HOME > 2017 JAPAN TRAVEL > Summary > 2-1

Japan Travel 2017
日本一周全国行脚の旅
2.歴史をたまたまたどる旅
 
高野山奥の院。参道の両側に著名人の墓や供養塔が延々と続く
 
高野山奥の院の伊達家墓所
 
 
室戸岬から海を望む(高知県室戸市)
 
室戸岬のみくろ洞。2つの洞穴が室戸岬の海に向かって口を開けている
空海は、私度僧時代、ここで修業した(高知県室戸市)
 
 
大麻山山頂から見た讃岐の風景(香川県善通寺市)

弘法大師誕生の地に建つ善通寺御影堂(大師堂) (香川県善通寺市)、 
 
真言宗の総本山、高野山の金剛峯寺(和歌山県伊都郡高野町)
 
 
金剛峯寺の廊下
 
高野山のメイン通り
 
高野山 大門

 見附島(石川県珠洲市)
 
讃岐うどん。美味い。セルフの店で。(香川県善通寺市)

(1)空海 (2018年1月記)

唐突だが、いままで一番多くの人間に影響を与えた日本人は誰であろうか?

高野山の奥之院の参道、2kmに渡って延々と続く墓や供養塔を見て歩きながら、私には上記問いとその答えが同時に浮かんできた。

空海であろう。


「多くの人間に影響を与える」には、当然知名度がなければならない。
そして、人間の生き方、どう生きたらいいかを説いた人、すなわち宗教人こそが、より多数の人間に影響を与える存在になり得る。
聖徳太子は立派な教えを説いたが、いまでは伝説的な色彩が濃い。
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などの戦国武将では、その生き方に共感はしても、「どう生きればいいか」を説いたわけではないので、多くの人間に「影響を与える」というわけにはいかない。

やはり宗教人である。
世界的にいえば、世界三大宗教の開祖、釈迦、キリスト、ムハンマドなどが、世界中の無数の人間に影響を与え、いまも与え続けている人、ということになろうが、それでは日本人に限定するとどうであろうか?
空海であろうと思う。
純粋に各宗派の信者数を累計していくとどうなるかは知らない。現代の日本人で言えば、浄土系の仏教徒が最も多い。浄土宗の開祖は法然、浄土真宗の開祖は親鸞であり、いずれも鎌倉時代に新しい仏教宗派として興した。
日本での浄土信仰の広がりを考えると、浄土信仰を唱えた人々も多くの日本人に影響を与え続けてきたと言っていいだろう。

また、空海と同時代、奈良・平安時代に生きて、空海と宗教的覇権を争った最澄も候補である。彼が興した天台宗と比叡山延暦寺は、その後日本仏教の総本山的地位を保ち、鎌倉時代にはここで修業した数多くの仏僧が、新しい宗派を興している。前述の法然や親鸞もそうである。その他、道元や日蓮もここで学んでいる。よって、現代にまで至る鎌倉新仏教の開祖たちの師匠は、間接的には最澄ということにもなり、そう考えると間接的とはいえ相当な人々に影響を与えている。

だが、いずれも空海の知名度とカリスマ性には勝てていない気がする。

空海が開いた真言宗の信徒は、現代でこそ浄土系の信徒数よりも少ないが、高野山の奥の院を歩いていると、空海の後の時代の人々は、みな高野山に墓を持ちたがったように見える。
奥の院には、戦国時代の名だたる武将たちから江戸時代の全国の大名、有名な僧の墓や供養塔が2km近くに渡って連なっている。
空海が生きた奈良・平安時代以降、真言宗の信徒だけでなく、世間一般の人々が綿々と空海を尊崇してきた証拠と言っていいだろう。
もっともこれは、空海の死後、高野聖たちの手による「弘法大師信仰」が、空海を神格化させたことも大いに影響しているだろう。弘法大師その人を神として崇めるという信仰が広まったことが大きい。だが、神格化されるほどの人間だったとも言えよう。

空海は天才であった。あまりに陳腐な形容だが、天才という形容がふさわしい人は他にそうはいまい。
彼の才は留まるところを知らない。思想家、論理家として、それまでインドにも中国にもなかった密教の一大体系を構築・完成させる。数々の彼の著作は、精緻な論理性を持つという。
それだけでなく、芸術にも通じ、その書は中国の皇帝をもうならせ、日本の嵯峨天皇は彼の書に感激したのである。彼は入唐時にはすでに現地の中国人と違和感なく中国語で会話ができたという。さらにインドのサンスクリット(梵語)を数か月でマスターしたともいう。さらには建築にも通じ、讃岐の満濃池というため池の修築工事を行っている。そして京都に庶民が学べる学校を造り、日本初の漢字辞典を編纂するなど、百花繚乱の才能である。

司馬遼太郎氏は、その著書『空海の風景』のなかで、「空海は、人類的人間であった史上唯一の日本人である」と述べている。「人類的人間」とはつまり、日本という国家や日本人という民族の枠を超えて、地球人であったという意味である。司馬氏いわく、過去日本人にも卓越した思想家があまた輩出したが、彼らは誰一人として日本人の枠を超えておらず、日本国、日本人の社会的条件のなかでその思想を打ち立てているが、空海は、密教が宇宙の原理を表す教えであるからして、国も民族もなく、ただ人間であるという普遍性からのみものを考えた、としている。(ちなみに司馬氏は、過去の偉大な思想家として、山鹿素行、本居宣長、平田篤胤、西郷隆盛、内村鑑三、吉野作蔵の名を挙げている)
宗教人とはそういうものであろう。
だから空海は、天皇や権力といったものに全く価値を見出していない。いないどころか、天皇ですら彼が会得した密教の真理からすれば一個のただの人間に過ぎないわけであり、そう考えれば、天皇ですら空海の弟子とならざるを得ないのである。現に彼は、嵯峨天皇に灌頂(キリスト教で言えば洗礼のような儀式)を与えている。

そして、源義経同様、空海にまつわる伝説が、日本各地に残っている。彼が行ったはずのない奥州(東北地方)にまで、彼の偉業が伝えられる。杖を突いたら水が湧き出たとか、彼の杖の一突きで温泉が湧き出したとか、木の葉を魚に変えたとか、
これらの伝説形成には、前出の高野聖による弘法大師信仰流布の影響が大きかろうが、高野聖がそうやって喧伝しても「空海だったらやりかねない」と人々に思わせるほどの人物だったということだろう。

21世紀のこんにちにおいても、空海の知名度は抜群であり、一種のカリスマイメージがある。それこそ、日本ではあまねく人々が空海を崇拝してきたことに他ならないと思う。
「弘法も筆の誤り」、「弘法筆を選ばず」というような、ことわざにまでなっている人物は、そうそういまい。それだけ知名度が高いということだろう。

四国八十八か所巡りを始め、私の地元で言えば初詣で有名な成田山新勝寺も真言宗系の寺である。真言宗の寺院だけでなく、日本全国に弘法大師が祀られている。




空海は、774年、讃岐の国(現在の香川県)に生まれ、その後当時の首都奈良で大学に入学し、すぐに中退し、私度僧として諸国放浪の旅に出、山河を放浪しながら密教的な修法を行う。そして唐の長安で密教を修めることを志し、ついに遣唐使として唐に渡り、そこで密教の継承者としてすべての体系を修得する。日本に帰国後、密教の始祖として真言宗を興す。まずは奈良東大寺の別当に任ぜられ、その華厳宗の巨刹の中に真言宗の塔頭を造り、東大寺の営みの中に密教的なものを取り入れる。その後朝廷より京都東寺を与えられ、ここに日本初の密教道場を確立する。そして彼の密教的世界を体現すべく、紀州高野山に大修道場を造営する。
835年高野山にて死去。


今回の旅では、意図したわけではないが、いくつかの空海ゆかりの地を巡ることとなった。
2017年7月16日、私は土佐(高知県)の室戸岬を訪れた。
空海は奈良の大学を中退した後、私度僧となり山河を徘徊して密教的なものを探して修行するのだが、畿内から生まれ故郷である四国に移動し、阿波の大滝嶽で修業しさらに室戸岬に移動したとされる。当時の室戸岬は断崖と深山に囲まれた人を寄せ付けない最果ての場所であり、空海の移動は、乞食同然の僧という立場からすれば、食べる物にも事欠く、相当な難行だったとのことである。
彼は室戸岬にたどり着き、海に向かって口を開けた二つの洞穴を見つけ、ここを修行と生活の場とした。一心不乱に咒(呪文)を唱えたという。
これらの洞穴はいまでも残っていて、みくろ洞として観光地となっている。向かって右側が修業をしていたとされる神明窟で、左が生活をしてたという御厨人窟(みくろど)である。
以前は洞内に入れたらしいが、いまは崩落の危険があるとのことで外からしか見物できない。
この洞で、空海は100日で100万回の呪文を唱えることに成功し、修行を成就したという。
海に向いた洞内からは、空と海しか見えなかったであろう。まさに空海じゃないか。

讃岐の国、現在の香川県。
私は7月17日の夜、阿波から讃岐に入り、大麻山に登り、無料キャンプ場で寝た。
翌7月18日朝、天気が悪く、雨が降ったり止んだりしている。昨晩はキャンプしている団体が盛り上がっていたのだが、私が到着したあとに切り上げて引き揚げてしまったので、大麻山には誰もいない。
雨が止まないかと、テントをそのままにして東屋でラジオを聴きながらボーっとしていると、一人の初老のおじさんが声をかけてきた。彼はいましがた車で上がって来て、車を駐車させた後、杖を突いて出てきて、30分くらいこの大麻山を散歩していたようである。
「ここでキャンプしたの?」
「はい」
「どちらから?」
「千葉からです。いま全国を周ってるんです」
「そうですか。今日はどこへ?」
「これからこんぴらさん(金刀比羅宮)に行こうと思ってます。」
「そう。あと善通寺も素晴らしいからぜひ行ってみてください。善通寺はお大師さんの生まれたところでね。お大師さんにまつわる場所であれば、満濃池も面白いよ。まぁただの池だけど」
おじさんは杖を突いて車に戻り、山を下りて行った。
お大師さん、か。室戸岬から空海づいているな、と感じる。

大麻山から、讃岐の国を眺める。そのあと山頂に登る。雨が降り雲が出ていたので、山頂からの展望はきかない。
大麻山を下りる。

空海は、774年6月15日、讃岐の豪族佐伯氏の子として、現在の善通寺で生まれたという。善通寺には、空海の生誕地である佐伯氏の邸宅跡に建てられたという御影堂(大師堂)があり、堂の額には「弘法大師誕生の場」と揮毫されている。
いまでも6月15日に、善通寺では御誕生会が行われる。
私は金毘羅さんに参拝したあと、おじさんの教え通り、善通寺にも行ってみた。閉館が近く、駐車場には1台も車がない。
駆け足で境内を歩き廻る。金堂、護摩堂、御影堂などを見て回る。境内には、ビルマ戦線で戦没した人々を慰霊する碑が建っている。
境内には樹齢千数百年の大楠がある。空海の頃から生きているとすれば、まさに歴史の証人である。言葉はしゃべらないが。

午後7時前に駐車場に戻ると、駐車場の管理人に怒られた。もう開寺時間はとっくに終わっているのだ。私の車だけがまだ停まっているため、管理人さんも帰るに帰れなかったのである。駐車時料金を払おうとすると、閉寺間際に来たということで、駐車料金は免除してくれた。なんだ、いい人かもしれない。

高野山は、嵯峨天皇の勅許を得て、816年(弘仁7年)7月に空海が真言宗(真言密教)の道場として造営した。現在の和歌山県北部、標高はおよそ800mの、山々に囲まれた平坦地である。いまでは、曲がりくねった道路が山上まで通じている。
私は、7月22日、車で橋本から高野山に登った。確かに、山の中を登りつめた後に、唐突に大展開する山上の宗教都市が高野山である。そこには無数の寺院が並んでいる。
その総本山が金剛峯寺である。入場料を払って金剛峯寺の内部を見て回る。畳敷きの大広間では、僧による説明があり、お茶にお茶菓子が振る舞われた。
高野山を貫くメイン道路を歩く。寺院が多いが、そのほか、商店やコンビニもあるわりと普通の街である。
食堂で親子丼を食す。白人、アジア人など外国人が多い。高野山は世界遺産である。食堂のおばさんが、白人観光客との会話で悪戦苦闘している。

食後は大門まで歩く。大門は、高野山聖域の入り口で、街の西端に建っている。江戸時代に再建されたものだが、2層の堂々たる山門である。

そのあと、奥之院へ。前述の通り、ここには古今の人々の墓所や慰霊塔が累々と参道脇に並んでいる。2kmに渡る参道の両側には、武田家、上杉家、織田信長、明智光秀、豊臣一族、徳川将軍家、毛利家、伊達家、島津家、小田原北条家、浅野内匠頭など名だたる大名家の墓石や供養塔、鳥居が苔をかぶり、時を経たいかつい古さをまとって林立している。また、戦没者慰霊碑や慰霊殿なども目立つ。善通寺にもあった、ビルマ戦線の戦没者慰霊碑がある。ついこないだまで見慣れていたビルマ文字が碑石の上に躍っている。

高野山は、最澄が開いた比叡山延暦寺と並び、1200年に渡り仏教の聖地である。その1200年は高野山にとって順風ばかりではない。
平安時代に空海が開いたのち、何度か荒廃するのだが、室町時代後期には高野聖の活躍もあって殷賑となる、そして、延暦寺や一向宗、紀州の根来衆などと同様、宗教団体でありながら、武装し寺領を拡大して政治的にも力を持つようになる。戦国以降は時の権力者と衝突し、言うことを聞かなかったので弾圧された。延暦寺が信長に焼き討ちされたように、高野山も信長や秀吉に反抗したため幾度か危機に瀕したが、本能寺の変で信長が斃れるなどの高野山にとっての幸運もありながら、秀吉には最終的に降伏し、武力衝突には至らなかった。

ここに蟄居を命じられた人も多い。秀吉の小田原攻めでは北条氏政は降伏後切腹したが、恭順派の北条氏直(氏政の子)は切腹を免れ、高野山に謹慎となる。翌年秀吉に許されて下山するも、ほどなく30歳の若さで病死する。氏直の死により、小田原北条氏は途絶えることになる。
秀吉の甥、当時関白だった豊臣秀次の話も有名である。彼は高野山で自害するのだが、その背景については秀吉との確執があったのかなかったのか、よく分からない。数々のドラマでもこの秀次の死については様々な描かれ方をしている。
そして真田昌幸・信繁(幸村)の親子は、関ケ原で西軍に与したため、敗戦後高野山の麓の九度山に流罪となる。東軍についた信繁の兄、信幸の懸命の運動によって命は助かるのだが、蟄居が解けることはなく、昌幸は九度山でその生涯を閉じる。信繁は大坂の陣で九度山を脱出して豊臣方について戦い、討ち死にする。その勇猛ぶりで徳川勢を苦しめ、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と呼ばれるに至る。

奥之院参道の最奥に建つのが、空海の御廟である。この域内に入る御廟の橋から先は空海がいまでも禅定している霊域であり、それを妨げないように、撮影禁止、飲食禁止、歩きスマホ禁止である。
高野山では、空海は入滅したのではなく、入定したのだとされる。つまり、彼はこの世に生きながらにして奥之院にいるのだという。そして入定前に彼は弟子たちに、「私はこれから兜率天に行き、弥勒菩薩に侍する。弥勒菩薩が56億7千万年後に衆生を救うためにこの世に下るときに一緒に下って再びこの世に現れる」と言い残したという。キリストの復活と似たような思想だろう。
いまでも毎日二度、この御廟におわす空海に対し、食事が運ばれ、下げられる。

橋を渡って歩いていくと、燈籠堂という大きな建物が建っている、これは御廟前の拝堂である。ここには1千年来燃え続ける「白河燈」と「貧女の一燈」、そして昭和天皇から献上された「昭和燈」という三つの燈籠が常明燈として絶えず灯し続けられている。
この燈籠堂の裏に、実際に空海が入定しているという小さな庵のような御廟がある。その横には石田三成が建てたという経堂。
空海は永遠に生き続けるという思想がいまでも信じられ、そのように真言宗の僧たちが行動しているということは、現代では狐につままれたような話であると言えなくもない。そう信じさせるのが、弘法大師・空海ということである。
空海の場合、死の前に五穀を絶ったと言われるが、即身仏になろうとしたのだろうか?
密教の最大の目標は、死んだ状態の即身仏ではなく、生きた状態の即身成仏であるので、空海は単にそうなろうとしたまでなのかもしれない。空海後、即身仏になろうとし、自分自身をミイラ化した僧が出たのは、空海の真似をしたのだろうか。
いずれにせよ、835年3月21日のその死から1182年が経過している今でも空海は生きている、と人々が思っていることが、彼の偉大さを表わしているとしか言いようがない。

高野山は、最も多くの人びとに影響を与えた日本人は空海であると思わせるに足るものを私に見せつけた。
ちなみに、この高野山のあと、私は7月27日に比叡山にも上ったが、延暦寺では、高野山奥之院で感じたような、いわば一個の人物の圧倒的な偉大さというものを感じることはなかった。

<追伸>
真偽は分からないものの、今回の旅における、空海にまつわる場所やものを挙げておく。
(1)見附島
石川県は能登半島、珠洲市の見附島(みつけじま)は、空海が佐渡から能登に渡った際、始めに見つけた島であることから名付けられたとされている。別名軍艦島。軍艦の形をしている。空海って、佐渡に行ったんかいな??
(2)讃岐うどん
うどんは空海が唐から伝えたという説がある。


(続く)

HOME > 2017 JAPAN TRAVEL > Summary > 2-1