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日本帰国日記(2005年12月)
12月26日(月) 晴れ時々曇り

幕張メッセ横、国道357号線
「ゼロヨン禁止」の看板に注目

幕張新都心のビル群

今日は今年の1月に失効している運転免許を更新しに海浜幕張の免許センターへ行った。目を充血させるような冷たい風が強く吹き、マリンスタジアム、幕張メッセ横は吹きさらされて晴れているけれど体感温度は低い。
免許が失効して6ヶ月以上経っているため、書類提出や視力検査等通常の手続きの後、安全講習を2時間も受けさせられた。うんざりだ。
だが講習が始まると、この講習の講師、 −免許センターの職員− の話し方が独特で、思わず見入ってしまった。彼は、今年の全国および千葉県の交通事故発生件数や道路交通法の最新の改正点等を説明し始めたのだが、一文一文言葉を区切り、目をつぶって自分の説明に陶酔しているように動きを止めるのだ。自分に酔っているようでもあり、また自分の説明に対する場の雰囲気、俺達のリアクションを、視覚以外のすべての感覚で感じようとするかのようでもある。

講習後無事に免許が発給された。免許センターから幕張本郷という総武線の駅まで歩き、駅近くの松屋に入った。豚汁と牛めし大盛り。考えてみれば、帰ってきてから牛丼を食べるのは初めてだ。ひいきの吉野家が牛丼を再開していないので、今まで入る気にならなかったのだが、今日は牛丼欲が高まり、松屋でもいいやという気になったのだ。以前にも書いたと思うけど、みなさんも、時々突然無性にビッグマックが食いたくなったり、吉牛の牛丼が食いたくなったり、ココイチのカレーが食いたくなったりするでしょ。
食べていると、一人の老人が入ってきて牛丼を注文した。松屋のカウンターで一人で食べる老人。近くのアパートに一人暮らしの老人だろうか。老人ホームとか家族と一緒に住んでいる人なら一人で松屋に来るとも思えない。まぁ珍しい光景ではないけれど、ちょっと寂しい風景だ。俺も数十年後(生きてたとすれば)、彼のように一人寂しく吉野家のカウンターに座っているのだろうか。いや違う、彼は熱狂的な牛丼ファンのジイさんなのかもしれない。3日に一度は牛丼を食べなくちゃ気がすまない、みたいな。

幕張本郷駅から、総武線という黄色いJR電車で千葉まで帰る。車内、携帯で大声でしゃべるオバサンがいた。帰ってきてから俺が観察したところによれば、首都圏のJP内では電源を切るかマナーモードにし、「通話はご遠慮ください」というのがほとんどのようであるが、このオバサンは人目をはばからずに大声で待ち合わせに関する話を乗客みんなに聞える声でしていた。「今時の若いもんは・・・」と年配者が若い世代の傍若無人非礼振りを嘆くようになって久しいが、オバサンだって変わらないことしてる。「オバタリアン」という昔流行った言葉が思い出される。もっとも、このオバサンの場合は、携帯電話というものを持ったばかりで話すのが楽しくてたまらず、公共交通機関内でのマナーをよく知らなかっただけなのかもしれないけれど。

以前4年くらい前に、携帯電話の普及の弊害についてコラム・最近の社会について考える(1)で書いたけれど、帰ってきてから気づくこととしては、ますます人々は「ケータイの奴隷」のようになってるということだ。最近の携帯は液晶画面が高精細になり、TVを見れたりとか色々な情報をダウンロードできたりとかカメラつきで写真が撮れたりとか、機能が無駄に増えている。携帯間のメールは、もはや連絡手段として実際に通話するのと同じくらい一般的になってきている。高校生から大人まで、街でも電車でもどこでも人はケータイを見ている。通話してなくても、メールを読んでたりメールを書いてたり何か情報を見てたりゲームをしてたり、人は片時もケータイから目が離せないかのようである。電車や喫茶店の椅子に座ってまず始めに人がやることは、ほぼ例外なく、携帯をカバンから取り出し、メールをチェックすることである。電車の中で本を読んでいる人は少ないけれど、ケータイを見ている人は圧倒的な数である。「僕、アタシ、ケータイなかったら生きていけない」とばかりにケータイに執着している。もはや彼らにとってケータイなしの生活は考えられないように見える。ケータイという小さな機械に人間が支配・コントロールされているようだ。近い将来、アルコール依存症や麻薬中毒のように、「ケータイ依存症」患者が出るんじゃないかってくらいである。ケータイが手元にないと途端にそわそわして落ち着かなくなり精神状態が不安定になるような人が。街の人々の”ケータイ中心生活”を見ていると、もうその気のある人が結構いるんじゃないかって気がしてくる。

それにしても携帯電話は、人々の生活スタイルを劇的に変えた。確かにこれは便利だ。もはや人々にとって、携帯電話なしでの待ち合わせなんか考えられない。今俺はまだ携帯を買ってないんだけど、友人・知り合いからは「連絡がつかないから早く携帯を買え」と苦情要望がやかましい。一人でいたい分には携帯がないのはいいんだけど、確かに待ち合わせをしようとしてる場合とか一刻も早く話さなくちゃならない場合とか、簡単に本人と連絡が取れるから非常に重宝だ。
また、携帯で誰とでもつながれるようになったことで、孤独に押しつぶされそうな現代人をそこから救い出しているようにも見える。だが一方で携帯を通じたつながりというのはほんのうわべだけの薄っぺらなものでしかないので、実は一層孤独感を深めることになっているような気もする。あまりにも携帯でのコミュニケーションが普通になったおかげで、携帯でつながっていない時に孤独感が襲ってきて、それが「ケータイ依存症」のように、携帯でつながっていなければ気がすまなくなる、みたいな。
20年前にはほとんど影も形もなかった携帯電話は、すべてを飲み込む津波のような怒涛の勢いで僕らの生活を飲み込んで支配するようになった。インフラ的にも機器的にも数的にも、近代史上稀に見る普及のスピードじゃないやろか。これだけ生活のなかに浸透すると、便利さだけじゃなく弊害が当然のように現れてくる。人は、この小さな機械に完全に翻弄されて生きているように僕には感じられる。

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