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エクアドル日記(2005年7月)
7月5日(火) 

日本のこころ

夜、インターネットでヤフーニュースを見ていると、ジーコがコンフェデレーション杯を総括したインタビュー記事が載っていた。日本チームの決定力のなさを、彼はこう分析していた。
「最後のフィニッシュがうまくいかない。これは、日本人の、恥を極度に恐れる国民性が影響している。」
確かに、ギリシャ戦では決定的なチャンスがいくつかあり、もっと点が入っていてもおかしくはなかった。得失点差でブラジルに2位を譲ったことを考えれば、この決定力のなさを悔やみたい気持ちは分かる。

レストランのメニュー看板(クエンカ・セントロ)
DESAYUNOは朝食、ALMUERZOは昼食、
MERIENDAは夕食の意味。

このジーコのコメントを見て、俺はある程度納得した。
武士の時代は「恥をかく」ということが武士にとっての一番の屈辱であったろう。時と共に人間の考え方は変るけれども、その時代に形成された日本人の価値観は、現代にまで引き継がれている。確かに、「世界の中の日本人」で以前書いたように、日本人は恥を恐れる。人前では絶対に恥をかきたくない、と思う人種である。それが真っ先に思考の最初に来てしまう。他国の人間は、人前で自分の主張を出来ることが人間の能力であると考えているから、恥をかくなんてことは初めから考えていない。
だが、サッカーの場合、恥を恐れるというよりも、最後のフィニッシュで責任を感じすぎるといった方がいい。「みんながここまで運んできたボール、失敗は出来ない」という自分自身へのプレッシャーが、余計な力を入れてしまうのだ。チャンスが決定的であればあるほど、これを感じることになる。翼君のように圧倒的な技術があればこのプレッシャーも乗り越えて決められるのだろうが。この「責任感」への過大な意識も、武士の精神を受け継いでいる、と俺は考えている。自分の藩主を始め、自分の家系・親戚の者たち、領地の百姓達に対して、侍は多大なる責任を負っていて、それを果たせなかった場合は、切腹も辞さぬ覚悟で武士をやってるのである。侍の息子は、今で言えば小学生・中学生くらいの年代で切腹の作法を父に教わると聞いたことがある。切腹は命じられてやるものではなく、自分に落ち度があって責任を果たせなかった場合、その責任を取って侍は自ら腹を切るのである。責任の不履行⇒切腹⇒命をもって償う、という潔さを武士は持っていた。つまり、「命に懸けても」、それぐらいの気構えを持ってコトに当たっていたわけである。現代に「切腹」なんていうと「信じられなーい」というリアクションになるんだろうが、ここエクアドルにいてエクアドル人たちのいい加減な仕事ぶりを見ていると、「あぁ、責任感が強いっていうのはやっぱり日本人の特性なんだ」と認識をあらたにさせられる。逆に、外国人達に「日本はゲイシャ、ハラキリの国だ」というステレオタイプのイメージが出来上がったのも、彼らにとってこの「ハラキリ」の精神 −つまりは責任を果たせなかった時は自分の命をもって償う −が、いかに理解不能な強烈なものとして映るかを表している。特に「自殺」を最大の罪としているカトリックの国民にとっては、このハラキリは理解できない行為の最たるものであろう。

花屋(クエンカ・セントロ)

さて、サッカーに話を戻すと、責任感のプレッシャーにより最後のフィニッシュが決められないということは、逆に言えば「ここで一発決めて明日の新聞一面で超有名人だ、何としてもやってやる」という「目立とう精神」が足りないということでもあろう。だが、それも日本人の美徳、「謙虚の精神」なのだ。俺が俺が・・ではない。
しかし、そういう俗物的なヒーロー願望をもっと持つことが、フィニッシュでの集中力の向上 −いや実際には頭の中での集中力の向上と身体のリラックスの状態 −をもたらすはずだ。責任などという余計なことを考えずに、「ここで決めればヒーロー」というもっと自己中心的欲望を前面に出せれば、心も身体ももっと自分の意のままになるはずなのだが。だが、こればっかりは、日本に生まれ日本人として育った以上いきなり変えるってのは、なかなか難しいものがある。ここが、ジーコの言う「日本人の特性によりフィニッシュで決められない」というコメントに俺が納得したゆえんである。日本人は、シュート練習を他国人の何百倍もして、精神的な弱さを技術である程度カバーするしかないか。

さて、以上の話の繰り返しになるかもしれないが、日本人は基本的に自分の能力を自慢げに自分からアピール・主張する人種ではない。「能ある鷹は爪を隠す」ってやつだ。控えめ、謙虚、それが美徳としてある。これを考えるたびに、俺は中学時代からの友人、Y幅を思い出す。彼は、中学時代から常に自分の知識を人前で披露することを良しとして生きてきた人間である。彼は、科学などの話題になると、自分の知っている知識を総動員してみんなの前で得意げ、自慢げに喋ったものである。そんな彼を周りの人間は苦笑を交えながら見ていたのであるが、今思い返してみると、彼は欧米的な考え方を持った、なかなか珍しい日本人だったのかもしれない。
日本での美徳・価値観は、外国では通用しないことが多い。こうしたサッカーの試合のみならず、国際社会では控えめではダメで、自分をアピールしないことには誰も自分を理解してくれない。言葉の違う外国で、満足に言葉を喋れない外国で、「行間を読んでくれ」というのは通じない相談である。喋って行動して、相手に働きかけ、自分をアピールする。それが大事。外国に住むと痛感させられることである。
だが、それにも増して日本人の価値観こそ世界の中でもイチバン、と思うことも多い。勤勉さ、責任感の強さなどは世界に誇る日本人の特性である。

日頃外国人と接していると、否が応にも日本人とは何者なのかを考えさせられることになる。


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