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異文化理解と適応
2003年9月(協力隊・駒ヶ根訓練所にて)
人は、自分が所属してきた地域における文化(宗教観や生活習慣、社会の性質や構造によって形成される)をバックグラウンドとし、そこで自然と自分自身の中に育まれた価値観・価値基準を持っている。日本人であれば、例えば1を聞いて10を読み取ろうとしたり、「恥」を極度に恐れたり、また人と人との距離感一つをとってもそこには日本人独特の距離感が存在するわけである。(これらの価値観形成に影響を与えてきたと言える)宗教観にしても、多くの物に神が宿るというアニミズムを主体としていて、それは絶対的な神による絶対的真実が存在するというキリスト教やイスラム教の考え方とは大きく異なっている。これらの価値観は、日本という国で生まれ、社会の中で成長するうちに自然と身についたものであり、無意識のうちに精神に刻み込まれている。これこそが日本人としてのアイデンティティとでも呼べるものである。
国・地域によって、この価値観が大きく異なってくる。自然環境や宗教観、生活習慣、社会構造等がこの価値観を形成し、ところ変われば価値観も変わるのは当然である。それゆえ、別の国に行ってその価値観の違いを目の当たりにした際カルチャーショックを感じる。もっとも、最近では西洋的な市場経済文化が普及し、また世界中に先進国の旅行者が旅行をするという状況の中で、西洋的価値観のグローバル化が進んでいるのも事実であろう。私が過去渡航した20カ国以上の国の中で、完全なるカルチャーショックに打ちのめされることはなかった。もちろん、わずか1〜2週間の滞在でその国の文化・価値観が分かろうはずもないのだが、全く理解できないような状況に陥ることはなかった。少なくとも私の訪れた国では、例えば我々が「笑顔」と呼んでいる表情 −すなわち、嬉しかったり喜んだり楽しかったりという感情を表現するための表情− は、どの国でも我々の定義するのと同じ「笑顔」であった。だが、地球上にはまだまだ我々の言う「近代文明」に接触したことのない、または近代文明を拒絶して存在する文化も残っている。南米アマゾン奥地のイゾラドなどはその最たる例であろう。そのような文化では、我々が想像もつかない価値観の差が存在するに違いない。例えば我々が友好の印として作る「笑顔」が、彼らにとっては「敵対心」を示す表情だったりしたら大変である。我々が友好を示すために笑いかけたら、逆に殺されるかもしれないのである。ここまで来ると、柔軟に対応しようとしてもどうすればいいのか分からない。一口にカルチャーショックと言っても、様々なレベルのカルチャーショックがあるわけである。
文化の違いは、価値観・価値基準の違いであるわけだが、もし自分にはとても超えられそうにないような巨大な価値観の違いを目の前にしたら一体どうすればいいのだろうか。
日本で身につけた自分の価値観を完全にリセットすることはおそらく不可能だ。何しろもう30年以上も日本で生活しているのである。となると、あまりに自分の価値基準とかけ離れた文化のなかに置かれたら、その文化を理解しようとする努力(観察)を行いつつも、その文化に溶け込むことは困難であるから、違ったままで何とか共生する方法を模索するしかないのであろう。このような場合、「相手に好かれる必要はない。お互い近くにいても平気でいられることが共生の必要条件」という考え方があると知った。今までは、「海外では相手の価値観を観察し理解して、『郷に入れば郷に従え』の姿勢が大事」と考えていたが、それが困難な場合もあるだろう。
海外での生活により、その土地の価値観・文化を体で覚え、それを絶対視してしまう傾向があるという。日本人としての価値観は完全に払拭されないだろうが、その国の価値観に慣れてしまう、ということはあるだろう。それは、常日頃使うその土地の言語にも関係している。つまり、「外国語を日常的にしゃべることによって、その言語的な思考回路に自分の思考方向が変わっていく」ということがある。私も1年間アメリカで生活した際に感じたことである。毎日英語をしゃべり、聞き、テレビ等のメディアから入ってくる表現を覚えるにつれ、思考が英語的な発想に変わっていくのである。加えて、自分が英語でしゃべる内容は、「アメリカ人的だなぁ」「日本語じゃ絶対言えないよ」と自分で思うことがしばしばあった。ここには、アメリカ的思考に染まっているようでいて、その実頭の中に日本人としてそれを見ているもう一人の自分が存在している。
自分のなかに複数の価値基準を持っていることは、世界の様々な価値観を理解する上で良いことだと私は信じている。それだけ色々な価値観を持っている人々の立場に立ってモノを考えることができるからである。世界中の紛争の原因のほとんどは、民族起因であれ宗教起因であれ貧富の差起因であれ、お互いの文化・価値観に対する理解(または理解しようとする努力)の欠如である。まずは相手を理解しようと努力することが重要である。
海外で、自分とは異なる価値観に接し、日本的な価値観と照らし合わせて、何か普遍的な価値観がないものだろうか、と探してみたい。世界は広く、様々な人種・民族が存在するとはいえ、人間という動物はたった1種類である。様々に異なった価値観に触れることで、人間に共通する普遍的な何かを見つけるというのも面白い。その過程で、自分の中に新しい何かが生まれるかもしれない。
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