽くされている。景色は、夏の沢とは一変している。
見上げた木々は紅葉し、冬枯れている。これが夏なら、まぶしいくらいの緑が輝く。
やっぱり高揚感的にも爽快感的にも冬は沢登りの好機ではない。
ちなみに、千葉に住んでいない沢屋さんは、「房総の沢と言えばヤマビルがいるから、夏は不適」と認識している人が多い。これは、ガイド本などでそのように紹介されていることに起因するだろう。県外の人は、判で押したように「房総ではヒルのいない冬に沢登りをすべき」と頭から思い込んでいる節があるが、これは誤りである。
ヒルが多いのはここ清澄山系であり、郡界尾根の東南部ということになる。川で言えば小櫃川水系(小櫃川とその支流)である。
一方、湊川水系(梨沢や高宕川など)やもっと南の嶺岡山系界隈では真夏でもヒルを見たことはない。
これらの地域では、思う存分真夏に沢登りができるのである。

鹿が多い。鹿の声がしている。私はいままで鹿の鳴き声をはっきりと聞いたことはなく、始めは猿だと思った。鳥の声帯から出るような細い声ではない。崖上の梢の上の方から、「ヒーっ、ヒーっ」という声がする。これが鹿の鳴き声だった。
谷を歩く見慣れない二本足の動物に対する警告か、仲間に対する注意音のように聞こえる。

しばらく行くと、唐突に深い瀞場が現れる。深さは1mくらいあるだろう。今まで水がほとんど流れてなかった川に、水たまりのような深場が突然現れたのである。流れはない。しかも、長さ100m以上に渡って続いている。蛇行する川の先が見えないので、この瀞場の全長は分からないが、とても水に入っていくような陽気ではないし、両岸は斜面が急で、巻けそうにない。
結局大高巻きするしかない。

右の斜面にへばりつき、尾根まで急登する。尾根に登ると、谷を挟んで対岸の例の工事現場の高さに近くなり、重機が動いているのが見える。
尾根を歩き、瀞場を回り込んで今度は急斜面を沢まで降りる。やれやれ。

再び沢に降りて歩き始める。途中、たくさんの支沢が流れ込んでいる。倒木も多い。
やがて、ナメの斜滝の上に、初めて滝らしい滝が現れる。2mくらいで、落口には倒木がダムのように折り重なっている。

その後、もう一つ滝が出てくる。高さは2mほどだが、黒いいかつい岩肌が威圧してくる。滝の落口は両岸が狭まったU字型の川床となっている。落ちる水量は少ない。

そうやって歩いているうちに自分がどこを歩いているのか分からなくなる。この本坪井沢は常に蛇行しており、2万5千分の1の地図では、片道100m以上の大きな蛇行ならまだしも、小さな蛇行までは読み取れないので、現在地が分からなくなる。GPSが欲しい。
腹が減ったのでサンドイッチを食べる。

時間がない。もうすでに午後1時である。ここまでの遡行時間約2時間半。来た沢を降るとすると、同じくらいかかるだろう。今の日没は午後4時半なので、日が暮れてはまずい。
13:10、撤退を決意する。結局、トンネルの入口までは到達できず。いや、行き過ぎたかもしれないのだが、それすらも分からずじまい。大いなる敗北。情けない。
このままでは終われまい。


帰りは割とすいすい下降するも、やはりあの瀞場では再びの大高巻き。
 

帰りはたくさんの鹿を見る。房総の沢にはずいぶんと入って来たが、ここまで鹿影の濃い谷は初めてだ。8頭くらい見た。足跡と鳴き声から察するに、実際には、谷全体で数百頭はいる気配である。
房総の他の谷でも足跡はそこらじゅうにあるのだが、実際に鹿の姿を見たのは夏の桑の木沢で1度だけである。
それくらい鹿というものは警戒心が強く、人間が気づくころには沢から斜面を上がって姿をくらました後になるわけだが、ここの鹿は、余裕をかましているのか、人間をあまり見ないから警戒心が薄いのか、沢に降りているところを多数目撃できる。川が常に蛇行していて見通しがきかないために、私が河原を歩いてくるのに気付くのが遅いからかもしれない。
彼らは私の姿を見ると慌てふためいて谷から斜面に登っていく。凄まじい足腰だ。私が這いつくばってしか上がれない急斜面を軽々と跳ね飛んでいく。
ここの鹿は群れというか、複数で行動しているようだ。2、3頭くらい一緒にいる。
そして何と言っても私の目からうろこが落ちたのは、例の警戒音である。ここの鹿は私が沢を歩いていると、盛んに鳴く。以前鹿に1対1で出会ったときには、鹿は驚いたものの、何も叫ばずに上がっていった。ここの鹿は種類が違うのだろうか。いや、二ホンジカであろうから同じはずだ、キョンではない。
それとも季節か。気が立っているのだろうか?夏と違って、出産したばかりとかで警戒心がやたらと強い季節なのだろうか。

入渓地点に戻ったのは午後3時20分。ここから工事現場を通って、30分もあれば車を置いた場所まで戻れる。
沢靴のまま尾根に登る。
工事は相変わらず急ピッチで進んでいるようである。朝と同様、ダンプが出たり入ったりし、土の山と格闘する重機が、いたるところで咆哮している。

本坪井沢 写真集

午後4時、車に戻る。
着替えた後、河原で食べなかったそぼろご飯弁当を食べる。
日が暮れた。
来週、小坪井沢側からリベンジする

次週に続く。
2017/11/23 (Thu.)
小田原城と石垣山一夜城 雨のり晴れ@小田原
 
 
小田原城
 
小田原のマンホール
 
ミカン畑の中の石垣道を行く
 
石垣山一夜城の石垣

今日は小田原観光をする。千葉から小田原までは、総武・横須賀線〜東海道線で行く。
千葉駅で休日お出かけパスを購入。1日有効で2670円。JRで千葉から小田原まで行くと、往復4500円くらいかかるので、こっちの方がお得。ちなみに今日は勤労感謝の日で祝日である。

戸塚と平塚で乗り換え、小田原着が9時20分ごろ。JRで千葉から2時間ちょっと。
まずは小田原駅の観光案内所で地図をもらう。そして、石垣山一夜城への行き方も教わる。
小田原駅には「小田原」と書かれた巨大提灯がぶら下がっている。

まずは小田原城へ。外は雨である。傘をさして駅から歩く。10分ほどで城に着く。
小田原城と言えば私がすぐに思い出すのは、「秀吉の小田原攻め」の小田原城である。
いまは天守閣があるが、戦国時代当時は天守はなかったらしい。天守が造られたのは江戸時代以降。
「小田原評定」という言葉がある。秀吉が大軍で小田原城を包囲し、兵糧攻めをしている最中、城に立てこもる北条氏は、次第に追い詰められ、秀吉に降伏するか徹底抗戦かで家内が真っ二つに割れ、いくら議論しても決まらなかったことから、いつまでも結論が出ずにダラダラと続く議論のことを意味する言葉だが、いや、この状況なら結論が出ないのも無理はない。
城を枕に討ち死にして北条氏一族郎党滅びるか、降伏しても秀吉傘下で生き長らえるか、究極の選択と言えよう。
いや、武士の時代が始まってから終わるまで、彼らの前には、そんな生きるか死ぬかの決断をしなければならない岐路というか修羅場が常に立ちはだかって来た。
例外は太平だった江戸時代くらいで、武士の世の中を振り返れば、平氏につくか源氏につくか、信長につくか否か、秀吉につくか否か、家康につくか否か、薩長新政府につくか旧幕府側につくか。
家の存続か、正義や忠義を貫くか。大名・藩主やその家来たちは、困難な選択に絶えず直面してきた。「いかに美しく死ぬか」が武士の本分であるので、その意味でこの問題は武士たちを苦悩させた。
戦国時代の真田家は、小国の哀れさから、北条、織田、豊臣、徳川などの強大な軍事勢力に翻弄されたが、真田昌幸の頭には、「いかに真田家を存続しうるか」しかなかった。お家存続だけを考えた好例と言えよう。いや、戦国期の多くの大名たちは、小大名であればあるほど、お家存続を第一に考え、強大な勢力に戦わずして屈してきたと言っていい。そりゃそうだろう、戦っても負けると分かっていれば、白旗を上げるのが利口である。
戦って敗れ去った長宗我部や島津、北条などは、彼らの武士としての自負と気概を雄弁に語るものである。

日本全国の大名たちが秀吉の軍門に降ったあとも、だた一つ独立を保とうとした北条氏の気骨は武士として立派だと思うが、結局全滅せずに降伏することになるとは皮肉であった。
だが、戦わずして軍門に降るよりも一戦交えて、という意味では、武士として一矢を報いたと言えば立つ瀬もあろうか。

幕末の戊辰戦争時に新政府、旧幕府どちらにもつかずに独立を保とうとした越後の小藩・長岡藩も結局は新政府軍に敗れ去ったし、スイスのように強国の間で中立の立場を守ることも困難を極めよう。

天守閣に登る。閣内は資料展示館となっていて、小田原と北条の歴史をたどることができる。
天守最上階からは小田原の街が一望できる。北には丹沢山塊、南から東方面には相模湾が広がる。

城内公園には歴史資料館もあり、そこでも小田原と北条氏のことを深く知ることができる。
公園を歩くと、門や礎石の一部が残っている。
忍者衣装体験ができたり、手裏剣射的など、忍者系の参加プログラムがある。

雨は上がった。城の濠では、おじさんがカモメに餌をあげていて、たくさんのカモメが飛び交っている様子を人々が足を止めて見つめている。

駅近くの食堂で遅い昼食。
その後電車に乗って隣の駅早川へ。
早川駅は小田原駅と打って変わって小さな駅である。駅前のロータリーに1台だけタクシーが停まっている。ロータリーの一隅にくるまやラーメンがある。

ここから山を登り、石垣山一夜城へ歩く。海側から山へ坂道を登っていく。
しばらくは住宅街の中だが、しばらく上がると、ミカン畑に突入する。石垣の道をずんずん上がっていく。ミカン畑には木造のおそらく作業小屋があり、現役なのだろうが、打ち捨てられた感が出ていて雰囲気がある。

その後少し道に迷ったが、小田原の街を見下ろす高台に出て、景色を楽しむ。
そうこうしているうちに登り続けて石垣山に到着。
この山はもともと「笠懸山」と呼ばれていたが、秀吉が小田原攻略のためにこの山上に総石垣作りの城を築いた場所であることから、石垣山と呼ばれるようになった。これは東日本で初めての総石垣作りの城だったという。(東日本にはそれまで土を掘って造った土塁の城しかなかった)
 
小田原の街
 

いまこの城跡は、「石垣山一夜城歴史公園」として観光地となっている。
一夜城というのは、城建設中に秀吉が白い布かなんかで目張りをして建設が見えないようにし、完成とともにそれを取り払ったため、小田原城下から見るとあたかも一夜にして城が山上に忽然と姿を現したように見えたためにそう呼ばれる。実際には着工から完成まで80日ほどかかっている。
北条方がこれを見て覚えた戦慄は相当のものだったらしく、この城がお目見えした途端に北条方武士の戦意は恐ろしく低下したという。

城址を歩く。石垣がところどころに残っていて、古さを感じる。建造が1590年だから、いまから427年前に積まれた石である。
石垣の積み上げ方はいわゆる「野面積み」で、石を加工せずに、石のそのままの形を生かして大小形様々の石を隙間なく積み上げていく手法である。

山城を見るといつも思うのだが、よくもまぁ、山の上まで巨大な石を運んだものだ。人海戦術だろうから、相当の人出が必要だったろう。

展望所からは小田原の街が見下ろせる。秀吉が伊達政宗と一緒に見下ろしたろうか。大河ドラマ『独眼竜政宗』にそんなシーンがあったけど。
天守などの建物は残ってなく、本丸跡や二の丸跡が広々とした芝生広場と化している。城址ではありがちな光景である。

日が暮れてきたので山を下りる。
暗くなる道を歩き、眼下では小田原の街に徐々に街灯の灯が散りばめられていく様子が見える。

早川駅から一旦小田原に戻り、駅の土産物屋で名物のカマボコを買ったあと、千葉に帰る。

小田原 写真集
2017/11/19 (Sun.)
保台(ぼだい)古道 晴れ時々曇り@千葉
 
保台ダム

保台古道。沢沿いにつけられた道は細い
 
倒木地帯を超える
 
崖につけられた道、幅が15cmになる
 
保台古道の隧道
 
あまりにも小さい表示看板
 
沢沿いに道を探すも見つからず

今日はいつもの友人2人と鴨川市の保台古道を歩く。
いつものように車で千葉から南に向かう。
10時過ぎに保台ダムに到着。ダムの駐車場に車を置く。
ダムの下の粟斗温泉のあたりに住んでいるという年配のおじさんと話をする。彼は昔は自転車乗りで、ここから東京などによく自転車で行っていたとのことである。強い。
寒い。晴れ間が出てはいるが、風が冷たい。

保台古道というのは、鴨川市和泉の保台ダムの北側の沢沿いから発し、元清澄山から東部に延びる尾根とを結ぶ山道で、明治時代に造られたと言われる。
10:30出発。
ダムから北に舗装された林道が出ている。さらにすぐに右に細い林道が分かれており(林道小倉松森線)、こちらに入り込む。車止めで車は入れないようになっており、細い道が山に分け入っている。
この林道を進んでこれまたすぐに保台古道の入り口が左にある。立派な看板が立っている。
この古道を観光地として整備しようという会があって、彼らが立てたのだろう。

ここから保台古道は、沢沿いに進む。この沢は待崎川(まちざきがわ)の水系で、元清澄山の尾根を源流にして南下し、保台ダムに流れ込んでいる。
ごく細い道である。山道というよりも、作業道といった方がいい。沢は水が少なく流れもほとんどないが、水は透き通っている。
やがて沢に倒木がなだれ込んでいる場所となり、この倒木を超える。倒木地帯はいくつかある。
この古道を保存・整備しようとしている会があると前記したが、このような倒木除去は人出も必要で簡単には片付けられないのだろう。

前半は沢登りの趣。
沢の脇の岩場をぶち抜いた切通しが出てくる。川廻しの跡ではなさそうだ。

しばらくすると道は沢から山に上がる。沢に沿って北にまっすぐ行くと、尾根につき上げるのだが、西側の山に入り込む形となる。
ここからの道も狭い。時折倒木や藪で道がふさがれていたりして突破に難渋する。トゲのある茨を藪漕ぎしなきゃいけないところは泣きたくなってくる。
あるいは道が岩に刻まれた幅15cmほどの崖路(靴一足分の幅しかない)となり、一人ずつ慎重にこの難所を渡る。
基本、片側崖、片側山の細道で、時折道がきちんとついていなくてただの斜面に見えるような場所も出てくる。

すると、隧道地帯に突入する。この古道には、なんと隧道が8つも掘られている。
山の中に一つ目の隧道が口を開けているのを見た時には、目が点になった。
1号隧道は長さ59m。幅は2m近くあるだろう。中には蝙蝠が住んでいると看板が立っている。
この隧道がこれだけの立派な道幅を持っているということは、この古道の開通当時は、他の部分もそれなりの道幅を持っていたのだろう。
目的は不明だが、切り出した木の運搬や、荷車で何らかの荷物を運んでいたものと推測される。
それだけ立派な隧道である。

このあと、外の道は相変わらず狭く作業道かけもの道かという有様なのだが、次々に出てくる隧道は、一部出入口に土石が溜まっていることはあるものの、基本内部の崩落もなくきちんど生きている。明治後期に造られたのなら、いまからおよそ100年前である。

それにしても房総地方には隧道が多い。しかも手掘りの昔ながらのものである。山にも川にも里にもある。川では、「川廻し」という手法で、蛇行した川をショートカットする形で隧道を掘って流路を変え、水の流れなくなった蛇行部分に水田を造ったり植林をしたりした。つまり、新田開発や林業振興のために川の土地を利用したわけである。このような「川廻し」は、古くは江戸時代から行われていたという。

里にも素掘りのトンネルが多く掘られている。里山にある集落の近くには、よく素掘りのトンネルがある。
他の地域のことはよく知らないが、房総のトンネルというのは、一種の文化のように感じられる。

しかしよくもまぁ、こんな深い山の切り立った場所にトンネルを掘ったものである。尾根を回り込んで道を付けられなかったのか?他にもっと簡便な方法はなかったのだろうか?
しかし、山道は風化が目立つところもあったが、トンネルだけは100年経っても度重なる地震に耐え、立派に生存している。明治の人々の行動力と技術力に感銘せざるを得ない。

さて、こうして深い山の中にある8つの隧道を通り抜ける。1号隧道が一番長く、その他は、10m〜40mくらいの長さである。
最後の8号隧道を抜け、しばらく行くと、右側の崖面をオーバーハング状に削りとって道を付けた片洞門が現れる。「半トンネル」と言っていいだろう。片洞門では道幅が広く、他の山道には見られないほど平坦の立派な道となっている。

片洞門を過ぎるとすぐに古道の終了点となり、「関東ふれあいの道」という山道に合流する。13:30。歩き始めてから約3時間。
合流地点の関東ふれあいの道は舗装されている。ここで遅い昼食。買っておいた弁当を食べる。

昼食後、関東ふれあいの道は左に分かれ、再び山道となる。元清澄山方面につながっている。
舗装道路をまっすぐ行くとゲートが閉ざされていて、房総名物の「東大演習林」であり、一般人は立入禁止である。

割と時間がない。いまや日没は午後4時半である。あと2時間半。
帰り道は、この関東ふれあいの道を途中で離れ、保台ダムに向かって南下していく道を取る。だがどこから入るのかがよく分からない。
しばらく進むと、木にテープが貼ってあるそれらしき脇道がある。が看板などはない。
地図を見ると、関東ふれあいの道の蛇行具合から見て、ここが保台ダムへの道である可能性が高い。
「ま、ここでしょ」
だが案内表示板という決定的な判断材料がないかを探していたら、あった。3cm×8cmくらいのカマボコ板のような小さな木板が木の幹につけられているのを私が発見した。
「あった!!」
あまりに小さな表示である。「看板」とは呼べない。「保台ダム→」と書いてある。
だがこれを発見するのとしないのとでは、精神的に大きく違う。不安を抱えたままよく分からない道を行くのかどうか。日没まで時間は多くないので、この先も道を見失ったら焦りが出てくる。
3人は安堵して歩き出す。

途中、何度か道を見失うが、支沢を下ったり急斜面を上がったりしているうちになんとか復帰する。
道はやがて沢に降りる。待崎川。
道が見えない。しばらく河原を上流と下流へ行ったり来たりして登山道がどこかから斜面に上がってないかを探すがない。GPSと地図を見て、仕方ないので対岸の急斜面を這いつくばりながら登ることにする。土がずるずる滑り、手掛かりとなる下草や木も少ないので、滑落の危険を感じてわりと緊張する。10mくらい上がるとようやく斜度が緩み、立てるようになる。

ここからさらに尾根に向かって急登する。尾根を反対側に降りたところにようやく道を見つける。ここからは看板も出てきて、道ははっきりしていた。安堵。
保台ダムに近づくと、花木園や梅林など、人の手が入った樹園となる。戻れた。
保台ダムに戻ったのは午後4:20。日没直前であった。もっとも、ここは山に囲まれているので、太陽はとっくの昔に山の向こう側に沈んでしまっている。

帰りはネットで調べて口コミの好評なラーメン屋に寄っていつものようにラーメン。普通の味。

保台古道 ユーチューブ動画
保台古道 写真集

保台古道は、その名からも連想できる通り、通常の整備された登山道やハイキングコースではなく、房総でも屈指の山深い清澄山系において、時に沢沿い、時に倒木、時に崖路、時に藪漕ぎ、さらに普通ならあり得ない8本もの隧道を持つ、変化に富みかつスリリングな道であった。山の形態や在りようというものを常に感じながら歩ける、好コースであった。
2017/11/16 (Thu.)
嶺岡浅間(みねおかあさま)登山〜大房岬散策 晴れ@千葉

白滝
 
奇妙な天狗面
 
嶺岡浅間山頂にある浅間神社
 
ハンググライダーテイクオフポイントから長狭平野を見下ろす
 
大房岬の要塞跡
 

今日は鴨川市の嶺岡浅間に登る。
朝千葉市を車で出発し、今日は手ぬかりなく途中のコンビニで昼飯の弁当を購入。
嶺岡浅間は、先週登った高鶴山の北側に位置する。

田んぼの中を進むと、山に近づく。山の斜面を崩していきなり近代的な建物が建っている。「サテライト鴨川」という場外車券場である。このような場外車券場が山の中にある例がどれほどあるのか分からないが、とにかくここは、幹線道路から細い道を入ったところにある、山の中とは言わないが、もう背後は山となる田舎である。山を背にした近代的な建物は、大いなる違和感を与える。
開催日はこの辺りの細い道が車券師たちにより渋滞するのだろうか。なぜもっと市街地に造らないのだろうか。
この辺りの山々も房総の開発の波に飲み込まれ、山が無残に削られている。

向かいの平地では、すり鉢状の広大な穴を掘っている。直径200mくらいはあるだろう、巨大な穴で、貯水池にでもするのかもしれない。

そのすぐ横に、昭和院という神社がある。ここの駐車場に車を停め、まず昼食の弁当とサンドイッチを食べる。11時であるが腹が減った。
そして歩き始める。急坂の舗装道路を登ると、白滝不動尊という神社がある。その名の通り、少し降りたところに沢があり、白滝という滝がかかっている。筋状の凹凸がある黒い岩に白い水が流れ落ちる、なかなか見所のある滝である。斜度は緩やかだが、高さは10mくらいはあるだろう。

その後再び不動尊に上がり、脇の「上小原区民センター」という平屋の建物の奥から登山道が出ている。
ここから山に入り、割と急な斜面を登る。すぐに鳥居がある。ここは「嶺岡浅間」という名前だけあり、浅間神社の神域だということであろう。
登山道はつづら折れで右に左にジグザグにつけられている。
ほどなく尾根に出、しめ縄のような紐のなかに、小さな祠がいくつか建っている。ここには、石造りの天狗面が何体かあり、奇妙な印象を与える。鼻の高い鳥のような面と、仁王のような怒面。いつ頃のものか分からないが、不思議な面である。
その後山の中を歩くと程なく未舗装の林道に出る。林道は両脇からススキの穂がせり出している。秋も深い。
ここを横切ってさらに向かいの山道に入る。しばらく歩くと、山道脇にポツンと簡易トイレが置かれている。その古び方はさすがに今使われているようには見えないが、以前登山する人のために設置されたのだろう。トイレの側面に、「大空へ!ハンググライダーで夢・実現」という文字の入ったポスターが張られている。このポスターも一部破れ、汚れている。いったいいつのポスターだろうか。

ほどなく林の中に入り、嶺岡浅間の山頂となる。334.8m。白滝不動尊からはわずか45分ほど。
山頂は林の真っ只中という感じで展望はない。脇には浅間神社があり、鳥居と祠が設置されている。祠は立派な石垣の上に建っていて、しかしその年季の入りようは半端ない。
鳥居の周りは草ぼうぼうで、手入れの人出がないであろうことが想像される。
山頂から元来た道を降り、分岐で南に降りると、なんとすぐに林道がある。林道嶺岡中央2号線といい、立派な車道であり、この道を車で来れば、山頂まではわずか5分で上がれてしまうのである。
この林道に出てしばらく西に歩くと、10分ほどで南側が広場のように開け、そこから長狭平野が箱庭のように全望できる。山に囲まれた平らな盆地に、田があり、住宅があり、ところどころに林があり、平地に住み着いた人々の営みが見えるようである。いい天気でもあり、素晴らしい風景である。
実はこの広場は、「ハンググライダー テイクオフポイント」だそうで、確かに広場の脇に「ハンググライダー教室」と書かれた小屋がある、近づいてみるとプレハブチックな建物には落書きがされ老朽化しており、もう廃墟となっている。いまは営業していないようである。
たしかにここから眼下の長狭平野に向かって飛び立つのは爽快この上なかろう。

しばらく休憩して再び道を戻り、山道に入ってきた道を白滝不動尊まで降りる。ここから下の昭和院まで実は長大で急な石段があることに気づき、ここを降りる。

午後2時20分。まだ時間があるので、車で西に向かう。
南房総市の大房岬(だいぶさみさき)を散策することにする。
南房総ののどかな風景の中を走る。まさに先ほど見下ろしていた長狭平野である。冬田、ビニールハウスと住宅が点在している。山に囲まれた平地である。

1時間ほどで内房東京湾に面した大房岬に到着。
ここは東京湾に突き出た岬全体が「大房岬自然公園」という公園となっている。
3か月前の8月中旬、ペルセウス座流星群を見るためにここにやって来て、海岸沿いの芝生広場に夜通し寝転んで空を見上げたのだが、この公園にはいろいろありそうだったのでもう一度来たいと思っていたのだ。

園内をくまなく歩けば半日くらいはかかる広大な公園である。園内には展望塔・展望台や芝生広場、キャンプ場、磯遊びができる浜などの他に、洞穴や太平洋戦争時に建設された要塞跡がある。
インフォメーションセンターで地図をもらって歩き始める。もうすでに3時半で、陽が傾いている。

まず展望塔に登り、周囲の風景を見渡す。岬なので、周りは海である。

ここは太平洋戦争時に首都防衛の拠点の一つとなっていた場所で、東京湾に侵入する敵に対する砦や砲台が設置されていた。要塞跡のコンクリート構造物に入ってみる。おそらく、敵の艦船からの砲撃をこの掩体で防ぎながら、砲塔によって砲撃しようとするのだろう。
結局この要塞は実地で活用することなく終戦を迎えたようである。

さらには、ここには防空壕の跡や、特攻兵器・回天の基地もあったとのことである。

その後海岸まで降りる急な擬木の階段を降りてみる。途中洞穴が山肌に穴を開けている。この洞穴は恐るべき長さらしく、館山の方まで続いているという。
そして海岸まで降りる。ちょうど夕日が海に沈もうとしている。

日が暮れてしまった。散策を切り上げる。
車に戻って千葉へ帰る。
2017/11/10 (Fri.)
高鶴山登山 晴れ@千葉

高鶴山

 道を見失って斜面を尾根まで急登する
 
古峰ヶ原神社
 
三段の滝
 
貯水池

今日は天気もいいので鴨川市曽呂地区にある独立峰、高鶴山(たかつるやま)に登る。
千葉市から鴨川市は遠く、下道で余裕をかましていたら、到着が昼に近くなった。しかし、途中からコンビニがすっかりなくなってしまい、昼飯の弁当を購入できずに着いてしまった。
空腹で登山するわけにはいかず、仕方なくしばらく県道を戻って小さな商店で食べ物を物色する。小さな商店だったため、棚には少しずつの食品や日用品しか置いていない。昼飯になりそうなモノとしては、甘い菓子パンとカップラーメンがいくつかしかない。
(カップラーメンしかないか・・・。お湯はコンロ(常に車に積んである)で沸かすしかなかろう・・・)
と考えていると、店主のおばさんが、
「ラーメンなら、お湯入れてあげますよ」
と言ってくれたので、カップラーメンを買い、お湯を入れてもらって、外の車の中で食べる。

これで何とか腹は5分形満たされたので、早速登山を始める。
鳥居をくぐって県道から高鶴地区に入り、高鶴取水場の前のちょっとしたスペースに車を停め、出発。
しばらく山間の里山の急坂を上がっていく。舗装道路に倒木が倒れかけていてそれを乗り越えると、ほどなく山の中に入りこむ。小さな看板がある。

割と急な斜面を登る。しばらく行くと道が明瞭でなくなり、けもの道に入り込んでしまい、仕方ないのでそこからは植林された斜面を尾根まで急登することにした。下土がずるずると崩れて登りづらい。キツイ。しかし尾根が上に見えている。尾根の近くに正規の道があるはずである。
 
高鶴山山頂
 
 

そうやって息を切らしながら急斜面を登り、目論み通り正規の登山道にぶち当たる。
そこからは尾根道を進む。
あっさりと拍子抜けするくらいに山頂に到着。歩き始めて1時間くらいか。
山頂は少し開け、標高326mの看板と、石尊様という小さな祠がある。
南側は山々の向こうに太平洋が見渡せる。一方北側は、房総の山々が冬の柔らかな日差しの中に横たわっている。
頭上をトンビが悠々と飛んでいる。遠くの山のてっぺんに、風力発電の白い風車が一棟だけ立っている。羽は回転していない。

山頂を辞し、登って来た道ではなく、南東方向に下る。しばらく降りると十字路があり、まっすぐ行くと古峰ヶ原神社という神社があるようなので行ってみる。
竹林の竹が道に倒れているのを乗り越えながら行くと、林の中が開け、小さな祠が何棟か建っている。古峰ヶ原神社の石碑の手前には、出羽三山神社の社名が掘られた大きめの石碑もある。修験道と関係のある神社なのだろうか。

十字路まで戻り、貯水池方面へ降りる。山道は沢に沿うようになる。「洲貝川 源流」の看板がある。沢に水は少ない。
沢から大きな鳥が凄まじい音を立てて飛び立つ。いや、鳥ではなく獣が駆け上がっていったのかもしれない。
しばらく立ち止まって獣の気配を探すが、山は再び静まり返っている。

沢沿いの道をしばらく行くと、「堀の沢 三段の滝」という看板があり、沢へ降りる踏み跡が付いていたため沢に降りてみる。
滝があった。水はほとんどないが、黒い岩が10mくらいの落差を作っている。2段か3段かという滝で、下に行くほど斜度が緩くなっている。
トレッキング靴ではあったが、滝を目の前にして登らないわけにはいかない。というか、割と楽に登れそうだったので、水もほとんど流れていないことだし、山靴で登ることにする。
滝を登り終わると、すぐ登山道の木橋が沢にかかっているところに出た。再び登山道を降りる。

水の少ない沢が、いきなり満々と水を湛えた貯水池へ変貌する。凪いだ水面が、紅葉が始まった周りの山々を写している。
すぐに車道に出る。ここからは里山の風景を楽しみながら車の地点に戻る。
峯、橋本、畑といった集落が、山あいに抱かれるようにして点在している。棚田と赤い鳥居が遠くに見える。夕暮れの里山は美しい。
山の端から太陽が沈もうとしている。

午後4:15ごろに車を置いた高鶴取水場に帰り着く。
車で高鶴地区入口の鳥居まで戻り、夕暮れの写真を撮っていると、近所のおばさんに声をかけられる。
「この景色、いいですか?」
「はい、いいです」
「そう。」
彼女としては、普段見慣れた何の変哲もない地元の風景なのだろう。

高鶴山 写真集
2017/11/8 (Wed.)
ロヒンギャ問題 晴れ@千葉

ミャンマー・ミッチーナー→マンダレー間の電車より
 
ミャンマー・ミッチーナー→マンダレー間の電車より
 
ミッチーナーの市場食堂にて

ミャンマーには、「ロヒンギャ」と呼ばれるイスラム教徒が住んでいる。日本にも二百数十人のロヒンギャの人々が住んでいるという。
昨今、イスラム過激派とミャンマー政府との衝突が日本でも大きく報道され、関心が高まってきている。
ミャンマー西部のラカイン州では、以前から仏教徒とイスラム教徒の衝突が絶えない。最近ではイスラム過激派による警察などへの襲撃が発生し、それをミャンマー政府軍が鎮圧にあたって、イスラム教徒に対する虐殺や暴行が起きており、それを政府がコントロールできていないとされ、国際社会から非難されている。虐殺や暴行を恐れて難民となったイスラム教徒、いわゆる「ロヒンギャ」と呼ばれる何十万人もの人々が、隣国のバングラデシュに流入しているという。

ミャンマーでは、この問題は非常に繊細な背景を伴う。ロヒンギャの人々には、通常の市民権はなく、移動や婚姻などが制限されている。法律で差別されているのである。
欧米の人権保護的観点から見れば、この「ロヒンギャ問題」は、以前から重大な人権問題だとしてミャンマー政府を糾弾している。

だが、ミャンマー政府にとっても悩ましい問題である。ミャンマーは、一筋縄ではいかない歴史を有している。近代では英国の植民地支配と日本の侵攻という惨禍を味わっているが、その前から、少数民族が割拠し、多数民族であるビルマ族(あるいはその政府であるミャンマー政府)との抗争を繰り返してきた。宗教的には、基本仏教徒がこの地に住んできたのだが、西部にはバングラデシュ、インド方面から移動してきたとされるイスラム教徒がおり、英国支配時に、多くの少数民族がキリスト教に改宗している。

ミャンマーでは、「ロヒンギャ」なる民族は存在しない、というのが近年の政府の正式見解である。私の理解では、英国支配時、ミャンマー国民の規定に際し、「ある時期以前からミャンマーに定住している人がミャンマーの市民権を持つ」とされたが、ロヒンギャは、わりと近年バングラデシュ方面から移動してきた(というのが政府見解)ので、ミャンマー国民ではない、というのである。

私はNGO職員としてミャンマーに3年間住んだが、この話題はなかなか繊細な問題であり、飲み会などでミャンマー人と話しても、特にいまイスラム教徒対仏教徒の衝突の現場となっているラカイン州出身の仏教徒は、イスラム教徒に対する嫌悪を隠さない。その他地域に住んでいる仏教徒も、イスラム教の危険性を指摘する。
「彼らは一夫多妻制で、たくさんの子どもが生まれるから、これを許すとイスラム教徒の人口が拡大し、ミャンマーが乗っ取られる恐れがある」
「イスラム教徒はテロリストである」
とまことしやかに語るのである。割と学のあるミャンマー人でもそう言ってはばからない。

ロヒンギャ問題はいまやミャンマーの国内問題ではなくなってきている。政府のこの問題に対する無策が、国連や人権擁護団体など国際的に非難されている。
先年指導者となったアウンサンスーチー氏も、この問題だけには明確な施策を打ち出せていない。正論であるはずのロヒンギャ救済を叫べば、大多数を占める仏教徒から攻撃されるからである。それほどこの問題はミャンマーでは根が深い。

もう一つ重大なのは、ISなどのイスラム過激派の関与である。イスラム教徒が虐げられている国は、過激派のテロのターゲットとなる恐れがある。

いずれにせよ、難しい問題であるとしか言いようがない。
2017/11/5 (Sun.)
三度九十九谷へ 晴れ@千葉

九十九谷の朝日
 
朝日のなかで赤いきつねを食らう
 
浅い川に飛び石を作って対岸に渡る
 
山の中にあるカフェササヤ

友人2人と日の出の九十九谷へ出かける。目的は九十九谷からの霧海観察と、熊調査である。

5時前に千葉市を出て、高速で君津から鹿野山へ。ちょうど6時ごろ、日の出時刻に九十九谷公園に到着。
霧海は発生していなかった。前日放射冷却で気温が下がると翌朝に発生しやすいそうで、昨夜の冷え込みを考えると期待できたのだが残念。

朝の6時、公園展望台にはたくさんの人が来ている。三脚でカメラを構える人やカップルなどが目を細めて朝日を眺める。
山際近くには帯状の雲があり、しばらくしてその帯雲の上から太陽が顔をのぞかせてくる。

寒い。コンロで湯を沸かし、コンスケが持ってきた赤いきつねを食べる。

その後、私が熊らしき獣を目撃した九十九谷を歩くことにする。先月来、私にとっては3度目の九十九谷である。
沢まで下り、林道に出る。林道沿いの川の先の方に巨大イノシシを発見。イノシシは一散に山に駆け込んでいった。
イノシシもデカい。君津市職員から聞いた話では、1m以上あるイノシシは普通にみられるそうである。
 
急登

山に入り、私が「熊」を目撃した場所を通り過ぎる。沢沿いのイノシシ以来、獣は出現しない。
今日は鹿野山ゴルフ場の西側を通って神野寺に至る道を歩こうと思っていたが、地図を持ってこなかった。途中から進路を変更し、裕助のGPSを見ながら、ゴルフ場の東側を通って九十九谷公園に上がるショートコースとなった。
結局イノシシ後に獣には出会わず。

ゴルフ場の脇道を通る。ゴルフ人気は堅調なのだろうか。早朝からプレイしている人たちが見える。3連休の最終日。
私は金儲けのために房総の自然を破壊して無数のゴルフ場を造った人間たちに対して、いま殺意にも似た憎悪を感じるのだが、まぁ、金儲けのために自然破壊に邁進した高度経済成長期の日本人は、大東亜戦争時に大衆がみな戦争すべきと思っていたのと同様、経済発展のためには自然をどんどん破壊して金を生み出すインフラやゴルフ場を造るべき、と信じ切っていたのだろう。いや、自然を破壊すると重大な弊害があるという知見がなかっただけ、つまり単に無知だっただけなのかもしれない。
ライフラインである道路などはまぁ必要だったとしても、娯楽のために房総に無数に建設されたゴルフ場というものは、本当に腹立たしい汚物である。房総の山々は無残に削り取られ、多くの動植物が消滅した。しかも、造成途中でどんな理由か分からないが建設が頓挫して打ち捨てられたゴルフ場もあり、経営者には元に戻せと言いたい。私有地なのかもしれないが、もしそうであればどういういきさつで私有したのか教えてほしいものである。

九十九谷公園に戻った我々は、まだ9:30であることに愕然とする。夜明けから活動していると、一日は途方もなく長い。ひとハイキング終えてまだ9:30なのである。

その後車で九十九谷を後にし、「志駒不動の霊水」でたいしてご利益がありそうだとも感じられない普通の味の水を飲み、橋から川に降りて地蔵堂の滝を見る。
この川沿いを下流に歩き、割と広い石の河原に出る。ここで浅い川に河原の石を投げ込み、飛び石を作って川を渡る。飛び石が中途半端で、結局靴も靴下も濡れてしまう。今日は沢装備ではない。
渡河のための飛び石作りは冬の日曜日に適した遊びとは言えないが、いい中年が早く起き過ぎた際の暇つぶしにやるには格好の遊びである。違うか。
対岸に渡ったら、ブロック護岸の脇の土斜面のヤブを登り、舗装道路に出る。

車に戻り、鴨川金束の集落のいちばん奥の上の方にあるカフェササヤまで移動し昼飯。
林の中にある陶芸工房兼カフェで、店内には長テーブルがあって、壁の棚には売り物の陶芸品が陳列されている。
我々が訪れたときには、40代と思える奥さんが一人で対応していた。
カレーパスタセットを食べた後、この気さくな奥さんといろいろ話す。
「この近くで熊見ませんか?」
「見たことないです。でもイノシシ、サル、キョンはいつでも会いますよ」
ここは山の中で、低地と比べるとえらく寒い。奥さんがストーブに火を入れてくれる。

その後君津市内のパン屋「中村屋」でパンを楽しむ。

千葉には夕方5時前に帰着。朝早かっただけに色々なところで活動した一日。
2017/11/2 (Thu.)
新崎川左俣 沢登り 晴れ@千葉

白銀橋の下から入渓
 
 
幅広滝

 六方の滝 全景
 
 
川を埋め尽くす倒木に、心が折れそうになる

終了点近くの10mハング滝 

今日は先月不覚にも遡行できなかった新崎川左俣に臨む。
朝4:20に起き、5時に車で出発。途中のファミリーマートで昼飯を買い、千葉駅近くの駐車場に停める。
電車は先月と同じ。5:53千葉発の総武・横須賀線で戸塚、さらに東海道線で平塚乗り換えで湯河原へ。湯河原着8:33。

湯河原駅の自動トイレアナウンス。
「左が男子トイレです。男子トイレの左が女子トイレです。」

9時発のバスに乗り幕山公園に9:15着。ここから歩いて入渓点へ。先回は間違えたのだが、取水場手前のけもの道に入り、山の中をどんどん歩く。山道から白銀林道へ出る。しばらく歩くと入渓点の白銀橋。幕山公園から45分ほどで到着。午前10時。
朝早かったので腹が減った。サンドイッチを食べる。そして沢着に着替える。
橋のたもとから新崎川へ降りる。入渓10:30。
上流へ向かって歩き始める。水量が多い。川の石は大きく、岩と呼んだほうが良い。それらは緑に苔むしており、その様子は奥多摩の沢に似ているが、岩が大きい。
その岩々の間から清流が落ちる。

程なくして両岸が切り立ち、ゴルジュとなる。谷が暗くなる。
そして2m〜5mくらいの滝が次々に現れる。淵のある滝、幅広滝、柱状節理的階段状の岩を流れ落ちる滝、様々な個性を持つ滝を登っていく。水量豊富なので時々シャワークライムも敢行。11月に入ったとはいえ、今日は晴れて天気もいいので、まずまず気持ちいい。滝を登るワクワク感と水を浴びる爽快感が融和して高揚する。

右から中尾沢が入る。この中尾沢の先に、「六方の滝」という柱状節理の黒い岩肌を流れ落ちる滝があるというので見に行く。
中尾沢をぐんぐん上がっていくと、右から10m以上の滝が入ってくる。この滝の滝面の岩も柱状節理風のブロック的な形をした岩である。
さらに二俣となる左股の奥に、これまた柱状節理風の岩の上を大きな滝が落ちている。20mはあるだろう。ただ斜度は緩いので、登れそうである。登らないけど。
何と言ってもその岩肌が独特である。直線的に岩を切り出したような角状の岩が剥き出ている。

この20m滝の右わきにロープがあり、このロープを使って斜面を上がると、右俣のさらに上にある六方の滝に到達する。
これが素晴らしい滝だった。私が近年見た滝の中では一番感動した滝であったろう。滝を見て言葉を失うのも珍しい。
箱根の山中深く、ひっそりと鎮座する巨大な滝。黒い柱状岩に白い水が流れ落ちるさまは、圧巻である。自然の偉大を感じざるを得ない。これを見ただけでも今日という日は吉日だったと言えるくらいの滝である。
木々がわずかに紅葉している。さすがに千葉よりは大分標高が高く冷涼なようである。
 

中尾沢を降り、再び新崎川を登り始める。
しばらくすると倒木が目立ってくる。突破するのに難渋する。
と、ついに大倒木地帯に直面する。50mくらいに渡って大小の木々、枝が折り重なって川を覆っている。これまでの倒木帯とは規模が違う。
倒木がびっしり川の上を覆っているため、両岸の山に逃れずに、この倒木の上を行くことを決断する。倒木は一部なかば藪のようになっており、川の上を藪漕ぎするという異常事態となる。なんとか藪を漕ぎ、木の上を渡りしながら進む。木々の下には川が流れているのだが、木と水の間は中空になっているところがあり、そこを踏み外すと1mくらい下の川に転落する羽目になるので慎重に固定された木々を選びながら踏みつけていく。
心が折れそうになりながらもなんとか倒木の弱点を見つけて進んでいく。
ようやく突破。川が再び現れる。

ここからも滝が連続し、小気味よく上がっていく。
手に川虫が付いていた。私は冬は沢登りのオフシーズンだと思っているので、沢を登るのは夏場であるが、それは水と戯れるには暑くなくては爽快感がない、というのが一番の理由である。爽快感が楽しさになるのだ。
冬の沢登りの次につまらないところは、昆虫や小動物の姿が沢からほとんど消えていることである。沢を登りながら蝶とかトンボとかカゲロウとかカエルとか魚の姿を見ると、なぜだが心が刺激される。なぜだろう、子供の頃から、人間以外の生き物というものに対して、どうしても興味が向いていく。さすがに子供の頃ほどの昆虫などの生き物に対する執着心はなくなったが、それでも生き物に対する興味はいまだに尽きないのである。

ポンプ小屋に到達。ここでは以前ポンプで水を取水していたようで、配管の残骸が残っている。
さらに上がると、終点近くの10mハング滝に到達。滝の下部がオーバーハングしていて、上部は階段状の黒い岩の上を水が流れ落ちている。
下部は左の岩場から上がり、そこからは階段状の滝面を水をかぶりながら上がる。

ほどなく堰堤に到達、堰堤のすぐ上に終了点の登山道が木橋を架けている。遡行終了、午後3時ちょうど。遡行時間は4時間30分。
川はもうだいぶ細くなっており、河原のような場所がないのでここでの着替えを諦め、まずは登山道を歩いて県道に出ることにする。
雨が降り始める。沢装備のまま登山道を歩く。10分ほど登ると、神奈川県道75号線に飛び出す。険しい山を登る登山道路だが、わりと車が走っている。
ここで着替える。雨はもう止んだ。
そして、買ってあった弁当を食べる。入渓直前に白銀橋でサンドイッチを食べて以来の飯。そしてタバコを一服。

箱根レーダー局前のバス停は、ここから500mと書いてある。いま3時半。最終バスは4時ちょうどなので、我ながら完璧なタイムコントロールである。
バス停まで歩く。4時10分前。箱根レーダー局前バス停は、道端に無秩序に生えた雑草の中に半ば埋もれかけていた。
ここの山上には、国土交通省の航空路監視用のレーダー局がある。
ここから湯河原駅行きのバスは1日に3本しかない。午後4時が最終である。遡上に手間取り、これを逃していたら、歩いてこの山を下りる羽目に陥るところだったので時間通りに遡行を終えられたことに安堵する。

バスは5分ほど遅れてやって来た。つづら折れの道路をグングンと降下していく。
よほど高いところにいたんだということが実感される。
山を降りたバスは、奥湯河原、湯河原の街を走り抜ける。
昔、熱海の会社保養所で温泉麻雀をした際、帰りに湯河原の日帰り温泉に寄ったことを思い出す。湯河原には、廃れていない温泉町の活気がある。

湯河原駅まで40分くらいで到着。
東海道線と横須賀・総武線で千葉に帰る。

新崎川左俣 沢登り ユーチューブ動画
新崎川左俣 沢登り 写真集
2017/11/1 (Wed.)
埴輪博物館とひこうきの丘 晴れ@千葉
 
芝山町立埴輪博物館

離陸直後の飛行機

10月2個目の台風も去った。
ようやく晴れが続くようになり、外に出る。引きこもり生活では、身体を動かさないことが絶対的に良くない。
今日は千葉市から見ると北東方向、芝山町へ車を走らせる。
まずは芝山町立埴輪博物館。千葉県は全国でも有数の古墳生産県で、なかでも北総のこの辺りは特に多く、それに伴って古墳跡から埴輪がたくさん出土しているため、埴輪の博物館がある。
入館料200円。

北総で出土した埴輪の種類や目的についての説明。
古墳時代は弥生時代の後で、地方豪族が力を持ち、その死に当たって彼らを祀る古墳が造成された時代である。

200円にしてはなかなか良かった。

博物館は、芝山公園の一画にあり、ここには芝山古墳という前方後円墳がある。そこには巨大な埴輪のレプリカが並んで立っていて、見る者を和ませる。
芝山町は埴輪で売り出している街で、目抜き通りには埴輪のレプリカがあちこちに設置され、来週土日には「埴輪祭り」という年に一度のイベントがある。

芝山公園を後にして、成田空港南側に設置された「ひこうきの丘」という公園に行く。
ここは、成田空港を離発着する飛行機が間近で見られる場所である。
午後3時過ぎに着くと、人々が思い思いに散開している。カメラを構える人、友人同士でダベっているグループ、小さい子供連れの家族、カップル。

平均すると10分に一度くらいの頻度で飛行機が離陸する。いま滑走路の南側にあるひこうきの丘では、すぐ上をひこうきが離陸していく。着陸する飛行機は、滑走路北側からアプローチするので、ここからは遠くなる。
様々な航空会社のジャンボ機が、すぐ上を次々に通過していく。世界各地に飛び立っていくのである。
巨大機械の飛翔。

午後4時を過ぎると、予期せぬことが起こる。突然、離着陸の方向が逆になったのだ。つまり、今まで南へ離陸、北から着陸だったものが、南から着陸、北へ離陸するようにそっくり変わってしまった。飛行機管制も面白いものだ。時間で決まっているのだろうか。それとも風向きなどの気象条件で臨機応変に変更するのだろうか。

ともあれ、今度はひこうきの丘の上を、着陸する飛行機が飛ぶようになった。遠くに小さく見えている飛行機が、徐々に高度を下げ、やがて目の前に轟音をとどろかせて滑走路に降りていく。離陸する飛行機は公園上空を通る際にはすでに車輪をしまっていたが、目の前を着陸する飛行機は、車輪を下ろした状態である。
数100m先を爆音とともに滑るように降りてくるジャンボ機は圧巻。

ひこうきの丘 ユーチューブ動画

そうやって巨大な乗り物が空を滑っていくのを見ているうちに日が暮れた。11月、すっかり日が短くなった。
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