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大都会
2002年5月
2002年5月、東京。転勤で久々に東京に住むこととなった。学生時代以来、8年ぶりだ。私は就職して仙台配属となり、8年間仙台に住んだ。久々の東京はとにかく人が多い。仙台では車通勤だったためほとんど電車に乗る機会はなかったが、東京で乗る電車は、人が多すぎて決して気分のいいものではない。本でも読んで自分の世界を作らないと、乗るだけで疲れる。
引っ越しが終了した次の土曜、私は新宿に買い物に出掛けた。新宿も久しぶりだ。天気が良い上、ビックカメラ等の電気量販店がキャンペーンをやっており、とにかく信じられない数の人が集まっている。こんな新宿を歩くうち、思ったことがある。
都会では、あまりに人が多すぎて、通り過ぎる人々の顔を見る余裕はない。人が多いのでいちいち見ていられない、ということもある。仙台では、混雑した繁華街を歩いていても、通り過ぎる人々の顔を見るくらいの余裕はある。あわよくばかわいい女の子でもいないかな、なんてことを考えながら歩いても大丈夫である。
これに対し、東京では人が多すぎるし、多すぎるがゆえに人々は後ろの人に「早く行け」と背中を押されるかのように誰もが早足で歩いている。通りすがる人々に気を回している余裕はない。朝、ラッシュ時の自動改札では、みんな何かに追われるように次々と凄まじい勢いで自動改札を通り抜けていく。ここで流れを止めてしまおうものなら、後ろに並ぶ何十人という人間たちに憎まれることになるのだ。混雑のレベルが東京と仙台では全く違う。
この違いが、都会と地方における人々の関係の違いに反映している。本来人間には、自分のテリトリーを意識する本能があり、他の人間がそのテリトリー内に入ると、その人のことが気になり、落ち着かなくなるものである。だが、人と人との距離が極端に近い都会でそんなことを言っていたら、四六時中常に「人」を気にしていなければならない。その「いちいち気にする状態」をずーっと続けていたら、気が狂うか引きこもるようになるかであろう。そこで人は自衛手段として他人を気にしないようにと自分の内部を制御するようになるはずだ。よってもって、あまりに人間が多い都会では、人は他人に全く無関心となる、と考えられる。いちいち気にしていられないのである。
また、街に人があふれているため、より自分の世界を欲するのかもしれない。
そんな大都会に再び戻ってきた。学生時代はよく渋谷などで飲んでいたし、渋谷の喫茶店でバイトもしていた。が、今はあまり行く気になれない。「歳を取って、バイタリティがなくなった」からだろうか。きっとそれもあるだろう。仙台という静かな街に8年も住んだからかもしれない。
渋谷とか新宿というとにかく人が多いところは、旅行者として数日間いるだけならきっと大丈夫だろうが、毎日はきつい。旅行でニューヨークに行った時も、同じようなことを感じた。この都会のエネルギーをどう感じるか。自分の活力とできるか、それとも自分のエネルギーを吸収されてしまうのか。「都会」の波動に波長が合うか、それとも合わずに違和感を感じるか。若い頃は都会に溶け込んでいられたが、歳を取ると徐々に波長が変わってきているのだ。より客観的に自分自身が見れるようになった、ということなのかもしれない。若い頃は、「自分は都会にいるんだ」なんて考えた上で騒いでたわけじゃないのだから。
新宿を歩いていて、地方から東京見物に来たと思われる、20代〜30代であろう3人組の旅行者が、多数の人間が無表情で通り過ぎる雑踏の中で、写真を取り合っていた。彼らは、「東京」という場所を、どうとらえたのだろう。
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