インターネット町O宮台のみなさん、こんばんは。いかがお過ごしですか。
今月も久しぶりにFMサウンドワールドの時間がやってまいりました。気のきいた音楽とみなさんのお便りでお送りする60分間。インターネット上バーチャルFM局のFFSこと吉田がお届けします。
この番組は、FFSをキーステーションに、FTS、FWS、FES、FIS、FJSのO宮台6局ネットでお送りします。
今月のオープニングは、日本では「鳥インフルエンザ」が脅威になってる、ということなので、この曲をお送りしましょう。それでは、吉田の演奏でどうぞ。
「鳥」 / 吉田伸也
(演奏:吉田)
【お便りコーナー】
お便りの紹介です。
はじめてお便りします。茨城は水戸在住の瀧川です。
エクアドルの音楽事情を聞かせてください。 ----------------------------------------------------------------
ということで瀧川さん、よくぞ聞いてくれました。それではご紹介しましょう。
エクアドルでは、サルサやメレンゲといった中南米特有のダンスミュージックが人気。ビートが軽く、腰を振りつつ踊れるような音楽。
それと、フリオ・イグレシアスみたいな歌い上げ系歌モノ。僕が思うに、日本で言えば歌謡曲や演歌の部類。これは若者から年配者まで幅広く聞かれている。また、若者は、ロックやレゲトン(プエルトリコで生まれた、ヒップホップを激しいビートに乗せたようなの音楽)をディスクマンで聞いている連中も多い。(エクアドルでは、携帯音楽プレーヤーといえば、断然ディスクマンである。何人の生徒が僕の所に「ディスクマン壊れちゃったから直してくれ、プロッフェ」って来たことか。)
エクアドルで音楽は、街中で流れているし、テレビやラジオでも流れる。バスの中では必ずテープとかCDとかFMラジオの音楽を流していて、日本の静かなバスとは違った趣がある。
ラテン系の人間は踊りが好きである。奴等は若い頃から踊りまくる。いわゆる踊れるディスコだけでなく、音楽演奏のある飲み屋なんかでも、音楽が始まるととたんに席を立って音楽に合わせて踊りだす。
そして何かイベントでもあれば、DJと呼ばれるいわゆる司会者(進行役)が雇われてやってくるのだが、必ず巨大なスピーカーとPAシステムも一緒にレンタルする。ダンスやバレンタイン、夏祭り等、時期時期でイベントはエクアドル人に欠かせないものだ。そしてそのイベントに欠かせないのが音楽と踊りなわけである。
エクアドルの家庭用音響機器、たとえばラジカセで特徴的なことといえば、日本で売っているものに比べ圧倒的に低音重視の音つくりをしていることである。回路はもちろん、スピーカーもウーファーがやたら効いてる。だから日本のラジカセとは大分作りが違っていて、見た目がごっついものが多い。コンパクトなんていう価値観はないのだ。音に迫力があること、それが第一のようだ。
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今日の2曲目は、南米音楽ということで、南米アンデス地方の伝統芸能・フォルクローレから、誰もが知っているこの曲いってみましょう。
コンドルは飛んでゆく。
コンドルは飛んでゆく
(ケーナ演奏:吉田)
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音楽エッセイ(Vol.3)
「コテコテの日本人が英語でロックを歌っちゃいかん」
よく日本人ミュージシャンのクセに英語の歌詞を作詞して歌ってる奴がいる。これは断固として「ロック」ではない。たとえそれがガンガンのギターサウンドで一般的に言う「ロック音楽」みたいな風に聴こえたとしてもだ。それはニセモノロックである。
そもそも「ロック」というのは、僕の定義でいけば根源的には概念であって、サウンドや楽器の編成といった形式とは関係ない。エレキギターがなけりゃダメとかシンセが入ってたらダメとか、そんなことは全くないのである。ジェスロ・タルやマゴ・デ・オズ(スペインのバンド)みたいにフルートやバイオリンが入っていてもいいし、極端な話クラシック的な編成だろうが笛とかウクレレでも「ロック」になるのである。なぜか。
「ロック」というのは「心の叫び」なのだ。「アティテュード」なのだ(笑)!要は他の芸術と同様、「内面の表現」なのである。ロッキン・オン風に言えば、「初期衝動の発露」なわけである。
そこに楽器・サウンド的要素は少ない。もちろん、楽器のみで自分を表現できる人はすばらしいが、基本的に僕は「言葉」で表現するのがロックの形式だと思っている。言語野への刺激。言葉を覚えた人間ならではの芸術。すなわちロックというのは音楽と言葉が融合することにより絵画や彫刻に文学が合体したような高度な芸術なのだ!!
よってロックは「歌モノ」であることが必要だとボクは考えてる。「言葉による内面の表現」がロックである。その意味で、「直接的・短絡的言葉の奔出」であるパンクが一番ロックの純粋な形であると言えるのである。ということは、見方を変えれば、甘ったるい歌謡曲とかこぶしの効いた演歌も、その表現者の内面感情の飽くなき流出ということであれば、ロックといえるのである。
そこで表題のテーマに戻るが、日本人の心の叫びが英語になるわけないでしょ。英単語の連呼くらいならまだしも、長い文章の英語がなぜ日本人の内面表現になる?コテコテの生粋日本人が、英語の文章やフレーズの意味する繊細なニュアンスまで分かるわけないのだ。外国に長い間住んで常に英語で話し英語で思考するっていうのでなければ、英語で自分の初期衝動が出てくるはずがない。
こう考えると、地方出身のアーティストは、自分の思いの丈を純粋な形で表現するなら普段自分が使っている方言で歌うべきだと思うのだが、方言で歌われている大衆歌は少ない。関西弁で言えば上田正樹『悲しい色やね』とか憂歌団、ウルフルズとか。メジャーな人たちはほとんどが標準語で歌っている。漫才とか芸人は関西弁でそのままやってるけど、なぜか歌は大部分が標準語に変換されてしまってる。これはなぜだろう?関西人が「東京弁はキモチ悪い」と言っているのをよく聞くけれど、なぜ関西系のアーティストは普段使い慣れている関西弁で歌わないのだろう?それが「ロック」だと思うのだけど。日本人万人に伝えるには、みんなが理解する標準語で歌うべきだという悪しき大衆迎合主義、または標準語じゃないと全国では売れないという商業第一主義の現れか。
まぁとにかく、チャキチャキの日本人が英語で「心の叫び」を発することなど不可能なのである。
ということで英語で歌われる日本人の楽曲を聴くたびにいつも虫唾が走るボクであります。
(続く)
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