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チリ&ペルー旅行 実況中継
(3)モアイだけがある、イースター島(イスラ・デ・パスクア)
モネダ宮殿
衛兵交代式
国立自然史博物館
国立自然史博物館の吹き抜け
太平洋にポツンと浮かぶ島
ハンガロア村
イースター島ガイド、パトリシオ
見渡す限りの荒野、イースター島
アフ・トンガリキのモアイ
絶海の孤島に立つモアイ
モアイ製造工場、ラノ・ララク
モアイ切り出し中に永遠の中断
なにを考える、モアイ?(ラノ・ララク)
アナケナ・ビーチ
プカオを被ったアフ・ナウナウのモアイ
夕陽モアイ
12月21日日曜日。今日は夕方イスラ・デ・パスクア(イースター島)へ飛ぶ。それまではサンティアゴの街を歩き回った。朝食は、三度目のホットドッグ。美味い。
まずメトロでモネダ宮殿へ。犬に吠え掛かられ、今にも噛みつかれそうになる。こえぇ。この狂犬め。と後になって強がる。
モネダ宮殿は、その名の通り(モネダ=「お金」の意)、もともとは造幣局として建設され(1805年)、その後大統領府として使用されるようになる(1846年〜)。そして、1973年、チリの独裁者と言われるピノチェトによるクーデターで炎上。時の大統領アジェンテがここで自ら銃で自殺したという壮絶な歴史をもつ。
ここで隔日午前10時から、衛兵交代式が行われ、ちょっとした観光名物となっている。警備兵引継ぎの儀式とブラスバンドの行進を、多くの観光客が見守る。
その後は博物館巡り。サンティアゴには博物館が多く、チリや南米の歴史を紐解くことが出来る。プレインカ博物館では、インカおよびインカ以前の南米各地の文明を紹介。ここで僕が感動したのは、何といってもキープの実物である。本当に本物か念を押して聞いたが、博物館の学芸員は、「本物で、15世紀頃実際にインカ帝国時代に使用されていた」と断言した。キープとは、文字のなかったインカ帝国において、数を表すための、縄状のである。縄を何本も束ね、そこにいくつもの結び目を作ることで、数を表現する。このキープによりインカ帝国では、「数の管理」が行われた。首都クスコを中心にアンデス地域に張り巡らされたインカ道を、チャスキという飛脚が、このキープを持って走り回ったという。
そして織物。アンデス各地には、独特かつ高度な織物が昔から発達してきた。そのデザインや織り方の独自性、緻密性には驚かずにはいられない。アンデス地方のお土産といえば、色鮮やかで独特な幾何学模様や動物のデザインのセーターや敷物である。これらは一目でアンデス産と分かるくらいに特徴的である。
さらに、博物館には、チリ北部の街アリカ(Arica)で見つかった黒いミイラを展示している。
インカ以前にも、南米各地で、様々な文化が形成されていた。僕が以前住んでいたエクアドルでも、マンタやマチャラ周辺に独自の文化が発達していたのである。その後インカ帝国は、エクアドルの大部分もその版図に組み込み、北はコロンビアから南はチリまでの広大な領域を持つ大帝国へと発展した。
国立自然史博物館。緑色の池と木々が白い砂と鮮やかなコントラストを放つ広い公園の中に、欧風の堂々たる建物が建っている。その面影は、シカゴの科学産業博物館を思い出させる。公園では、アルパカを連れた写真おじさんが、強い日差しの中、木陰でダベっている学生たちに声をかけている。おじさんは、誰も写真を撮りたがらないとわかると、アルパカを木に繋いで、自分も木陰休憩を始める。
博物館に入る。1階の広々とした吹き抜けに、巨大な鯨の骨が豪快に泳いでいる。また、様々な動物の剥製が展示されている。館内を巡ると、チリ各地の民族、風俗、伝統、歴史、特産物、自然、動植物の展示が目白押しだ。チリは銅の生産で有名。コンピュータとか電子機器に銅がいかに使われているかを、様々な機器を展示して紹介している。
鯨の骨(国立自然史博物館)
14時昼食。1日目に定食を食べたレストランMarbella。今日は日曜なので定食セットがないとのこと。仕方なく単品でサラダとチュレータ(ポークステーキ)とフルティージャ(イチゴ)の生ジュースを頼む。高い(5030ペソ=8ドル強)が美味い。
15時10分前に宿に戻り、バックパックを回収してメトロでロス・エロエスのバス停へ行き、駄菓子売りのメガネの太ったニーちゃんにバスがどこから出るかを聞く。サンティアゴに着いた場所と同じ場所にCentropuertoが停まっていた。そのバスで空港へ。30分。
サンティアゴ17:20発ラン航空イースター島行きの飛行機には、なぜか赤子連れのおばさんが多い。僕の周りにも二組もいて、赤子が泣き叫ぶのをおばさんが懸命になだめている。隣は巨漢デブのおじさん。僕の席は3人がけの真ん中で、身動きとれず、5時間40分の間一度も席を立たずにひたすら眠る。まぁ、僕はエコノミー症候群を恐れずに10時間でも席を立たずにいるのが珍しいことじゃないけれど。ただ、今回は途中の2時間は、『The Rocker』という、中年ドラマーが若者バンドに入って過去の屈辱を晴らすという突き抜けた娯楽映画を見て大いに楽しみ、気を紛らわすことが出来た。
飛行機は、サンティアゴ発、イースター島経由タヒチのパペーテ行き。なるほど乗客はポリネシア系の顔立ちが多い。つまりは、ハワイ人小錦的な、目がくりくりとしていて、体格がよく、色が浅黒い人々だ。ステレオタイプではあるが、ハワイ、サモア、トンガ等、大洋州の国々の人々の、ラグビー選手に代表される屈強さが彼らからも感じられる。男性の髪は、短髪か長髪。長髪の場合髪を後ろで束ねている。僕はこの後、イースター島で、そんな彼らが力強く馬を駆っている姿を目の当たりにすることになる。
ラン航空は、機内エンタテイメントとか座席の快適性はデルタ航空よりもはるかに上なのだが、一つだけ我慢ならないことがあった。それは、離陸後すぐに”昼食”が出ることである。昼飯なんてものは、さっき食ったばっかりである。一体どういう計算したら19時(イースター島時間17時)に昼飯なんだよ?もっと遅くに”夕食”を出してくれよ。5時間40分のフライトで、食事はこの一度だけ。この的外れの機内サービスは、まったくどうかしてる。
イースター島ハンガロアの空港に、21時着(サンティアゴとの時差2時間なので、サンティアゴ時間23時)。雨模様。蒸し暑い。21時でようやく暗くなろうとしている。空港のカウンターで客を呼び込んでいる安民宿の一つに決め(トイレバス共同で9000ペソ)、そこのおじさんおばさんと車で宿へ。
イースター島は、南太平洋に存在する、小豆島ほどの大きさの小さな島。南米大陸から3700km離れ(飛行機で5時間半ほど)、タヒチからは4000kmの距離がある。一番近くの島でも1900km離れているという、まさに絶海の孤島である。島の本当の名前は、ラパ・ヌイという。ここに住んでいるポリネシア系の先住民の名である。スペイン語で、イスラ・デ・パスクア。ヨーロッパ人(オランダ人)がここに初めて上陸したのが1722年のイースターの時期だったことからそう名づけられた。島には、ハンガロア村という街が一つあるだけ。ここ以外の場所には、先住民ラパ・ヌイの人々がぽつぽつと点的に住んでいるに過ぎない。人口5000人。
安宿テケナ・イン。始め、宿のオーナーのおばさんは、トイレつきシングルが20000ペソ(約32ドル)と言うではないか。空港での話と違う。しかもバストイレ共同の部屋はないという。抗議すると、おばさんは、トイレシャワーつきシングルを10000ペソ(約16ドル)でいいと折れた。得した気分。部屋は、まぁまぁ広い。全く問題なし。
明日と明後日の一日ツアーと半日ツアーを、宿のツアー手配の男に申し込み、これでイースター島観光計画も万端整った。
夜11時過ぎ、就寝。夜は暑くなく、寝苦しさはない。蚊もいないようだ。洗面所の上部についている小窓から、風の音が聞こえてくる。外ではバナナの葉だろうか、風にこすれてざわめいている。
部屋を暗くしてすぐに、カサカサと物音が聞こえる。始めネズミかと思ったくらいの音だったので、全身を硬くして身構え、さっと電気をつけてすばやく音のしていた方を見回すと、ゴキブリだった。どの世界にも、ゴキブリがいる。床の上を一心不乱直線的に背走するゴキブリを、無慈悲に、いやむしろ本能的に、ベッドの足元にあった靴を振り上げて即座に叩き潰す。ペシャンコで絶命したゴキブリをそこにそのままにして、安心して眠りにつく。
フェリアでの朝食⇔エンパナーダ
12月22日月曜日。晴れ。朝8時起床。朝食付きにしなかったので、オーナーのオバちゃんにレストランないか聞くと、この時間ならすぐそこのフェリア(市場)で食べなさいと言って、私も買い物に行くからと一緒について来てくれた。フェリアの一角にカフェがあり、何人かが朝食を食べている。ここの人たちはフレンドリーだ。見知らぬアジア人の僕に声をかけ、挨拶をしてくる。カウンターの中で立ち働いているおばさんに、何があるのかを聞く。ケーキとエンパナーダ(肉や野菜を小麦粉の皮で包んで揚げた食べ物。インド料理で言えばサモサ)、コーヒーを頼む。エンパナーダは具だくさんかつ皮も柔らかく、美味い。スポンジケーキは大きくて食い切れなかったので、今日のイースター島一日ツアーの間食用に袋に入れてもらい持ち帰る。
9時半にようやく宿の隣のスーパーが開店し、そこで今日の昼飯用にパンでも買おうと思ったのだが、まだパンはこれから作るとのことで土曜日に売れ残ったしなびたパンしかなかった。仕方なく、ドリトス(小)とオレンジジュースだけを買う。
10時、ツアー運転手が、バンでやってくる。おぼろげに予想はしていたが、今日のツアー客は僕一人。他の客とのグループで、バンで島を巡るツアーが一般的なのだが、昨日着いたのも夜遅かったし、ま、料金は変わらない(きっと、昨日のツアコンの男は、僕一人になることを想定して料金設定をしたに違いないのだが)。僕としてはよりじっくり自分のペースで見られる分、お得なので問題はない。
今日のツアーガイド兼運転手の名は、パトリシオ。40過ぎの中肉中背のチリ人だ。彼はサンティアゴ出身で、奥さんがラパ・ヌイ(イースター島の先住民)で、8年前からイースター島に移住してガイド業をしているそう。僕たちは始め英語で話していたが、僕がスペイン語を話せることを知ると、その後の会話はすべてスペイン語となった。
まず村外れのスーパーで、パトリシオが今日の昼飯用のパンと水を買う。僕もリンゴとオレンジを買った。高い。本土よりも物価が高いのは、エクアドルとガラパゴスの関係と同じで、要は観光客料金なのだろう。パトリシオの話では、イースター島に今のように大勢の観光客が訪れるようになったのは、せいぜいこの7,8年のことだという。さらに今後観光開発が加速するに違いないが、もともとが人口わずか5000人の小さな島であるので、世界遺産として保全を第一に考えてほしいものである。過去この島で起こったような破壊が起こらない事を願いたい。
さて、今日のツアーは、10時から18時まで、島の東部・北部の見所を一日かけて回るフルコース。アフ・タヒラに始まり、アフ・ハンガ・テエ、アフ・アカハンガ、ラノ・ララク、アフ・トンガリキ、テ・ピト・クラ、アナケナビーチをすべて回った。一対一なので、説明がよく聞け、大満足。これで60ドルなら高くない。
この島には、他に何もないが、モアイがある。見渡す限り茶色の不毛の大地に見える。ところどころに小さな緑の林はあるが、基本的に土か、短い下草が島の表面である。
モアイというのは、かつてここの先住民ラパ・ヌイの人々が造ったものである。各部族の権力者一族により、部族の後世での繁栄を願って建てたもので、いずれも村落の方向を向かって、部族を守る守護神として建っていた。つまり、海沿いの村では、すべて海に背を向けて建っていた。一人の首長が死ぬと、一体のモアイが建てられる。そうやって、モアイはアフと呼ばれる祭壇(礎石)上に一体、また一体と建てられていったのである。その大きさは、小さいもので1.13m、最大21.6m。権力の強大だった首長ほどその死後に建てられたモアイは巨大で、生前の権力の大きさがモアイの大きさに比例しているそうである。この小さな島には、大小900体ものモアイが存在する。
モアイは、ポリネシア系の人々の特徴を現し、すべてのパーツがでかい。耳、鼻、そして面長の顔。モアイには、サンゴ石で出来た目を入れることにより霊力が宿り、後世まで部族を守ってくれる力が発生すると信じられていた。ハンガロア村の博物館で、発掘されたモアイの目を見ることが出来る。現在復元されたモアイでは、アフ・コテリクのモアイだけに目のレプリカが嵌められている。
イースター島は、人間の文明がネガティブなインパクトとして自然に何をもたらすかということを、縮図のように体現している。
かつて、この島は亜熱帯雨林性の森林で覆われていた。いったいどこから、こんな太平洋のど真ん中の孤島にたどり着いたのか分からないが、3世紀〜9世紀ごろに、ポリネシア系の先住民、ラパ・ヌイの人々が船でやって来て住み始めたと言われている。その後、人口の増加とともに、人々は森林を伐採して耕地にしていった。また、魚を取るための船も造った。さらには、ラノ・ララクで切り出したモアイを島各地に運搬するために下に敷く丸太として、森林伐採は加速し、土地は地味を失って作物が採れなくなっていく。そして人口が増え過ぎて食糧難に陥り、ついに人々は各部族間で殺し合いを始めたという。この内戦により、その部族の守護神たるモアイは、真っ先に攻撃対象となり、ほとんどのモアイが倒されてしまう。日本でいえば、大名や豪族の菩提寺を焼き払うことにでも当たろうか(そんな歴史があったのかは知らないが)。モアイに目を嵌めることによって霊力が宿ると信じられていたため、ほとんどのモアイは、目を下にして、つまりうつぶせの状態に倒された。1774年にイギリス人のキャプテン・クックがここに上陸したとき、すでにモアイは引き倒された状態だったという。
さらに、その後は世界の大部分の弱い地域と同じように、ヨーロッパ人の侵略により、先住民たちは奴隷として南米へ連行されていった。そして今やほとんど木々のない荒れ果てた島だけが残り、最盛期には数万人いたとされる人口は、今はたったの5000人。パトリシオの話では、うち先住民のラパ・ヌイが2500人、チリ人含めた外国人が2500人だそうである。
イースター島を車で走ると、見渡す限りの、短草のみ生えた不毛の大地である。緑の林は、わずかしかない。島の大部分を覆っていたという森林が消滅してから時は流れているが、それは二度と元に戻ることはないか、もしくは戻るのに膨大な時間がかかるのだ。「文明の前に森林あり、文明の後に砂漠が残る」を象徴的に現す島なのだ。まんま人間が地球を破壊してきた歴史そのものである。
ラノ・ララク。モアイの製造工場。この岩山で、ラパ・ヌイの人々はすべてのモアイを製作し、島各地へ運んでいった。山には、建造途中や運搬途中のモアイが無数に残っている。山の裏側には湖があり、アフ・トンガリキ方面の絶景を眺める。
歩き疲れた後、車を停めた所で昼食。僕は、フェリアで包んでもらったケーキと、オレンジを食べる。パトリシオとイースター島や日本のことについて、とりとめもなく話をする。日本人の労働時間が長いことや地震が多いこと。チリも地震多いよ。環太平洋火山帯だ。彼はガイドをやって世界中の観光客を相手にしているだけあって、世界の国々の断片的な知識を豊富に持っているようである。日本人観光客もここイースター島には多い。
途中、アナケナ・ビーチまでトイレはない。パトリシオは、近くのブッシュで用を足す。
南太平洋の太陽は強烈だ。昼を過ぎると、暑さが厳しくなってくる。湿気は少ないとはいえないが、それほど不快ではない。特に島の東北部は荒涼とした丘陵が続き、森林はほとんどない。火山島だけあって、ところどころで土地が隆起している。磯の岩を見ると、火山島らしく黒くて小さな穴が無数に開いている。
島の周囲は、深くて鮮やかな青の海。日が照っているときは、本当に鮮やかな青で、海は澄みきって輝く。雲が空を覆うと、その白を反射させて、海も白っぽく濁って見える。海は、空の反映のように雲の流れともにその色を刻々と変えていく。
アフ・トンガリキ。ここには、島最大となる、15体のモアイを復元してある。このモアイ復元には、四国・高松にある日本の大手クレーン会社タダノが大きな役割を果たした。彼らはクレーン、資金を提供し、すべて倒されていたモアイの復元に協力したのである。そんな日本との縁で、アフ・トンガリキの入り口に離れて一体立っているモアイは、1982年に来日し、東京と大阪で展示されたそうである。
ツアーの最終訪問地、アナケナビーチ。イースター島随一の美しい白砂の浜である。水は、緑青色で太陽光を反射している。砂浜には、プカラを被った5体のモアイ、アフ・ナウナウがある。また、イースター島研究で著名なノルウェーの探検家・考古学者、トール・ヘイエルダールが1978年に現地の人と立て直した一体のモアイがある。立てるのに12人がかりで18日間かかったそうである。ヘイエルダールといえば、簡素な筏、コンティキ号で南太平洋を探検したことで有名である。『コンティキ号漂流記』は、開高健氏も絶賛していた。オスロを訪れた氏は、「コンティキ号博物館」でその航海と探検家の軌跡をなぞっている。
車は、午後6時にハンガロア村に戻る。不満の何もない、いいツアーだった。パトリシオに礼を言って別れる。
まだ昼間のように日が高い。夕食は、魚とフライドポテトで6000ペソ。高い。
ハンガロア村から程近い、タハイ遺跡がある島の西海岸で、太平洋に沈む夕日を眺める。オレンジ色の背景に、モアイのシルエットが浮かぶ。
旅に出て実質3日が終わる。ここまで思い通りの観光ができ、完璧に滑り出した旅だが、翌日、ここイースター島で予想だにしなかった苦悩のどん底へ突き落とされることになる。
(続く)
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