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エクアドル日記(2005年5月)
5月23日(月) 晴れ
今日の午後、同僚の電気科講師、狂犬ハビエルとカトリック、宗教全般について激論した。彼は以前クエンカで市議会議員候補になったこともあるといういわば政治畑の人間である。なぜ今ここSECAPで冷凍空調を教えているのかはよく分からないが、そんなわけで口が非常に達者である。だが、俺ももうここに来たばかりの頃のような口下手な日本人ではない。スペイン語での理論武装もかなり進み、俺が自信のある分野なら、大体は自分の言いたいことが言えるようになってきた。さすがに相手の言っている単語が分からないことはまだまだあるが、それは聞き返せば易しく言い換えてくれるので問題ない。つまり、スペイン語だからって議論で引けを取るつもりはさらさらない、ってわけだ。
さて、彼ハビエルも例のごとくカトリックなのだけれども、ベタベタのカトリック教徒とは一線を画した考え方をしていて、ミサには全く行かないけれども、自分は自分をより良くするために神のようなすべてを超越した存在を信じているのだそうである。それはそれでいい。誰も神がいないことを証明できないし、いることも証明できないんだから、「神はいない」「神はいる」なんて言ってもしょうがない。その架空の目に見えない存在を、自分の精神の中でどう利用するか。それが問題なだけだ。そういう部分ではハビエルは俺と考えが一致したので、さしたる議論 --抜き差しならない撃ち合い-- にはならなかった。もっとも、日本人はその精神的風土として、人間を超えた絶対的なもの、超自然的な存在を認識する感覚がないので、俺にはその存在の価値がどういうものなのかは今ひとつ不明瞭なのであるが。
デ・ラス・コンセプタス教会(クエンカ)
何か、450年前にここにやって来た
スペイン人宣教師の匂いがしませんか?
なぜ人を殺したり、物を盗んだりしないのか?
いつものパターンだ。
俺はいつものようにこう答える。
「俺の中には日本社会の中で育った過程で培ってきたモラルがある。」
このモラルをいかにして獲得するか。日本人の場合、仏教や神道等の宗教的な教えは日常生活の中でもう直接的には見えないが、長い間それらの教えが咀嚼された結果、親や学校や地域コミュニティの教育の場で、また社会の中で生きているうちにそれがモラルとして自然と身につくようになっている(なっていた)。宗教としてではなく、もうそれが日本人の美徳として自然と代々受け継がれていっている、と考える。日本人が日本社会で生きていくうちに、誰からも押し付けられることなしに、親・学校の教育、日本社会という日本人の価値観が尊重される環境の中で、自然に否応なしに身につくものである。誰も仏教の経典など読まないけれども、それは仏教や神道に影響された文化的伝統や、コミュニティ的寄合的社会構造の中で自然と培われてきたものあろう。(もちろん、農耕民族「日本人」が遺伝的に持つ性質も、日本人の人格形成に大きく関わっているだろう。)
これに対し、コテコテのキリスト教徒は、ミサに行って牧師が唱える聖書の言葉からこれらのモラルを習得する。親のモラル教育も、宗教からである。道徳(モラル)=キリスト教である。そこには、すべてを超越した神の存在を信じ、そういう絶対的な存在が自分を監視していることによって、自分は善行を行う、という図式が存在する。
中南米で大人気のメキシコのポップバンド、マナーというのかいる。彼らの代表曲で、「Tu Eres Mi Religion」という曲がある。この題名を直訳すると、「君は僕の宗教」である。いかにもカトリックらしいネーミングではないか。「宗教=信仰=生活規範」という構図が成り立っているカトリック国だからこそこんな題名のラブソングも生まれてくるわけである。日本で「君は僕の宗教」なんて題名の曲作って歌ったら、妙な新興宗教家かと疑念の目で見られること請け合いだ。この違いが、カトリック国と日本における「宗教」という言葉・概念に対する認識差をそのまま表している。
「信仰は弱い人間にとっては非常に有効でいいものだが、俺には信仰とか宗教なんてなくていい。」といつものように強言する。
(余談であるが、その弱い人間の弱みに付け込むのが悪徳新興宗教であり、逆に言えば世の中に数多く存在する弱い人間が宗教にすがりたくなる気持ちをうまく利用して詐欺をやるのが悪徳新興宗教である。)
神を、すべてを超越した絶対的存在がいるとしてそれを美化するのは勝手だけど、今まで宗教がやってきた事を見て御覧なさいよ、組織・団体としての宗教なんてものが存在するせいでロクなことがない。ジョン・レノンも歌ってるでしょ、「宗教のない世界を想像してごらん」って。教義には一言も「戦争をしなさい」なんて教えはないのに、宗教のせいで戦争があり、迫害があり、人は人と殺しあう。キリスト教徒なんてのは聖書読んでミサに行って立派な教えを唱えてるくせに、その実世界中を植民地にして先住民を虐殺し、先住民が信仰していた土着宗教はすべて邪宗としてキリスト教への改宗を強制する。十字軍ではローマ法王自らの提案で聖地奪回の形骸化した大義名分をもって異教徒と戦争を起こす。挙句の果てにはアフリカ大陸から大量の黒人を南北アメリカ大陸へ連れて行き、彼らの人権など全く無視して奴隷として過酷な労働に従事させる。世界中にキリスト教を布教するために、自分の神だけが神、他の宗教は容認しない、なんて自分勝手も甚だしい。
奴らアホでマヌケな白人どもが自分達の残虐非道・傍若無人を正当化するための理論は、やはり宗教だ。奴等はユダヤ教の「選民思想」を自分勝手に解釈し(この思想自体が既にもうそもそも間違っているんだが)、自分達こそが神に選ばれし者であり、神のための仕事を行うイスラエルの民になぞらえ、片や有色人種を、神の仕事を妨げる者として、神がその選民たちの手により絶滅・征服させたカナンの住民達と見たわけである。全く都合よく解釈したものだ。これで奴等は、心置きなくアジア、アフリカの原住民達を、人権を持たない「動植物」として取り扱い、蹂躙し、略奪し、虐殺を繰り広げたのである。白人は有色人種より優越してるだ?ふざけんなよ、テメエら!あぁ、書いてるだけで腹立たしい気分になるぜ。
サンブラス教会(クエンカ・セントロ)
実際には、個人レベルで宗教に救われている人も多いだろう。また、宗教の”縛り”のおかげで善行を心がけるようにしている人もいるだろう。それなんだよ、それ。個人レベルで自分の行動・考え方・不安・迷い等が宗教によっていい方向に律される。それが宗教の本来あるべき姿であろう。つまりは、精神へのポジティブな影響。これ。そして、信仰は人それぞれの形があってよい。別にキリスト教だろうが仏教だろうが新興宗教だろうが何でもいいし、それをどう解釈しようがそれは個人の自由だ。自分が救われているんなら、その人の領分の中でその宗教を信仰してればいい。だいたい人に信仰を押し付けようとすることが間違っているのであって、植民地にした土地の土着宗教をすべて邪教とみなして強制的にキリスト教に改宗させたカトリックのヨーロッパ人ってのは、宗教の何たるかを全く分かっていない愚か者どもである。「キリスト教以外の宗教は邪教、すべての人間が神(キリスト)の教条を信奉すべき、それが彼ら原住民にとっても幸福なんでーす」なんて傲慢・勘違いなことはなはだしい。宗教を世界征服の一つの道具として使いやがって。
(ハビエルの話では、先頃死去したローマ法王フアン・パブロ二世は、過去のこういった悪行について、生前カトリック教会として謝罪を行ったそうである。どの行為に対しての謝罪かは定かではないが、もし本当にこうした植民地帝国主義時代のことを謝罪したんだとしたら、奴等も一応は自分たちの非を認めた、ということで、まぁ評価はできる。)
宗教の元となる何かに対する「信仰心」や「救いを求める気持ち」というのは、思考することを獲得した人間の人間たるゆえんであり、つまりはどうにも出来ない大自然や死の問題に直面した時に自然発生したものであろうから、人間にとっては本質的な特性である。結局はその信仰を自分の中でどうポジティブスパイラルとして使うか、それが問題なだけだ。また、病気の治癒を願うために神頼みする、なんてのも、「病は気から」って言うように、その信仰心が強いほど身体にも好影響を及ぼすだろうから、それは自分勝手にその時だけ神頼みすればいい。
だが、俺に言わせれば、信仰があろうとなかろうと世間の荒波の中を清く正しく生きていけるのである。宗教心がなくても立派に高度経済成長・低犯罪社会を作り上げた日本が好例だ。とまぁこんなことを言うと、さだまさしに怒られそうだけどね、「人間がいかにちっぽけな存在であるかを実感できる世界(例えばアフリカ)に行って生活してみなさい!そこではきっと君にも信仰心が芽生えるはずだ!日本は宗教的信仰心を失ってしまったから今ダメなんだ!」って。
(政教分離の国・日本こそ、宗教の利害関係なしに振舞えるという点で、世界の紛争の仲介役としてもっとリーダーシップを取れるはずなんだけどね。何しろ世界のほとんどの国は宗教が政治に関与してるし、宗教ってのは他宗教を容認しない傾向が強い。)
話は日本の現状にまで及んだ。最近日本では凶悪犯罪・少年犯罪が増えている、と俺が言うと、「それは信仰の崩壊ではないのか?」とハビエルがすかさず突っ込んできた。ハビエルのようなキリスト教徒からしてみれば、宗教=モラルであり、犯罪増=モラルの低下=信仰(宗教心)の崩壊という図式が思い浮かぶことはやむを得ない。だが、宗教的信仰心の薄い現代日本人であるから、「信仰の崩壊」ではない。では何か。最近の事件を見ていると、日本人のモラルが低下していることは否めない。じゃぁなぜモラルが低下しているのか?俺は、親や学校による教育の崩壊(いや、「変質」か)と全国的な都市化に伴うコミュニティ的共同体組織の崩壊による各個人の孤立化が主たる原因であると考えている。(この話はさらに長くなりそうなのでやめる。)
カテドラル(クエンカ)
さて、最後に余談だけど日本におけるキリスト教布教の歴史を思い出してみよう。日本でのキリスト教布教は、武力征服による植民地化と同時進行で強引になされたここ南米とは違って、結局不発に終わった。フランシスコ・ザビエルを先兵に、16世紀〜17世紀に南米と同じように続々と宣教師が日本に乗り込んできてキリスト教を布教しようとした。ここ南米と同じように、ほとんどはカトリックであるスペイン人とポルトガル人宣教師である。(新教徒であるイギリスとオランダは、キリスト教布教には目もくれず、日本との貿易の利だけを求めていた。)布教は、一時は切支丹大名も現れるほど順調であったようだが、結局は長崎で傍若無人にやりすぎて秀吉を怒らせ、家康は安全保障の観点からついに切支丹追放令を出して鎖国し、外国勢力を日本から締め出した。確かに、この家康の切支丹追放令により、改宗した日本人キリシタンや宣教師達は国外追放されたり処刑されたりという不幸な運命にさらされ、この令は残酷で悪名高いと評価されることもあるようだが、結果的にはキリスト教にならなくて良かったと思うよ。いや、間違いなく良かったね。
そしてちょうど時は戦国時代。日本各地で武将たちがその勇猛さと豪胆さを誇示していた時代。実際スペインは、フィリピンや中南米と同様に、日本も武力制圧してキリスト教を広めようと考えていたようだが、この我等がサムライ相手には、日の沈まない国・スペインといえども大軍を日本に送って得意の鉄砲で武力攻略植民地化することは出来なかったわけである。いや、たとえ奴ら南蛮野郎どもが攻め込んできたとしても、我等が先祖大小差したサムライたちは、きっときゃつらを撃退して目にものを見せてくれたはずだ。これぞ大和魂。キリスト教徒なんて怖くネェぜ。
いやぁ、良かった良かった。神道、仏教でよかった。神様、仏様、秀吉様、家康様。やってることと言ってることが全く違うキリスト教なんかが日本を席巻してたら今頃俺もここ中南米の人間と同じく、後から強制改宗させられた「偽キリスト教徒」になってたんだろうか?こんな文章を書くなんて夢にも考えないようなエセキリスト教徒に。あぁ、オソロシやオソロシや。
おっと、話にまとまりがなくなったけど、ハビエルとの議論は、対立点がほとんどなく、日本とエクアドルを対比する視点から眺めた宗教概論になったが、まぁ、マトモな考え方をしてるエクアドル人もいるってことが分かってちょっとは安心した。
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