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ミャンマー日記(2017年3月)
2017/3/13 (Mon.)
ついにパアンを離れる 晴れ@パアン 

 タンルイン川にかかる大橋を渡り、パアンにサヨナラ

いつもと同じように6:40に起きて支度を整える。
スタッフが通勤するフェリーは、7:50ごろ私の住むスタッフ宿泊所に到着。フェリーに乗っているスタッフたちに、最後の別れの挨拶。
8時、車でパアンを出発。ヤンゴンへ。私がパアンに着任したのは2014年3月1日。今日が2017年3月13日だから、3年間とちょっといたことになる。
荷物はスーツケース1個、段ボールが2箱、そしてビジネスバッグと小型のキャリーバッグそれぞれ1個ずつ。途方もない荷物量だ。段ボール1箱には、丸々スタッフからもらった餞別のプレゼントが入っている。プレゼントがなければ段ボール1個で済んだが、まさかプレゼントを置いて帰るわけにもいかない。

車は、通い慣れた道を走る。今度ばかりは往路のみ。タトンを過ぎ、チャイトーを過ぎ、バゴーに入り、ヤンゴンへのハイウェイの入り口のドライブインで昼食。
ヤンゴンには午後2時過ぎに到着。途中、ダウンタウンの旅行代理店に寄り、明日のヤンゴン発ミッチーナー行きの航空券を受け取り、代金を支払う。
明日から1週間、ミャンマー北部を旅する。

ヤンゴンの事務所に着き、ミャンマーでの実質最後の仕事。3年間のまとめ資料を作成する。

明日は朝早い。早々に眠りにつく。
2017/3/12 (Sun.)
パアン最終日 晴れ@パアン 

 雑貨屋兼食堂のオバちゃんと息子(パアン)
 
食堂のマスターと(パアン)
 
最後のカンタヤー湖、透き通る景色(パアン)
 
 
病院に同級生の見舞いに来ていた訓練生たち

今日は実質パアン最終日。だが残務が終わっていなく、昼前にポネイに車で来てもらって学校へ向かう。
学校で仕事。食堂で最後の昼飯。思えばここで平日は毎日、2年間以上昼飯を食ったのだ。
食堂のスタッフに最後の挨拶。
午後1時半ごろまで仕事をし、学校を後にする。ついに2年以上勤めたこの学校ともお別れだ。

家に帰りついた後、今まで世話になった人に会って挨拶をしようと、自転車でパアンの街なかに出かける。

まずは以前のスタッフ宿泊所近くの雑貨屋兼食堂へ。ここでは雑貨を買ったり、週末に飯を食ったりしていた。
店主のオバちゃんと息子は、久しぶりの私を見て笑顔。私は「明日パアンを離れる」ことを告げる。
それについては、大した感慨もないようだったが(笑)。
この息子は、以前私の勤める技術訓練学校に応募し、面接まで受けたが、残念ながら入学はかなわなかった。彼が志望したのは自動車整備科で、いつも定員の数倍の応募者がある狭き門なのである。それを根に持ってんのかな、私に(笑)。

栄養ドリンクを1本飲んで、タバコを一服。オバちゃんも息子も忙しそうに働いている。
今日はズウェカビン山で仏教イベントがあるとのことで、ズウェカビン山への通り道にあるこの店には、多くの若者たちが立ち寄って飲み物を飲んだり、コーンを噛んだりしている。オバちゃんはひっきりなしに注文が来るコーンを作っている。

その後、訓練学校1年目、まだ学校を建設中で、ダウンタウンに仮学校を借りていた頃、その仮学校に訓練生の食事をケイタリングしてくれた食堂のマスターに挨拶に行く。あいにくマスターは不在だったが、店員のネーちゃん(娘?)が「すぐ近くの家にいるから呼びましょう」といって電話をかけてくれた。
15分くらいしてマスターが車で駆けつけてくれた。
彼は私にジュースを1本勧めてくれ、二人で食堂のテーブルに座ってしばらく話す。話すと言っても、彼は英語を話さないし、私はミャンマー語はほとんど片言だ。だが、彼は私の英語とミャンマー語を理解してくれているようである。少なくとも、英語は理解できているように見える。ニコニコしながら私の話を聞いている。
とてもいい人なのだ。パアンを去る前に私が訪れたのがうれしいのかもしれない。
ジュースを飲み終ると、彼は私にプレゼントをくれた。この短時間でプレゼントまで用意してくれるとは。ロンジーだったから、すぐに買えたんだろうけど(笑)。
マスターと二人で記念撮影して別れる。

自転車で最後のカンタヤー湖へ。カンタヤー湖沿いは多くの人でにぎわっている。湖畔の道路沿いに駐車場ができ、そこには多くの屋台が出ていた。そこでロッティみたいな卵と小麦粉のスナックを買う。

そして病院へ。昨日土曜の夜、訓練生が二人でバイクに乗っていて、転倒して一人が大腿部を骨折する重傷を負ったというのだ。
ダウンタウンの南にある政府の病院に着き、受付のネーちゃんに事情を話す。英語がなかなか通じなかったが、なんとか訓練生が入院している病室が分かり、そこにいく。
訓練生は、同じように骨折した人たちが入院している大部屋で、足を固定してベッドに寝ていた。今日は日曜なので、8人くらいの訓練生が見舞いと付き添いで取り囲んでいた。
知っている限りのミャンマー語で訓練生に状態を聞く。だが、何人かの生徒は英語を結構理解し、いろいろ教えてくれる。大腿骨を骨折しているらしく、手術は水曜日になりそうだという。水曜って、遅くないか?骨折の場合もっと早く修復手術せなあかんのとちやうかな、と内心思う。ミャンマー医療はとにかくひどい。
骨折した訓練生は、「痛い」と言っていたが、苦痛に唸っている風でもなく、上半身を起こして私と会話した。大腿部は青く腫れ上がっている。付き添いの訓練生たちが、彼の尿の世話も尿瓶でしているようだ。ミャンマー人は、こういうことはすごく普通にできるという印象がある。まぁ、日本の高校生でもできるか。

骨折した訓練生の母親が、ヤンゴンから駆けつけていた。彼女にさっき買ったロッティに似た菓子をお見舞い代わりに渡す。おかぁちゃんは息子が事故ってまだ気持ちが落ち着いていないようだったが、こうして同級生らが見舞って激励している様子を見て、少しはホッとしたんではなかろうか。
10分くらい滞在し、病院を後にする。病棟を出ると、付き添いの生徒たちが外に出てきて、私に口々に礼を言ってきた。礼を言われることではない。学校の責任者として生徒が入院したら見舞うのが当然である。

夕暮れ。最後のパアンの街で、メイン道路を通行する車やバイク、乗り合いタクシーなどを眺める。
この3年間、パアンの変化の様子を見てきたが、以前書いた通り、ここ1年くらいのパアンの開発は、その前とは加速度が違う。どんどん来てる。今後しばらくはこんな開発スピードでどんどんこの街も変わっていくのだろう。

数年後に来たら、その変わりように驚嘆するのか。それとも落胆するのか。
開発で、すべての街が、日本のように他と変わりばえのしない画一的な街になるのは、残念なことではある。だが、日本食レストランのあるパアンを訪れてみたい気もする。
サヨナラ、パアン。
ってもう死ぬまで2度と来ないような書きぶりだけど。そうなるかもしれないし、また訪れる日が来るかもしれない。
2017/3/11 (Sat.)
パンプー山、NGO日本人送別会 晴れ@パアン 
 
パンプー山
 
登山口。ここから急な階段をひたすら登る

 パンプー山からタンルイン川を見渡す

タンルイン川の向こうにパアンの街、その先にズウェカビン山などの山々 
 
みんなお疲れモード
 
気を取り直して
 
 
パアン日本人会

東日本大震災から今日で丸6年。合掌。

今日明日は、パアン最後の週末。今日は、スタッフと一緒にパンプー山を登る。
数日前、スタッフに、「あの、タンルイン川を渡ったところにある山、あれ登りたいんだけど、どうやって行ったらいいかな?」
と聞いたら、みんなよく分からなかった。
ロンリープラネットによると、「タンルイン川を渡る渡し船で行くべし」と書いてあったのでそう聞いてみると、パアンに長く住んでいるスタッフもその渡し船のことをよく知らない。地元の人はあまり行かないのだろう。
日本人は誰も築地に行かないが、今や外国人の人気観光スポット、というのと同じだ、きっと。

で数日後、スタッフから言われ、土曜日に一緒に行こう、ということになった。
朝9時頃、団体の車を出して(プライベートだけど)、私とスタッフ7人で出かける。渡し船ではなく、タンルイン川にかかる大きな橋を渡って、大周りで陸路パンプー山にたどり着く。ずいぶん遠回りした。それに、途中から道も悪く、パアン市内からは45分くらいかかった。渡し船の方が大幅に簡単である。

天気がいい。スタッフから「昼間は暑いから朝のうちに登った方がいい」との進言で、朝から動き始めた。昨日の大送別会は12時くらいに終わったので、それほど寝不足でもない。
3月も10日が過ぎ、徐々に気温が上昇している。1月、2月は朝晩涼しくなり1年間で最も過ごしやすい季節だが、3月に入ると最悪の季節、4月、5月への足音が早くも聞こえてくる。
朝、すでに暑い、

パンプー山は、他のほとんどの山と同じように、山頂付近にパゴダがあるので、登山道の入り口には山門がある。つまり、寺院と同じで、ここからは聖なる領域だということだ。
10時頃、登り始める。山門のアーチをくぐると、急な階段が続く。ずいぶん急だ。すでに気温は30℃あるだろう。昨晩は12時までカラオケで騒いでいたので、みんなややお疲れモード。しんどそうに休み休み登る。
山頂の前に小さな金色のパゴダ(仏塔)がある。眺めは最高。タンルイン川の流れが眼下に見え、向こう岸にはパアンの街並みが広がっている。その背後には、ズウェカビン山をはじめとするパアンを囲む山々が見渡せる。

山頂付近は階段でなく、細い登山道のような感じとなり、ところどころ細くて砂地で足場が悪く、えらく危険な状態となる。そして現れるはしご場。しかしこのはしごが壊れかけの代物で、下段のはしごは何とか登れたが、上段の別のはしごはもう壊れていて登れない。しかももう道もよく分からないくらいに細くなり、急な斜面に申し訳程度についているので、一歩足を踏み外せばすぐに滑落、というあり得ない状態となる。
ここでウマウンテイが愛用のサングラスを落としてしまい、斜面の木の根元辺りに落ちたらしいが結局見つからずに回収できず。35000チャット(約3500円)もしたそうだから、痛い紛失だ。しかし下手に取りに行って山から転落するよりはマシだろう。

結局下段のはしごまで登ったのは、私含めて3人だけ。女性陣は危険個所には近づかず。賢明。
しかし景色は最高だ。

女性陣が休んでいるところに戻り、登山に来ていたデンマーク人の女性に記念写真を撮ってもらう。登山中、ミャンマー人の登山者は子どもたちだけしか見なかったが、白人旅行者は、年配夫婦、カップル2組の計3グループが登っていた。この山はロンリープラネットに載っているので、欧米系観光客はよく訪れるらしい。

みんなで下山。シンシアは頭が回らなかったのか、高い底のいわゆる「厚底サンダル」を履いてきてしまい、急な階段を上り下りするのに四苦八苦。途中からはサンダルを脱いで下っていた。

山門まで下山。
すぐ下にあるタンルイン川まで降りてみる。大きな流れ。ボートが何艘か留めてあり、ちょっとした個人船着き場のようだ。子供たちが遊んでいる。
 
岩場にかかる崩壊寸前のはしご
 

パンプー山 写真集

パンプー山を後にし、さらにヤンゴン方面へ向かってしばらく走る。切り立った山の麓に穴をあけた洞窟寺院がある。ここには2度くらい来たことがある。
ここの食堂で昼食。みんな鶏肉とかヤギ肉のカレーを頼む。
「ここのご飯は固い」
とスタッフたちは文句を言う。店主にも言っている。店のおばちゃんは、何やら言い訳をしているようだ。
ミャンマーの人たちは、基本的に「仕方ない」という諦めのムードを漂わせている人がほとんどだが、こういう時には言いたいことを言うのね、と妙に感心。
ミャンマーでは長い軍政で、民衆は言いたいことが言えず、妙なことを言おうものならスパイや盗聴設備によって通報され、牢獄行き、といういわゆる独裁国家であったので、人々は大ぴっらに政治的なことを言えなくなった。ミャンマー人はそれを引きずっているように私には見える。あまり文句を言わない。よく言えば「大らか」、「寛大」である。細かいことを気にしない、という国民性なのかもしれない。が、時にはどうしようもない「諦め主義」となる。「言っても無駄だからいいや」と、正しいと思ったことでも主張せずに諦めてしまう傾向があるのではないか。
ミャンマー語では「アーナーデー」という言葉がある。「仕方ない。しょうがない」というような意味らしいが、この言葉にミャンマーの国民性のある側面は象徴されている。

サトウキビのシーズンで、いま街ではいたるところでさとうきびジュース製造マシンが稼働している。ここでもさとうきびジュースがあったので、みんなで飲む。甘さ控えめなところが良い。
今日は私が最後だというのでパンプー山登山を企画してくれたスタッフたちに、感謝の思いでここの昼飯は全部私もちでおごる。

腹が満たされた後、参道の階段を上って、洞窟寺院を訪れる。ここにも洞窟の入口のホール状の広場に金ピカの仏像やパゴダが配置されていて、洞窟の洞穴を辿っていくと、これまたところどころに仏像が配置されている。そして鍾乳石や洞窟池が現れる。洞窟の中はヒンヤリとし、外の酷暑が嘘のよう。天然のクーラーで、暑期はここに住みたいくらいである。

ピピさんと洞窟を一番奥まで歩く。一番奥は狭い部屋のような場所にやはり仏像が置かれており、そこか洞窟の終点である。人々はここまで来て、お参りして元来た道を引き返していく。

再び強い日射の外に出る。
ウマウンテイが、「前来た時は猿がいっぱいいたけど、今日は全然いない」と不思議がっている。

午後2時。今日の遠足はこれで終了。車でパアン市内に戻る。
楽しい遠足のみんなとの別れ際、本当にもうすぐパアンを去ることを徐々に実感してくる。

夜、パアンに住む日本人の面々が、私のために壮行会を催してくれた。
以前にも紹介したが、パアンはミャンマーで最大都市ヤンゴンから車で5、6時間と聞くと、日本人がいなさそうな相当な田舎を想像するかもしれないが、そんなことはない。NGO、国連、私企業などの駐在員が割といる。今では10人くらいだろうか。
「パアン日本人会」が結成できる。してないけど。
ちなみに、以前はもっといた。2年ほど前は、20人くらいいたのではあるまいか。JPF(ジャパン・プラットフォーム)というODA資金の取りまとめNGOのプログラム終了とともに、多くのNGOが撤退していった。

BHNという日本のNGOの事務所で、総勢9人が集まった。いつものようにお好み焼きと酒。それに持ち寄り食材。
僭越ながら私が、スタッフに対してプレゼンした内容の一部をプロジェクターで紹介。いわゆる「吉田魂」(笑)。ま、要するに自己紹介なのだけれども。

私はパアンに3年間いたが、他の人も結構長い。
我々は、変わりつつあるパアンを外国人として体験している人間なのだろう。江戸末期~明治初期に日本にやって来て日本を紹介した外国人たちのように。あの時の日本と同様に、ミャンマーはいま急速に変わりつつある。
2017/3/10 (Fri.)
パアンでの仕事実質最終日、歓送迎会 晴れ@パアン 
 
一人ひとりが、私に送別の言葉を述べる

 スタッフが次々とプレゼントをくれる
 
 
 
 

今日は実質的に、パアンで働く最終日。
出張に来ている私の後任のYさんに最後の引継ぎ。
昨日、今日と、2日連続で私からスタッフに送る、ファイナルプレゼンテーションを、午後4時から5時の1時間で行った。全く仕事に関係ない、吉田とはどういう人間なのかを、最後の最後で紹介する、という、まぁ、いわばエンターテインメントだ。
(もっとも、仕事に関する話は、先週から毎日のように朝礼の時間にプレゼンを行って、「いい組織とは?」「いいマネジメントとは?」「正しい判断の仕方」とか、いわば「吉田式マネジメント魂」をミャンマー人スタッフに伝えてきている。それも終わり、ついに本当の「吉田魂」の伝達、となったわけである(笑))

悪いことに今年から我々のドナーである、日本財団の会長以下、幹部と、ミャンマー政府要人が昨日も今日も訪れた。私のファイナルプレゼンテーションの開催が危ぶまれたが、なんとかやり終える。

夜は、大歓送迎会。私の送別会と、Yさんの歓迎会を兼ねた、大宴会だ。
場所は再びエバーグリーンと言うカラオケルーム。聞けば、時間は、午後7時から12時までの5時間だという。そんな宴会ありかいな?もっとも、全員が12時までいるわけではなく、居たい人がいるだけ居る、という形式。

会は2部構成。1部はセレモニーで、全員が出席。まず、いつものアジェンダで、参加者一人一人が私に対する送別の言葉(今まで何度か紹介していると思うが、ミャンマーの送別会は、参加者全員が送別される人についての思い出や感謝や文句などを一人一人スピーチする)を述べる。参加者は多分30人近いので、全員の話が終わるまでに相当の時間がかかる。
ちなみに、ミャンマーでは「乾杯の音頭」というのはあまりなく、ビールや酒が配られたらみんな三々五々飲み始めるし、食事が出てきたら、みんな三々五々食べ始めるというけじめのなさである。まぁ、仕切る人の仕切り方にもよるのかもしれない。

全員のスピーチが1時間半くらいかかってやっと終わる。大抵のスピーチは、ありきたりの感謝の言葉と今後の私の健康・成功を祈念する、というものだが、私と付き合いが深かった人や長かった人ややり込められた人(笑)は、自然と話が長くなる。
私が発した印象に残った言葉や行動などを紹介する。批判や文句もある。いいよ、最後だ、言いたいこと言っとけ。

その後、餞別のプレゼント贈呈。これも長かった。個人からチームから、山のようなプレゼントをもらった。一人一人、私に渡し、私と握手してその写真を撮り、それが延々と続く。持って帰るのに困るようなかさばるプレゼントもチラホラ。だけど、やっぱりうれしいものだ。

プレゼントでもらったカレンの民族衣装を早速着ろていうから着てみる。今まで3年間で、何着かミャンマーの民族服をもらった。ロンジーは何着もらったか分からない。全然着てないけど。
スーツみたいな白に水色のストライプが入った服と、頭にはバンダナ状の頭巻き。「これは戦いの服装か?」と聞いたら、これも礼装のよう。

そして私の最後の挨拶。今週、最終週に当たり、散々いろんな言葉を残してきたので、もう今更改まっていう言葉もない。
「この学校がここまでこれたのも、みんなの努力のたまもの。これからも、この学校をミャンマー一の学校にすべく努力してください。」
 
 

そして全員で記念撮影。

以上で第1部がやっと終了。もう9時。2時間も経っている。ここから第2部は、大カラオケ大会だ。こないだの2016年年越しカラオケ大会の際は、ある特定の人が続けて何曲も歌う傾向にあったので、一部のスタッフから文句が出て、この日はきちんとローテーションして歌う人間が偏らないようにする、という方針が決まっている(笑)。

以前も書いたが、ミャンマー人も多くはカラオケ好き。日本のカラオケボックスで、歌ってない人間が見つかると強制的に歌わされるのと同じで、こちらでも一通り歌いたい奴がみんな歌ってしまうと、次はまだ歌ってない奴にマイクを回す展開となる。でも、大抵のやつは歌う。何人か、頑なに歌わない奴もいたが、少数だった。

そうこうして踊り歌い騒いでいるうちに、徐々に人数が減ってくる。第2部は、居たいやつが居ればいいのだ。帰りたければ帰っていく。
律儀に帰るときに私に挨拶をしていく奴もいれば、いつの間にかいなくなっている奴もいる。
もうこいつらに会うのも多くは今日が最後だよなぁ、と思いながら、みんなの歌う姿を手拍子を取りながら眺める。そして私も踊りの輪の中に入って踊る。

ノンストップカラオケは、夜12時にお開き。最後までいたのは、10人強か。カラオケ部屋を出、みんなと写真を撮り、握手をして別れる。

カラオケの模様(動画)
2017/3/7 (Tue.)
英語の授業 晴れ@パアン 

 図形の書かれたボードを持った訓練生が前に出て、「これは何ですか?」
「これは何色ですか?」などと英語で問いかけ、他の大勢が答える
 
グループに分かれ、知っている限りの動詞を書きだす
 
みんなの前で自分の日課について説明する

私の勤める技術訓練学校では、2017年から、技術の授業だけでなく、英語の授業も行っている。英語を理解することは技術者として大きなアドバンテージとなる。
始めに契約した英語教師は、ミャンマー人の60歳過ぎのおじさんで、他に高校生など若者に英語を教えているというので頼んだのだが、教科書もプリントもなく、毎回の授業のテーマも明確でなく、それほどいい授業ではなかった。
しかも料金は高く、あまつさえ3月からアメリカの知り合いのところで旅行に行くのでしばらく教えられないというではないか。
我々は他の英語講師を見つけるのに奔走した(私は奔走してなく、スタッフたちがであるが)。
結局、パアンの街なかで語学学校をやっている「ユリ外国語学校」というところと契約した。
やはり値段は高かったが、彼らはきちんと確立したカリキュラムや教科書を使いやっているらしく、その点は期待できる。
(私の指示でスタッフはさんざん値段交渉をしてくれたのだが、それほど下がらず。こっちは社会貢献事業体だから、と言ってもあまりヒットせず)

今まで英語の授業は土曜日にやっていたのだが、語学は反復練習が大切なので、できるだけ多くの授業を受けさせるため、週2~4回、午後8時~9時の夜に講師陣に学校に来てもらって授業をすることにした。訓練生たちはどのみち毎晩「学習の時間」というのがあるので、その時間だと思えばいいだろう。

で、今日の夜、5時に仕事が終わって一旦家に戻った後、8時からの授業を視察にやって来た。
ミャンマー人の女性講師が2名とアシスタントの若者が3名。レベル別に訓練生は2つのクラスに分かれている。
正直、授業は素晴らしかった。私が思い描く「英語の授業」そのものだったと言っていい。テープ音声やイラストを駆使し、訓練生が考え、そして発話する。グループワークではポスターに人間の身体の絵を書き、それぞれの部位を英語で表記する。また、知っている動詞をグループですべて書き出して発表し、数を競うなどのゲーム的要素も織り交ぜ、飽きさせない。

レベルの高い方のクラスでは、自己紹介の仕方。一人一人前に出てきて、自分の毎日の日課を説明する。
4スキル(話す、聞く、書く、読む)をすべて学習できる内容で、好感が持てる。

生徒たちは、日中の訓練で疲れているはずだが、元気いっぱいである。恥ずかしがりで人前で話すのに苦労している奴もいるが、発声練習の時には大多数が大声でがなり立てる。ミャンマー人は、日本人の若者に比べればまだこういう場面で恥ずかしがりではないようだ。
何度も書いていると思うが、日本人は「ミスしちゃいけない」とか、「下手なこと、間違ったことは言えない」、という恥の気持ちが先に立って、授業では人前で後先考えずにはじけるタイプが少ない。確信のあることしか発言しない傾向にある。だから語学の勉強などでは、文法には強いが、話すのがからっきし弱い、という人が多い。
「恥」をかきたくない、というのは武士の時代からの精神性であろうが、外国人、特に欧米人と対等に伍していく上では、日本人の弱点とも言える。
まぁ、日本には外国人も少ないし、英語で話す場面がない、というのもあろう。日本にもっと外人がウヨウヨ居たら、日本人の英語力も上がるであろう。

授業が終わって帰り道、ユリ外国語学校の面々と車に同乗したので、色々聞いてみる。
・彼らの学校では、英語の他に、韓国語、日本語も教えている。英語、韓国語、日本語の順に人気がある。(ミャンマーではなぜか韓流ドラマやK-Popが大人気である)
・先生二人は、英語圏で生活したことはなく、ヤンゴンで英語を勉強したという。その割にはしっかりした英語をしゃべる。

このような英語の授業なら、大金を払う価値はある。
訓練生たちが卒業時、英語に自信が持てるようになっていることを期待。

英語の授業の模様(動画)

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