2020/1/26 (Sun.)

串間→鹿屋への道でもヤシの木は定番 |

海上自衛隊の飛行機やヘリコプターが野外に展示されている |

錦江湾から引き揚げられて復元された零戦 |

世界で唯一現存する二式大型飛行艇 |
鹿屋航空基地資料館 雨@鹿屋市
雨模様。釣りに行く気もなし、ダラダラ過ごすかとも思ったが、鹿屋(かのや)に行くことにする。
鹿野航空基地資料館。海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内にある。
串間から車で1時間。14時半ごろに到着。外は冷たい雨。
資料館の横には、海上自衛隊の航空機が展示されている。
資料館に入る。無料。
海上自衛隊では、佐世保史料館、呉資料館(通称「鉄のくじら館」)といった同様の史料館を運営していて、海軍からの歴史や海上自衛隊の任務などが一般人でも見られ、とてもいい。しかもいずれも無料である。
(ちなみに、佐世保資料館の展示コンセプトは「水上艦」、鹿屋航空基地資料館は「航空機」、呉鉄のくじら館は「潜水艦・掃海」だそうである)
鹿屋には太平洋戦争時に海軍飛行隊の特攻基地があり、その後は海上自衛隊の基地となった。その基地の歴史を展示している。
入口を入ると、目の前に巨大なステンドグラスの絵が飾られている。高さ7mくらいはありそうな、「夕映桜島」と題された絵は、鹿児島の街から錦江湾を挟んだ先に、黄金色の桜島が噴煙を吐き出す様子が描かれている。城山展望台から見た桜島のような気がする。

夕映桜島 |
1階は海上自衛隊の役割と活動内容、2階は海軍からの歴史を展示している。
まず2階に上がる。
前室の展示で、水戸黄門でおなじみの俳優、西村晃氏が特攻隊員だったことを知り、驚愕する。
展示室に入ると、日露戦争の東郷平八郎から始まり、太平洋戦争時の連合艦隊司令長官・山本五十六、そして日本の近世以降の戦史を時系列で追える。
一つの目玉は、特攻機となった零戦(「れいせん」と呼ぶのが正しい呼び方)の展示。錦江湾から引き揚げられた零戦を海上自衛隊が修理・復元して展示してある。
コックピットの各計器も整然と配置され実際に飛ぶのではないかと思わせる。
零戦の歴史や機構も詳しい。そして海軍で使われていた航空機の模型の展示。
零戦の開発者、堀越二郎の紹介もある。ジブリの映画『風立ちぬ』の主人公である。
次の部屋には、特攻して命を散らした隊員たちの写真と遺書の展示。知覧の特攻平和記念館(知覧は陸軍の特攻基地だった)、東京靖国神社の遊就館、津市の航空隊予科練の資料館で同じような展示を見たが、いつものことながら涙なしには見られない展示である。
多くが20歳にも満たない若者たちが、アメリカ艦船に特攻して死んでいった。鹿屋基地からは約900人、少し北の串良からは300人以上の隊員が飛び立ち、帰らぬ人となった。
両親や親族にあてた遺書には、「お国の役にたてる喜び、光栄」、「必ずや任務を全うする」といった彼らの意志が切々と綴られている。それが本当に本心だったのかは分からない。国が起こした戦争のために、一番下の兵隊、まだ生を受けてから20年にも満たない若者たちが、国により有無を言わさず徴兵され、国の命令により有無を言わさず死んでいかなければならなかったという太平洋戦争の現実。日本の歴史上最大の汚点が、いまや風化しようとしている。戦争を知る世代はどんどんと少なくなり、この苦い歴史が忘れ去られつつある。
「国(藩)のために忠誠を尽くし、死もいとわない」。死にざまの美学。
それが日本人の心の中に武士道から脈々と引き継がれてきた精神だとしても、「必ず死ぬ」という戦法が受け入れられるとは思えない。「死を賭して戦う」のであって、「死ぬために戦う」のではないのではないだろうか。その「必死作戦」が相手に大きなダメージを与えられないならなおさらである。
『必死剣・鳥刺し』のように、自分の死と引き換えに相手を死に至らしめる致命傷を与えられなければ意味はない。ただの犬死だ。犬死では国のためにはならない。
日露戦争以降、太平洋戦争に至るまで、日本軍人は、いったい何万人、何十万人が犬死しただろうか。
インパール作戦で「勇気ある撤退」をした佐藤中将のような正気を保っている将官が「弱腰」と糾弾されるという戦争の狂気を、組織として止められなかった構造は、二度と繰り返してはならない。
閉館が17時で、閉館ギリギリまで見たが、時間切れで結局1階は見られず。無料だからまた来ればよい。1時間で来れる。
資料館の向かいにあるお土産屋もすでに閉店している。次はお土産も買わねばなるまい。海上自衛隊カレーとか、きっと面白いものがあるだろう。
外に出ると相変わらず冷たい雨が降っている。
道を挟んで大きな広場に展示されている大きな飛行機を見る。これは、二式大型飛行艇といい、太平洋戦争時に開発され、当時世界最高の性能を持つ傑作機だったそうである。この機体が世界に唯一現存する機体とのことである。
帰路につく。
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2020/1/24 (Fri.)〜1/25 (Sat.)

チャイロマルハタのあら汁を作った |
ルアーもダメ
24日夜、25日も夜にルアーを投げに福島川河口に行ったが、両日ともアタリなし。
しかも25日には雨の中、投げ始めて10分くらいで根掛かり、またまたルアーをロスト。最後のローリングベイトだったので、もう投げるルアーがなくなり、あっという間に終了。
ルアーもダメか。
とはいえ、この福島川河口は、メッキはよく釣れるし、ヒラメ、チャイロマルハタとなかなかの釣果を上げているルアー釣りにはいい場所である。
ルアー釣りというのはそんなに毎回毎回釣れるものではないのだ。
だが、この浅い河口でいったいいくつのルアーを根掛かりで失くしたことか。
都合1万円くらいの私のルアーが、いまこの川底に眠っている。
こんなに浅いなら、夏の大潮の干潮時に、泳いでルアー回収したいものである。 |
2020/1/19 (Sun.)

日南の冬空 |

ヘチ際を揺らめくハコフグ |
ウキ沈め釣りはわけわからん 晴れ@日南市
朝5:30に起きるつもりが起きれず、7時過ぎにノコノコ起きて8時過ぎに日南へ出発。
サボテンハーブ園下のビョウブ岩は波高くてダメ。釣り人いるが、大波がポイントに次々に押し寄せる状況では、ウキ釣りは無理だろう。
こんな波の荒い日は堤防しかない。日南の堤防をいろいろ探すが、いいところがない。
結局油津港へ。釣り人はたくさんいるが、あまり釣れている様子はない。
ネットで調べると、チヌが釣れそうなので、チヌ狙いでウキ沈め釣りの練習をすることにする。
結果から言えば、全然ダメ。0号でじわじわウキを沈め、アタリを待つがアタリなどない。
全くアタリは分からなかったが、小さなカサゴが釣れる。ミャク釣りと同じようなものだが、ミャク釣りは重いオモリで常に糸は貼っている状態なので魚が食いつけばビンビンと手元にアタリが来るのですぐに分かるが、ウキ沈め釣りでは道糸がそもそも風や潮の影響で張れないので、アタリが分からないのだ。これでどうやって釣るというのだ?魚がハリを飲み込んだ、向こう合わせの状態しか釣れないではないか。微妙なアタリが取れない。
カサゴが釣れたので、どうやらエサは底に到達しているらしい。水面から仕掛けを10mくらい入れている。流れが若干あるので、仕掛けは斜めに入っているから、水深は5〜8mくらいか。
ヘチ際で魚がかかったと思ったが、根に潜られたか、引っ張れなくなった。1時間くらい放っておいたが状況変わらず。仕方なく糸を引っ張るとあろうことか高切れして0号ウキを失った。ヘチ際だったのだが、ウキが浮き上がって来なかったため、回収できず。落胆。
その後ウキBで沈め釣りするがダメ。
沈め釣りはあまりに分からないので、途中から必殺のミャク釣りでヘチ際の大チヌを狙うも、小カサゴが2匹釣れただけ。
ヘチ際には、ユラユラとなんか茶色い魚が漂っている。よく見るとハコフグが、壁に付いた貝か海草かなんかを突いている。
11時過ぎから15時過ぎまで釣って小カサゴ3匹だけ。 |
2020/1/18 (Sat.)

メッキの塩焼 |
南九州にはボラが多い? 晴れ@串間市
今日は満潮が早いため、午後3:40から福島川河口でルアーを投げる。始めて10分くらいでメッキがヒット。その後はアタリなし。40分で終了。
まだ陽があるので、福島港の一番南の堤防の様子を見に行く。ここはテトラ際でメジナが釣れるという評判なのだが、一度数か月前に釣った際にはエサ取りだらけで辛かった場所である。
堤防に誰が放置したのか、ボラの死骸が置き去りにされている。鳥たちが集まってボラを突いている。私が近づくと鳥たちは飛び立つが、名残惜しそうに上空を旋回している。トンビの群れだ。
釣り上げた魚を持ち帰らずに堤防上に放置するという、頭のおかしい釣り人が後を絶たない。
それにしてもこの時期の南九州には、とにかくボラが多い。
この堤防の東側にある磯にも偵察に行ってみるが、どうも水深が浅そうであまり芳しくない。
メッキを持ち帰って塩焼で食べる。 |
2020/1/17 (Fri.)
ルアー無反応 晴れ@串間市
仕事の後、ルアーを投げに福島川河口へ。寒い。霧が出ている。17:40から投げ始めるもアタリなし。寒くて25分でギブアップ。 |
2020/1/13 (Mon.)

飫肥城大手門 |

飫肥城本丸跡。巨木が立ち並ぶ |
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伊東氏の家紋、九曜紋 |

小村寿太郎の等身大パネル。彼の身長は156cmだったらしい |

ソテツ |
山登りへ・・・ 晴れ@日南市
3連休最終日。
朝、ひどい夢で目が覚める。夢であったことにホッとして二度寝する。すると再びひどい夢を見る。
16:30からドラマ出演の予定なのに、どっかの学校の上にある研究室のようなところに風車内のリフトのようなエレベータに乗って行かねばならない。上がったらしばらく眠ってしまってもう時間は16:08。慌ててリフトで降りようとするがこのリフトが上手く動かない。焦りだけが募り、時間が刻々と過ぎていく。下にようやくたどり着いたのは16:18。タクシーで浜松町方面に行かなければならない。
そこで目が覚める。夢だったのかと呆然としたあと、再びホッとする。
9時過ぎ。
ネットを確認すると、魚の名前の答えが返ってきていた。
チャイロマルハタ。
やはりハタだった。調べると最大80cmにもなるそうだから、リリースすべきだったが、出血もひどく弱っていたので、ここはありがたく今晩にいただくことにする。
さてその前に。
今日は、一昨日ほぼ坊主だったフカセ釣りのリベンジもと考えたが、なんか意欲がなく、ダラダラ過ごそうかという無気力。フカセ釣りは準備が必要で、冷凍エサを前日に買っておいて解凍しなければならないから、今日は行かない。
しかしカーテンを開けるとあまりに天気がいい。それなら骨折以来の運動不足、いや、最近は1年くらい釣りしかしてないから慢性的な運動不足を解消するため、久々に山に登ることにする。
目指すは日南市の小松山。11時過ぎに出発。
ナビに従い細い林道を上がっていくも登山口が見つからない。軽自動車一台通れるくらいの細い道を行ったり来たりしてもう12:30。それほど時間のかからなさそうな山とは言え、これから登るのは少し遅い。山登りを諦め、プランBへの移行を決める。
山のふもとの飫肥(おび)観光に切り替える。
山を下りたら飫肥城だった。
以前も述べたが、ここ日南市飫肥は、江戸時代に飫肥藩があった場所である。この地は戦国時代以降、薩摩の島津氏と日南の伊東氏が覇権を争ってきた場所で、関ケ原で東軍についた伊東氏がこの地の支配を盤石とし、明治維新まで飫肥藩として支配する。
これも前に述べたが、この伊東氏の末裔が私が以前付き合いのあった会社に勤めており、「藩主という由緒正しい武士の末裔がサラリーマン」という、歴史の糸の不可思議さを感じたものである。
さて、飫肥の観光施設7か所に入れる共通券を620円で購入し、観光開始。
飫肥城にはほとんど城の遺構は残っていない。敷地内に「飫肥城歴史博物館」があり、入ってみる。飫肥の歴史が展示されている。
ここで初めて知ったのは、日南を支配した伊東氏は、もともと平安時代末期から鎌倉時代にかけて、伊豆の伊東荘を支配していた豪族であったとのことである。今の静岡県伊東市である。伊東氏だから伊東という地名になったわけか。
そしてその子孫が日向国に下って、日向伊東氏となったとのことである。もともとは伊豆から来た一族だったのだ。なるほど。
この街は偉人を一人輩出している。明治時代の外交官、小村寿太郎である。
飫肥には彼の功績を展示する「小村記念館」がある。当然入る。
小村寿太郎は幕末に生まれ、アメリカ留学で様々な学問を修め、始めは明治政府の司法省に仕官するが、その後陸奥宗光に見出されて外交官の道に転ずる。
彼の2つの偉大な功績は、桂内閣の外務大臣のときに、日露戦争において、ロシアの剛腕ウィッテを向こうに回し、ギリギリの交渉の中でポーツマス条約を最終的に締結させたこと、そして日本の長年の宿願であった欧米との不平等条約の改正において、ついに関税自主権の回復を達成したことである。
しかし、このポーツマス条約締結後、日露戦争で勝ったはずの日本が、賠償金も得られず、樺太も半分しか得られなかったことに、日露戦争で日本軍がどれだけギリギリの戦いをしていたかを知らない一般民衆が暴徒と化して日比谷公園などを焼き討ちし、ポーツマス条約締結に反対した。太平洋戦争の時もそうだったが、民衆は、情報を操作したメディアの情報しか知らず、日本軍無敵神話を頑なに信じていたのである。しかし、政府関係者は、これ以上ロシアと持久戦になったら、兵力、国力の上で日本に勝ち目がなかったことを痛いほどに知っていた。海軍が日本海海戦に勝利し、陸軍もロシア軍を徐々に圧迫していき、なんとか奉天(現在の瀋陽)まで抑えたところで、アメリカを仲介とした和平に持ち込むしか日本には道はなかったのである。そのような切迫した状況の中でロシアとの交渉を成功させた小村がやってのけたことの偉大さを、当時の政府関係者だけは知っていた。そしてのちの歴史は、彼のことを類まれな才能を持った外交官として称賛したのだ。
しかし日本に戻った小村は、怒り狂う日本国民から罵声を浴びせられることになる。
ドラマ『坂の上の雲』(同名の司馬遼太郎小説のドラマ化)では、竹中直人さんが小村寿太郎を演じていたが、小さな巨人と呼ばれた彼は、小柄な体格から「ネズミ大使」と揶揄されながらも、その卓越した見識と決断力で欧米の外交官に一歩も引けを取らなかった。日露戦争開戦前に日英同盟を実現したのも彼である。
幕末生まれの偉人というのは、薩長土肥出身者が多いが、飫肥という小さな街から出た小村は、飫肥の人々の誇りであることは、容易に想像できる。
その他、飫肥藩の藩校「振徳堂」、小村寿太郎生家(移設)、伊東家の屋敷「豫章館(よしょうかん)」などを見て回る。
豫章館の庭に、ソテツが生えている。ソテツの自生北限は宮崎県串間市の都井岬であるとのことで、日本では南九州、南西諸島で見られる植物だ。
飫肥にも武家屋敷通りが再現されており、白壁や立派な門構えの屋敷、蔵などが立ち並んでいる通りがある。
16:30、飫肥観光を終えて串間に戻る。串間到着とともに福島川河口へ。
ルアーを投げ始める。17:50。
1投目で魚がかかる。ここは釣れる。なかなか引きは強い。手前まで寄せてくると銀色の魚体。メッキだろう。がそこで無念のハリ外れ。
だが、10分後くらいに再びメッキがヒットする。これは取り込み成功。22cm。果敢に食いついてくるなぁ。
しかしその後は、場所を徐々に移動しながらポイントを変えて投げ続けるもそれっきりヒットなし。
結局1時間ほどで7時前に終了。メッキを持ち帰るかどうか迷ったが結局リリースした。
夜、昨日釣ったチャイロマルハタを調理。丸ごと煮つけにしようかと思ったが、よく考えると丸ごとでは鍋にもフライパンにも入らないので、頭を落として3枚におろす。
一身をムニエルにする。小麦粉つけるの忘れて一旦焼き始めた身を取り上げて小麦粉をつける。ムニエルにするときは片側の皮をきちんと引くべきだった。皮側が過熱すると縮んで反ってしまった。教訓。
出来たムニエル、失敗したにしては美味い。やっぱり素材がいいのだろう。
ちなみに、今回はハタのあらを取っておいて、この翌日にあら汁を作って食べた。出汁がもっと出ると思っていたが、料理法がまずかったのか、それほど濃厚な出汁ではなかったが、贅沢感だけは味わうことができた。
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2020/1/12 (Sun.)

またまたルアーでなんかいいのが釣れた |

大口でルアーにかぶりつく |
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まさかの坊主危機から一夜明けて・・・ 曇り@串間市
3連休二日目。
午後からホンダカーズへ。ETCスロットが脱落してしまい、配線がサイドブレーキに干渉している。これを直してもらう。
その後串間で2度目の床屋。老主人は3か月前の私をどう切ったか全く覚えてなくて(まぁ普通だけど)、一からどんな長さにするか、どんなふうに切るか説明する。長いので何度か「もっと短くしてください」とお願いする。
床屋の後は福島川河口にルアーを投げに行く。
日没後、17:45から投げ始める。大潮の満潮時、いつもと違って水は上流に向かって勢いよく流れている。
2投目で買ったばかりの初下ろしルアーを根掛かりで失う。昨日から悪い流れは続いているのか?とにかく橋脚近くは浅いのだ。それでも攻めたくなっていままで何度同じ過ちを繰り返したことか。
この時間は大潮の満潮前なので大分潮は満ちているだろうと思ったが甘かった。
気を取り直してルアーを付け替え、もっと下流側に移動して釣りを再開。もう日はとっぷりと暮れている。
10分後くらいに、岸壁際まで引いてきたルアーに何かがヒット。暴れる、手応えからすると結構な大物だ。
だが、それほどやり取りは長続きせずに、すぐ際で食ったというのもあってか、すぐ魚は上がってきた。ヘッドライトで照らすと、メバルのような形と模様をしているが、メバルにしてはデカすぎる。
玉網を入れてランディング。
上げてよく見る。なんだ、こりゃ??
ハタ系の魚だった。だが、胸ビレがカサゴとかソイのような形をしているので、それ系かと思った。だが、カサゴやソイのようなゴツゴツ感やトゲトゲ感はなく、魚体はそれほど体高もなくすっきりしている。顔つきからするとハタ系だ。割と太い茶色の縞があり、全身にオレンジ色っぽい小さな斑点が敷き詰められている。
ルアーのリアフックをがっちりと食っていて、エラにフロントフックが刺さったか、出血がひどい。体長を測ると33cm。
出血したからあまりファイトしなかったのだろうか?ハタならもっと重い引きがありそうなものだが。
これなら持って帰ってもいいだろう。カサゴ系でもハタ系でも、美味い魚に違いない。ハタなんて高級魚だ。
結局これで釣りを終えることにする。釣り時間約20分。
家に帰り、この魚をさばく。
とりあえず明日まで置いておこうと思って、とりあえずウロコとはらわただけ取る。口の中から、消化されかかった小魚が出て来た。さすが77mmのルアーに食いつくだけある。獰猛な魚食魚だ。
ラップとビニールに包んで冷蔵庫に入れておく。
で、ネットでこの魚の正体を検索するが、分からない。友人に聞くと「マダラハタか?」という意見が強かったが、若干違う。
魚検索コミュニティに「この魚の名前を教えてください」と質問して今日は眠る。
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2020/1/11 (Sat.)

竹の浦の地磯。波が激しく釣れない |

間泊港堤防脇の釣り場。辛うじてベラ1匹 |

間泊港から見た南大隅太平洋側の山の連なり |
まさかの坊主危機 晴れ後曇り時々雨@串間市
3連休初日。先週に引き続き、佐多岬にほど近い、鹿児島県南大隅町大泊港の地磯に遠征。
波がやや高く、ちょうど朝が満潮の潮周りだったので、いつもの釣り座までの岩が波をかぶっており、始めは堤防テトラ脇の岩から釣ろうと思いそちらに歩いて行ったら、私より後から来たオヤジが、泥棒のようにササっと走ってその釣り場に入ってしまった。
泥棒野郎が。見てろよ、お前の目の前でデカいの釣ってやる。
仕方ないのでいつもの釣り座に渡ることにする。波が引いたときを見計らって岩を渡るも、やっぱり足首くらいまで濡れてしまう。ま、大きな問題はない。
7:50実釣開始。
何も釣れない。アタリなく、エサもほとんどとられない。生命気配が感じられない。どうしたことだろう?
いつもなら1時間もすればメジナがかかるはずなのだが、この日は全くアタリがない。
向かって右側で釣っている泥棒オヤジも全く釣れている気配はない。
結局12:45まで、なにも釣れなかった。
こんなことは地磯で釣りをするにおいては滅多にないことである。ベラなりコッパメジナなり、何かは釣れるものだ。しかし今日は何も釣れない。
泥棒オヤジも昼過ぎに諦めて去っていった。
車で竹の浦の地磯に移動する。ここでは初めて釣るが、やっぱり何も釣れない。岩が点在するその間の水道状のところで釣るのだが、水深が浅く、何より波が激しく押し寄せてきて仕掛けが全く安定しない。これは一番釣れないパターン。1時間もしないで再び移動。もう15時。
まだ今日は1匹も釣っていない。
めぼしい磯が近くになさげなので、間泊港の堤防で釣る。16時。
ここには小魚がたくさん見える、こいつらにエサが取られる。やっとベラが1匹釣れた。
最後ルアーを投げるも反応なし。17:15納竿。
今日は1日中3か所で釣って、わずかにベラ1匹のみ。一体どうなっているのか?メジナの魚影が濃いこの南大隅の大泊周辺で、まさかの坊主危機。
釣りは分からない。思わぬ大物が釣れることもあれば、思わぬ低調に嘆くこともある。
人知の及ぶところにない自然の驚異とも言えよう。
それにしても、貧釣果にもほどがある。
帰り道、少し細い山道を車で走っていると、ウサギが横切りビックリする。ウサギは止まったりせずに一目散に道を横切るから、轢き殺すことは少ない気はするが、それでも車が通る直前で横切ってきたらどうなるか分からない。
南九州の山にはウサギが多いようである。房総の山ではほとんど見ない。
私が働いている風車が立っている山でも、夜になるとウサギが大挙して道に出てくる。
鹿も多いが、まだ姿を見たことはない。風車の周りに鹿の糞が大量に落ちているので、鹿が多いことは分かる。
猿も1度見た。猿も南九州には多いようだ。 |
2020/1/7 (Tue.)

正しい幕の内弁当(430円) |

現在のファミリーマートの幕の内弁当(398円) |
正しい幕の内弁当 曇り@串間市
私は昼食は弁当を食べることが多い。最近は事務所の近くのスーパーで買う。そこの幕の内弁当は、「これぞ正しい幕の内弁当」とも呼べる素晴らしいものである。右がその弁当の写真だが、主菜、副菜、ご飯がバランスよく配置されている。これで値段は430円である。
これに対し、最近のコンビニ弁当の不味さとコストパフォーマンスの悪さといったら筆舌に尽くしがたい。
私は週末釣りをしたり山に登ったりするので、コンビニで弁当を買うことが多いのだが(朝早いとスーパーは開いていないか、24時間スーパーでも朝早い時間には弁当を売っていないことが多い)、最近のコンビニ弁当というのは、ほとんど手抜きかつコストダウン重視のひどいものである。ほとんどの弁当が、ご飯と揚げ物しか入っていない。そして味が濃い。さらには値段が高い。これじゃあ、食欲旺盛な若者にも見向きもされないことは容易に想像できる。
幕の内弁当も、野菜はほとんど入っていない。ファミリーマートの幕の内弁当が右下の写真であるが、これが398円である。(運搬中にご飯がずれてしまっています)
コンビニ弁当こそ、悪しき食生活の代表格と呼べるものである。
私は30年ほど前、セブンイレブンの深夜バイトをしていたのだが、その頃のコンビニ弁当はこんなにひどくなかった。賞味期限切れで裏に片付けた弁当を、バイトは休憩時間に食べてもよかったのだが、いまほどマズかった記憶はない。まぁ、当時は若くて食欲が旺盛だったというのもあるが、近年、コンビニ弁当が劣化しているのは私の中では間違いのないことのように思われる。
いや、これは数年前のコンビニ弁当よりも今のコンビニ弁当は劣化している。私は釣りや山に行くと、その日の弁当の写真を撮るのだが、2年くらい前の弁当よりも今の弁当の内容はひどい。
スーパーでできるのだから、コンビニでもできると思うのだが、これほど弁当の質が違うのはどうしたことか。確かに、多品目の副菜を弁当に入れるのは手間がかかろう。だが、コストダウンだけを考えて味を疎かにしては、客は確実に離れていく。私は、最近はもうコンビニの弁当はほとんど買わない。まだ許せるサンドイッチやおにぎり、総菜パンを買っている。
「弁当」という日本が誇る食文化を、軽々しく貶めてもらいたくないものである。
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2020/1/4 (Fri.)

名古屋へ |

元日のフェリー |
一休さん 晴れ@串間市
ユーチューブの無料特別公開で、アニメの名作『一休さん』を見た。前半の20話と最終の20話。
このアニメは260話くらいまであるので、5年以上続いていたのだろう。それだけ人気だったはずである。
子供の頃よく見ていたが、あらためて見てみると、子供では分からない歴史や当時(室町時代)の社会の背景が見えてきて、考えさせられるし、泣けてくる。
子供の頃は、「どんなとんちで一休さんが窮地を乗り越えるんだろう?」という水戸黄門的な単純な視点でしか見てなかった。結局各話とも意地悪な桔梗屋(ききょうや)や足利義満将軍が、最後には一休さんのとんちにやり込められるという勧善懲悪ワンパターンではある。
それにしても、この桔梗屋とか足利義満のあくどさは、いまであればまずあり得ないほどの極悪非道である。人道というものを完全に無視した意地悪の数々。いや、意地悪と呼ぶような生易しいものではない。天下の将軍の悪行の数々に対しては、一般大衆にはどうしようにも手の出しようがないが、桔梗屋などは瞬時に民衆に焼き討ちにされておかしくない。なぜ毎話毎話、人間のクズとも言える彼らが性懲りもなく出てこれるのか、いまとなってはこんなあくどい脚本を書ける制作陣にも疑問が残る。こんな悪辣な人間たちでも、世の中でのうのうと生きていけるということを子供が誤解しやしないか。
いや、ここで言いたいのはそんなことではなく、今になって見てみると、特に前半の20話は、一休さんは空海や行基などと同様、社会のために力を尽くした人であるということで、当時の民衆の貧困や伝染病など、世相が描かれていて実に興味深い。
始めの頃の一休さんは、割とワイルドで、出過ぎた言動で和尚さんに怒られることも多かったが、社会問題に向き合っていた。
ちなみに、アニメの後半になると、一休さんはほとんど非の打ちどころのないいい人であり(欠点はおねしょをするくらい)、ほとんど桔梗屋と義満の仕掛ける意地悪を一休さんが返り討ちにするというワンパターン化に陥るが、始めの頃はそうではなかった。困窮に苦しむ人々を救おうとしていたのだ。
そして泣けるのが、一休さんが足利家の敵、南朝の天皇の息子だということで、出家して僧になることで命だけは許されているという状況だ。父が平家に盾ついた源氏の頼朝や義経と同じである。頼朝は伊豆に流され、義経は鞍馬山の寺に預けられた。
だから母と会えないという設定が泣かせる。母に会いに行くと叱られ、まだ10歳くらいの一休さんは涙する。そして心を鬼にしてそんな邪険な扱いをしてしまう母もまた、陰で涙する。当時はこの状況が今一つ分からなかったが、背景が分かると、出自に翻弄されるという運命の過酷さを感じずにはいられない。
「母上さま〜、お元気ですか〜」というエンディングの歌を、涙なしには聞けなくなる。
前述した通り、桔梗屋や義満の悪行は目を覆いたくなるばかりなので、これが果たして子供に推奨するような教育的アニメなのかはやや疑問が残るが、当時の社会問題(度重なる戦争による人々の貧困、伝染病など)や、当時の人々の暮らし(どんなものを食べていたか、風俗習慣など)、禅寺の毎日、僧の修行や仏教の教えなど、教育的な見どころは満載である。
最終話、それまでワンパターン化していた物語が突如一変し、一休は諸国修行の旅に旅立つ。ラストシーンは宗教的で、異彩を放っている。 |
2020/1/3 (Thu.)

大泊港横の地磯。前方は佐多岬 |

南大隅町の風景 |
令和2年初釣り 大泊港横の地磯 晴れ@南大隅町
令和2年の初釣りは、鹿児島県南大隅町は大泊港横の地磯へ。2度目。
4時半起床、5時半出発、7時40分大泊着。
8:25実釣開始。
午後3:20まで釣ったが釣果は今一つ。
メジナは27cm、26cm、22cmであとはコッパ。ベラが1匹。
一度大きなのがかかり、余裕をかましていたら磯際の根に潜られ、ハリスがスパッと切れてしまった。これは痛恨。引き寄せたときにもっと浮かせるべきだった。
最近買ったシマノの磯竿は、以前の竿と違って柔らかく相当にしなるので、魚を浮かせるには今まで以上に竿をあおらなければならない。そこの感覚が違い、大きな魚に潜られ気味である。すこし意識を変えていかねばならない。
それとハリのすっぽ抜けが一度。
それほど深い場所ではないので、朝干潮の潮周りも今一つだった。
メジナの魚影は濃い。ポテンシャルはありそうだ。メジナ以外の魚はほとんど釣れない。
前回ここで見た表層の大魚は今日は見られず。ボラは最後に現れたが、前回の魚はボラではなかったと思う。確信はないが。
この日の教訓は、冬の午後は西日が正面に来ると逆光でウキが見えない、ということだ。冬は陽が低いので、西日となると海面がギラギラしてしまってウキ釣りの場合は釣りどころではなくなる。
冬は寒いから晴れてほしいのだが、午後にポイントが逆光になると厳しい。冬は曇りの方が釣りやすいということか。
よって午後は陸寄りの入江ポイントで釣らざるを得なかった。
15:45、大泊を出発し、炎の走りで都城に向かう。18時前に都城のポイントに到着。年明けは18時閉店とのことで、なんとか間に合った。
シマノのコマセひしゃくと安物のかき混ぜ棒を購入。 |
2020/1/2 (Wed.)

右が安物、左が高級ラジカセ。左のラジカセでは、
テープ音源をSDカードやUSBメモリにダビングできる |

膨大なカセットテープコレクション |

廃墟となってしまったような旅館(愛媛県喜多郡内子町) |
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池袋の裏路地(東京都豊島区) |
カセットテープで記憶がよみがえる 晴れ@串間市
千葉に帰省中、ラジカセを買った。数か月前にも買ったのだが、今回買ったのはカセットテープの音源をSDカードやUSBメモリにダビングできるタイプで、2万円以上した。これで膨大な私のカセットテープアーカイブをデジタル音源に変換できる。
数か月前に買ったラジカセは割と安いやつで、AC電源だけでなく乾電池が使えるので、車中泊の時にN−VANに積んで夜にでもカセットを聞くためとか、N−VANサウンドワールドという番組をN−VANで作るために買った。
トランクルームからカセットテープライブラリを車に積んで持ち帰ってきた。45巻入りケースが14ケース。都合600巻以上のカセットが、私の青春時代の遺産である。
1980年代に私は10代を過ごした。当時はカセットテープ全盛時代である。CDが出て来たのは80年代中盤からで、それまではカセットテープがオーディオストレージメディアの中心であった。
私は、貸しレコード屋や、後に貸しCD屋からアルバムを借りてきてはせっせとテープにダビングしていた。また、ラジカセを親に買ってもらったばかりの小学生〜中学生の頃は、ラジオのエアチェックやテレビの前での録音もよくしていた。中学以降は、仲間との「生録」も当時の重要な活動だった(後述)。
それが600巻ものストックとなったのである。
さて、買ったばかりのラジカセでテープを再生してみる。これらのカセットは、2013年3月に会社を退職して以来、7年近くトランクルームの奥の方で保管していた。しかも、ほとんどは80年代〜90年代に録音したもので、一番古いテープは録音してから40年近く経っている。2013年以前も、頻繁に再生していたわけではない。600巻もあるので、毎日1巻ずつ再生しても、600日もかかるのだ。
アナログで記録するテープなので、テープの伸びや記録された磁気層の磁力の劣化など、録音された音が果たしてきちんと当時の音で再生できるのだろうか?
ほとんどおっかなびっくりとテープをラジカセにセットする。
そこから聞こえてきた音は・・・?
驚くほどクリアな、ほぼ録音時と変わらないのではないかと思われる、素晴らしい音であった!
ヒュールイス&ザ・ニュース、ポリス、カーズ、REOスピードワゴン、ミスターミスター、フィル・コリンズ、ZZトップ、ナイト・レンジャー、ブライアン・アダムス、リチャード・マークス、ハート、などなど、80年代に聞いていたアルバムが当時のままに蘇る。いまではほとんどこのようなポップな商業音楽は聞かないが、当時はこれらのアメリカントップ40を好んで聞いていたのだ。
それらを聞いていたころの記憶が少しずつ、断片的に思い返されてくる。
私はカセットテープだけでなく、この後もビデオテープを山のように所有するに至る。
VHS、8mm、ミニDVのビデオテープの数も相当である。これらも今後バンバンデジタル化していきたい。
このようにテープ好きだった私は、大学院でテープの研究をしたほどなのである。
今となっては絶滅してしまったが、最近カセットが静かなブームとも聞く。私の周りではまったくそのような匂いはないのだが、レコードといいカセットテープといい写ルンですといい、、レトロ復活のブームは、それらが、技術的には過去のものであるかもしれないが、何かしらの面白さや優れた点があり、技術的ではなく人間の感性に訴える何かを持っているからだろう。
ところで、市販のアーティストの音楽をテープに録音するほかに、私とその友人たちは、中学以降、小型のカセット録音機(当時はテレコと呼んでいた)を使って、現場を「生録」することが、当時の私たちの活動とも呼べるものだった。
旅に行ってはその様子を録音していた。いや、旅行のようなイベントでなくても、どこか外にみんなで遊びに行ったらいろんな場面で録音していた。
それらの生録音源も一部残っている。
こいつ等を早速SDカードにダビングする。
まずは1983年、我々が中学3年生で学校の文化祭に有志として校内にFM放送を流した時の音源。当時我々5人くらいの仲間はみんなミニFM放送をやっており、文化祭で機材を持ってきて、学校の中心にある図書室を拠点にそこからベスト10番組などをやってその模様をFM電波で飛ばし、各所に配置したFMラジオからどこでも聞けるようにする、という画期的な活動をしたのだ。
その時に、各クラスの出し物を取材・インタビューしたテープが残っている。要するに、各クラスの出し物(お化け屋敷やクイズ)を取材し、コメントするという、ルポの音源である。
とにかくつまらない特派員レポートだったが、36年の時を経て鮮明に再生されるというのは、日本のテープおよびテープデッキの技術の高さを如実に物語っている。
続いては我々が大学2年の夏(1989年8月)、みんなで房総半島の小櫃川の源流を遡り、さらに御宿海岸まで足を伸ばした野宿旅行の音源だ。あまりにも私的なのでこのページで紹介するのははばかられるが、当事者たちにとっては当時の記憶がよみがえる貴重な音源である。(当時の記事はこちら)
これらをSDカード内にMP3データ化することで、晴れて永久保存だ。保存する意味は、このテープの中に登場している私とその友人にしかないのだが。
ともかく、これからこれら600巻をずべて一周り聞くのが楽しみだ。
<追伸>
今日の高校サッカー選手権で、千葉代表の市立船橋と宮崎代表の日章学園が対戦し、日章学園が勝利。もちろん私は千葉代表を応援していた。あと10年くらい宮崎に住んだら、宮崎代表も同じくらい応援するようになるのだろうか。いままで宮城県、福島県、東京都、神奈川県に住んだことがあるが、東京と神奈川は千葉に近すぎて第2の故郷とはならない。で宮城と福島の場合、それぞれ8年、3年半ほど住んだが、高校サッカーや甲子園などでそれぞれの県代表は少しは気になるものの、負けて残念だとは思うが、それほど思い入れはない。やはり「第2の故郷」となるには、時間が必要だ。 |
2019/12/31 (Mon.)〜2020/1/1 (Tue.)

これが東海道の楽しみ |

大阪の街を駆け抜ける |

令和元年の最後の食べ物は徳島丼 |

国道九四フェリーの三崎港ターミナル |

日本一細長いと言われる佐田岬の南岸を船は西に走る |

佐田岬の稜線に立つ風車群 |

きれいなフェリー客室。前方のテレビでは正月番組 |
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ガソリン10リッターの給油だけだったが、こんな牽引車で
来てくれた(大分県大分市) |
千葉から宮崎に戻る
12月31日月曜日。大晦日。
朝からトランクルームに行き、カセットテープのケース、パイプベッド、服などを車に積み込む。
ようやく9時過ぎ、宮崎に向けて出発。
今回、千葉への戻りは先述の通り北九州→東京の素晴らしく楽ちんのフェリーで帰ってきたが、なんとあろうことか、年末年始はこのフェリーは運休している。1月4日が東京発の初便であり、これだと6日の仕事始めの日にしか着かないので、セカンドオプションとして大阪→志布志のフェリーを予約しようとしたが、満席でキャンセル待ちをしたものの取れず。よって、8月に宮崎へ行ったときと同様、全行程陸路で関門海峡を渡るルートしかないのか・・・と思っていたところ、別のフェリーが浮上した。愛媛佐田岬の三崎港→大分佐賀関港を結ぶ、その名も国道九四フェリーである。このフェリーのいいところは、朝7時頃から夜11頃まで、1時間間隔で多数の便があることである。これだ!と予約して、四国からフェリーで九州に渡るルートで帰る。
アクアラインに乗り、保土ヶ谷道路とかの高速を一旦降り、茅ヶ崎あたりの一般道で早速渋滞。
この後ようやく東名に乗り、途中ナビの案内そのまま行ったら一度高速を降りたりして、本当にこれが最短ルートなのか訳が分からなくなってくる。
静岡ではいつものように富士山が神々しい。今日は晴れているので、空の青に富士の白が鮮やかに浮かんでいる。
幸運なことにその後はあまり渋滞せずで、名古屋を通り抜け、名神で大阪中心部に突入。水色にライトアップする通天閣を左に見ながら夕暮れのなんばを駆け抜ける。大晦日の阪神に渋滞はない。
神戸を過ぎ、明石あたりから神戸淡路鳴門自動車道に乗って明石海峡を渡る。もう日は沈んだ。
淡路島に上陸。淡路島で活動したことはない。いつも通過ばかりだが、いつかは釣りをしてみたい。玉ねぎで有名なことは知っている。
淡路島を走り抜け、鳴門海峡を渡って四国は徳島へ上陸。高松自動車道を西にひた走る。
吉野川サービスエリアで「徳島丼」の夕食。豚丼に玉子、高菜、もやし、ネギ、紅ショウガが乗っている。令和元年最後の飯か。午後8時。
ここで今日の限界が見えてきたので、松山の先の内子町のホテルをネットで予約する。
松山自動車道を駆け抜け、愛媛は松山まで到達。松山の先、内子に到着したのは午後10時過ぎ。朝9時過ぎに出たから、休憩を随所に挟んでいるとはいえ、13時間の車旅だった。
昨夏、山陽道〜関門海峡経由で宮崎まで行った際には渋滞に巻き込まれ、一日目は倉敷までしか到達できなかったが、今日大晦日は目立った渋滞もなく、松山まで順調な道のりだったと言えるだろう。
ホテルにチェックイン。
明日はこの先の佐田岬からフェリーに乗って九州に渡る。
風呂に入ってもう12時近い。12時数分前にベッドに潜り込む。いくつかの寺から除夜の鐘が聞こえてくる。輪唱だ。
思えば、こんなに明快な除夜の鐘を聞いたのはいつ以来だろうか・・・。
鐘の音を聞きながら、年越しに特に何の感慨もなく眠りに落ちる。多分、2020年になった数分後に寝たのだろう。今日は13時間も車を転がしてきたのだ。
2019年はどんな年だったか・・・?
他の年とそんなに変わったことはなかったが、正職員という意味では3回目の就職をし、しかも人生最大の大怪我をしたという意味では、すこし代わり映えしていた気がする。
2020年、令和2年1月1日。
普通に明けた。
6:40に起き、2020年初朝食はホテルのバイキング。品数は少ないが、太るのを気にしている私にはちょうど良い。
7:30出発。BGMは人間椅子。200曲以上の人間椅子の曲をSDカードに入れ、ランダム再生している。千葉に帰るときの串間→北九州、そして昨日も今日も車中では基本ずっとかけているが、まだ一回り終わらない。
ガソリンが少ない。元日のため、どのガソリンスタンドもやっていない。後で後悔したのだが、1軒セルフのスタンドで入れようとしたのだが、時々ある「プリペイドカードを買わなきゃならない」ところで、これを現金に替えてもらうことができるか不明だったので、入れるのをやめた。これが後あと響くことになる。
少ないガソリンで佐田(さだ)岬を西に走る。国道197号。佐田岬は、日本一細長いと評判で、確かに地図で見ると針のような地形である。
この岬の根元の方、瀬戸内海に面したところに伊方原発がある。
国道197号には音楽ロードがあり、車が通ると道に設置されたスピーカーから音楽が奏でてくる。何度か別の場所でもこういう道路があったが、楽しい。思わず人間椅子のボリュームを下げる。
ガソリンはどんどんなくなる。途中街を通るが、ガソリンスタンドはどこもかしこも開いてない。元日閉店である。マズい。精神的プレッシャーがどんどん強くなってくる。
N−VANの燃費は、高速道路を走ると13km/リッターくらいまで下がる。100km出すと(正確に言うと3000回転くらい以上回すと)途端にガタ落ち。さらに、風が強いとリッター10km以下まで下がる。車高が高いので、風は燃費の大敵なのだ。そして、風で揺れ、安定感が急減する。この高速の燃費問題が軽自動車の最大の欠点だ。
郊外の信号のない道を走ると、18km〜19kmくらいまでは伸びる。しかし、エアコンを入れるとこれまた燃費は急落。夏の冷房は特に落ちる。夏、冷房を入れて高速を走ると、13kmまでいかないくらいまで落ちる。
それでも前のインテグラは12〜14km程度だったのでそれほど変わらないが、大きく違うのは、ガソリンタンクの容量である。インテグラは50リッターくらいあったはずだが、N−VANはわずか25リッターと半分である。これではすぐにガス欠になるのも道理。
インテグラは一度ガソリンを入れれば600kmくらいは走れたが、N−VANでは400kmも走れない。下手すると300kmくらいで「給油してください」というランプがつく。これでは燃費同じで給油頻度2倍ではないか。
ちなみに、N−VANでは納車以来のトータル燃費、およびガソリンを満タンにしてからの燃費が表示できるのだが、5月の納車以来いままで7000km近く乗って、トータル燃費はおよそ15km/リッターである。いままで街乗りだけでなく、郊外、高速、風のあるなし色々な道や環境で割と偏りなく走ってきたと思うのだが、その結果の平均値として最終的に落ち着くのは15kmくらいということか。
これではやはり、インテグラに比べてそれほど燃費が良くなっていないことを裏付けている。もっとも、インテグラでは最後の10年くらいはエアコンが壊れてエアコンをつけてなかったから、その分燃費が良かったのは間違いないのだが。
佐田岬の三崎港には、燃料計のメモリが最後の一つになる頃に到着。9時頃。港近くのガソリンスタンドもことごとく開いてない。
フェリーの搭乗手続きを済ませる。出航は9:30でまだ時間がある。
タバコを一服して考える。グーグルマップによれば、渡った先の大分の佐賀関周辺にも3つのガソリンスタンドがあるので、ここに電話してみるが、いずれも応答がない。もう9時を過ぎていることを考えると、間違いなく元日閉店だ。
マズい。もうガソリンは最終メモリである。あと30kmくらいしか走れないだろう。
ここで私は、保険を使うことを決断する。自動車損害保険を使うのは、今までのドライバー人生で初めてのことである。事故を起こしたこともないし、故障で車が停まってしまったこともない。いや、一度だけ車が動かなくなったことがあったが、その時は車の外に出て自力で車を押して脇に寄せ、近くのガソリンスタンドの人を呼んでオルタネータを充電してもらって危機を回避したのだ。
とにかく、ここは背に腹は代えられない。ガソリンがなくなってから人里離れた場所で立ち往生するよりも、ガス欠になる前に保険に付随している「10リッター給油無料サービス」を使うことにしたのだ。この港からはもうすぐ出航するので、渡った先の大分は佐賀関港で給油してもらえばいいではないか。
ちなみにこのサービスは、1年間の保険期間中、一度だけ使える。ただ、2度目以降は10リッターのガソリン代を払うだけで、その他の費用は掛からないらしいので、いいサービスだ。
保険会社に電話し、事情を説明する。担当の女性は元日から普通に働いている。そりゃそうだ、365日24時間、自動車保険窓口の人たちは電話の前に座っている。
女性が言うには、通常は給油する担当の人が現場に到着するのは連絡から最大40分くらいはかかる(近くに拠点があるかどうかにより前後する)というから、それなら今のうちに手配しておいてもらって、フェリーが佐賀関に着くころに佐賀関に来てもらえないか?と依頼すると、そうなった。
これで一安心だ。10リッターあれば150kmくらいは走れる。
9:30前に佐賀関からフェリー「遊なぎ」が到着し、乗客と車が降りてくる。
これに乗り込む。9:30出航。
客室に上がり、外の甲板に出て景色を眺める。船は、「日本一細長い」と言われる佐田岬の南岸を西に航行する。山の上に風車群が立っている。青空に白い風車が映える。
晴れているが風が強い。甲板上には寒くて長時間はいられない。
客室は椅子があり、寝そべれるフロアがあり、テレビがある。テレビでは元日のバラエティ番組をやっている。
このフェリーの存在は知っていたが、正式名称を「国道九四フェリー」という。この愛媛の三崎港→大分佐賀関港の航路は、なんと国道なのである。海の上なのに国道とは意味が分からないと思われると思うが、この航路は、国道197号の海上区間という位置付けであり、私がさきほど走ってきて三崎港に至る国道が197号であり、これから大分県佐賀関を通っている国道も197号線なのだ。
つまり、豊予海峡で隔てられた2つの県、愛媛県と大分県に、同じ国道が走っていて、この海を走る航路が国道の一部である、という解釈だ。グーグルマップ上でも、この航路に国道の青い逆おにぎりマークがついている。背景はよく知らないが、面白い。
船は70分で大分県大分市の佐賀関港に到着。10:40。
電話があり、すでに給油の人は港に到着していた。
車で船を降り、早速給油してもらう。これで事なきを得た。
それにしても元旦からガス欠危機とは、今年も楽しい年になりそうだ。
安心してあとは宮崎県最南端まで帰るだけだ。
2017年の日本一周で見物した臼杵の街で開いているガソリンスタンドを見つけ、満タンに給油。臼杵の街はそこそこデカいので、元日営業しているガソリンスタンドが見つかった
臼杵ICから高速に乗る。南へ。
途中死にそうに腹が減るがサービスエリアが少ない。やっと川南サービスエリアにたどり着いたが、なんか改装中かなんかで、外に屋台的な焼きそばとか唐揚げの店しかなく、まともなものが食えないのでタバコを一服しただけで空腹のまま再び走り出す。
都城でICを降り、ようやく街なかに入っていくらでも食堂がある。結局マックで遅い昼食。
串間に到着したのは午後4時頃。
大晦日から元日にかけて年をまたいでの大移動だったが、渋滞もあまりなく、ガス欠になりかけ、人間椅子の音楽でなかなか楽しめた。
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