チリ&ペルー旅行 実況中継
(7)ここがインカ帝国の首都、クスコだ
バスの中で夜が明ける。12月28日日曜日。夜明け後の村にバスが停まる。ここからいくつもの小さな村々に、バスは各駅停車のように停まり、そこで一人、また一人と自分の家に戻ってきたペルー人たちがバスを降りていく。この辺りで降りる人は、たいていが出稼ぎ風情のインディヘナのおじさんたちだ。彼らは、バスの横腹から取り出した大きな荷物を担いで、とぼとぼと小さな村の自分の家に向かって歩いていく。こういう光景は、エクアドルで何度も見てきたものだ。街に働きに出ていたおじさんが、本当に山奥の奥、数戸しかないような自分の小さな村に帰っていくシーンを。
バスはすでにアンデス山脈の懐に突入している。朝8時前、ガソリンスタンド兼ドライブインに到着。空は雲が覆っている。山のふもとの方を見ながら小便タイム。アンデス名物の光景、雲がすぐ目の前を流れていく。かなり高いところまで来ている証拠だ。出発してから9時間半、バスはアバンカイの近くまで来たようである。
乗客は朝もやの山の中で、思い思いに休憩している。僕はタバコに火をつけて、山を眺める。朝のすがすがしさはない。そもそも夜行バスで「朝のすがすがしさ」などというものなどあり得ない。ドロドロに疲れた、寝不足の体と頭を引きずってバスを降りる。それが通常の夜行バスの、朝のあり方である。だけど、この山の中の引き締まった冷気は、バスの中から持ち出した虚脱感を一掃するのには大いに役に立つ。俗な言葉で言えば、リフレッシュだ。晴れ渡ってないことがかえっていい。朝の空気に新鮮さが感じられる。晴れた日の空気は、朝といえどももうすでに発酵し始めている。
バスは再び出発する。アバンカイの街を過ぎる。アンデスの小さな村々は、どこも似ていて、僕は懐かしい気持ちになる。坂道が多い。道はだいだい真っ直ぐに走っている。街の中心には広場があり、教会がある。広場では誰もいなくて寂しいか、または何人かの子供たちが遊び、何人かの大人たちが時を過ごしているか、どちらかだ。村は、ゴミゴミしていない。広々ともしていない。四方を山に囲まれ、人々は常に山を視野のどこかに入れている。山に抱かれて生きる。
バスは山の間を走り続ける。いつまで経ってもクスコに着かない。時々、赤茶色の日干しレンガで造った家々がこじんまりとまとまっている村々が眼下に広がる。これがペルーアンデスの風景である。赤茶色の家。
ようやくクスコに着いたのは、12:45。ナスカから14時間ちょっとの長旅。
クスコのテルミナル(バスターミナル)に降り立ち、荷物を確保し、大きく伸びをする。疲れた。ナスカを出てから、途中休憩は2度のみ。まぁ、ほとんど車内では寝ていたのだが、それでも疲れた。
真昼のクスコはいきなり涼しい。標高3399m。テルミナルには多くの人々が行きかい、バスを待っている。テルミナルから、山の斜面に重なり合うようにして建つ、四角い茶色の家々を眺める。
僕はタクシーでクスコのセントロへ向かう。アルマス広場横の安宿が集まるテクセコチャ通りへ。インペリアル・パレスにチェックイン。迷ったが、ここが最後の宿となるので、奮発してトイレ・シャワーつきのシングル、1泊35ソル(12ドル弱)の部屋にした。ホテルのオネーちゃんは、おとなしめだけどとても感じのいい人で、僕が今宿泊客は少ないの?と尋ねると、今日は日曜で少ないけれど、明日からはたくさん予約が入っている、という。僕はマチュピチュ行きの電車チケットを取りたいのだけど、と聞くと、このホテルで手配できるという。彼女は、何と何がついていくらかを、懇切丁寧に説明してくれる。クスコ駅までの送迎、クスコからマチュピチュまでの往復電車チケット(バックパッカーという最も安価なクラスの電車)、マチュピチュの入場券、マチュピチュ駅からマチュピチュまでの往復バスチケットがついて175ドル。ガイド付なら安い。僕はすぐに明日か明後日で手配をお願いする。彼女は、手配主である宿のオーナーのセニョーラと連絡を取ろうとするが、捕まらないので、あとで結果を教えてもらうことにする。
昼飯を食べに外に出る。PM2時過ぎ。昨日の昼飯からロクなものを食べてない。オレンジとチョコとビスケットとケーキ一つのみ。
近くに、日曜だけど開いていたレストランに入る。観光客向けのようだが、雰囲気は大衆食堂っぽく、値段はまぁまぁ良心的だ。ロモ・サルタードのセット定食で8ソル。美味い。高山病に効くというコカ茶もよし。
僕がロモ・サルタードの写真を撮っていると、隣のテーブルの家族が僕を見て笑っている。そして、お父さんが、彼らのカメラで家族の写真を撮ってくれるよう、僕に頼む。
食堂を出る。ようやく一息つけた。クスコの標高は3399m。高い。空中都市と言われるマチュピチュの標高(約2400m)よりも1000mも高い。ボリビアのラパスやポトシよりは低いが、普通なら、高山病にかかる高さだ。僕はまだ着いたばかりで、なんともない。だが、僕よりも先に、身近な持ち物が次々と高山病にやられていく。まずボールペンが書けなくなる。ボールペンがないと、日記を書くのに困る。こんなことなら宇宙空間でも書けるというフィッシャーのスペースペンを持ってくるんだった。なんとなくもったいないから普段は使わないのだ。ところが、何が幸いするか分からない、成田空港で突然もらったアメックスのシャーペンがこんな地球の裏側まで来て図らずも役に立つことになった。シャーペンなら気圧に関わらずどこでも書ける。余計な荷物になったとばかり思っていたが、何が起こるかわからないのが旅である。
次にライターが点かなくなる。とりあえず仕方がないから、アルマス広場に面する街角で店を出している、駄菓子売りの露店のニーちゃんにマッチを借りる。(この後、タバコを吸いたくなるたびにこの露店に行きこのニーちゃんに借りた。悪いので何回か飴玉(高山病予防にいいらしい)を彼から買った。何度も借りたので、すっかり顔なじみになった)
飯の後、セントロを歩き回る。クスコは、インカ帝国の首都だった街である。ケチュア語で「へそ」を意味し、インカの人々の中枢であった。「すべての道はローマに通ずる」ならぬ、「すべての道はクスコに通ずる」と言われる。インカ帝国がその領土全域に網の目のように張り巡らせたインカ道は、全長4万km。地球一周以上の長さだ。北はエクアドルのキトから、南はチリのサンティアゴまで、つまりインカ帝国の最北から最南端まで、この道はつながっていた。そのインカ道には、チャスキと呼ばれる飛脚が駆け巡った。高度な文化が発達したインカだが、車輪と文字はなかったので、インカ時代、この道を”車”が走ることはなかった。
インカ道は、スペイン人征服者をして「我が国のどこを探してもこんな美しい道はない」と言わしめたそうである。
クスコといえばまずは何といってもアルマス広場とカテドラルだ。よく考えてみると、ペルーの街の中央広場は、アルマス広場という名が多い。今回僕が行った街はすべてそうである(リマ、ナスカ、クスコ、マチュピチュ村)。そう言えばサンティアゴの中央広場もアルマス広場だった。他の中南米諸国ではアルマス広場という名前の広場は聞いたことがないが、ペルーでは異様に多いようだ。アルマ(Arma(s))とは、スペイン語で”武器””軍隊”の意味だから(英語のarms, army)、アルマス広場とは、武器広場、軍隊広場である。物騒な名前だが、建国や独立、侵略のための武力闘争や戦争は昔は当たり前だったから、特殊なことではない。ましてや武力によって中南米を支配したスペイン人たちがつけた名前である。
インカ帝国時代にもここが中央広場であった。インカ時代には、金銀で出来た像がいくつも立っていたそうである。スペインの支配後も、ここをアルマス広場として街の中心とした。そしてカテドラル、ラ・コンパニア・デ・ヘスス教会が広場を取り囲み、植民地時代がそのままとなっている。
現在のアルマス広場は、周りにレストランや旅行会社、お土産屋があり、以前と変わらずクスコで一番賑やかな場所である。空は穏やかに晴れて、広場には花が咲き乱れ、多くの人々が出ている。
ラ・コンパニア・デ・ヘスス教会もカテドラルと同じく、二本の鐘楼を持っている。かつてのインカの第11代皇帝ワイナ・カパックの宮殿があった場所に建てられた。ワイナ・カパックといえば、僕がエクアドルで職場に通うバスが通っていたクエンカのメイン通りの一つが、(ウ)ワイナ・カパック通りだった。インカ帝国が支配していたペルー、エクアドル、ボリビア等アンデス諸国では、通りの名前にインカの皇帝の名前がついていることがある。アメリカにリンカーン通りやワシントン通りがあるのと同じだ。
12角の石。現代においても見劣りしないインカの高度な技術といえば、まず思い浮かぶのが石組技術である。僕は以前、クエンカ近郊のインガピルカ遺跡で目の当たりにした。クスコは、さすがインカ帝国の首都である。インカの石組みが街のいたるところに残っている。「12角の石」は、アトゥンルミヨク通り、精巧かつ巨大な石壁の中にある。カミソリ1枚通さないほどの石組みとはよく言ったもので、接着層のない、石だけが詰まれた壁で、石と石との隙間は全くない。よくここまでそれぞれの石を加工したものだ。12角の石は、角が12個もある石を、周りと寸分の隙間もなくはめ込んである。こんなことまでしなくてもいいのに、とも思うが、一体何のために12角にしたのだろう。
ラ・コンパニア・デ・ヘスス教会横の細い通り、ロレト通りにも、インカの石組みが両側200mほど残っている。整然としている。ここには14角の石がある。道沿いの建物の中から、ここでもまたマナーが流れてくる。
日本でも城とかに石垣を見ることが出来るが、このインカの石組みは、日本でいえば「切込接」という石垣に似ている。日本では最も新しい時代の、高度な加工技術が必要な積み方で、似たような大きさの石を、石材間の隙間をなくすように積み上げる。それより以前の石垣は、大小様々な石を積み上げ、大きい石と大きい石の隙間を小さい石で埋めていく「野面積」というものだが、これはこれで風情がある。あまりに冷徹にきっちりやるより、人為的な匂いがしないのが逆にいいのだ。人工物にランダム・非対称といった自然を入れる感覚とでも言おうか。コンセプトはアントニオ・ガウディと同じかな。ちょっと違うか。
セントロの家は、白壁に茶色屋根。コントラストが映える。
PM6時前。高山病予防のためには初日にあまり動き回らない方がいいらしい。
宿に戻ると、オーナーのオバちゃんが、マチュピチュ行きのチケットを、明日の朝3時に駅に買いにいってくれるとのこと。今はとても混雑している時期なので、明日取れる確率は60%、だけど明後日なら100%行けるわ、と言う。僕は礼を言う。明後日12月30日が僕のクスコ最終日だ。12月31日に、僕は飛行機でリマに戻り、リマから日本への帰途に就く。明日か明後日に何としても、這ってでもマチュピチュへ行かねば、東京からクスコまで来た甲斐がない。だが、まだチケットが取れるまでは油断は出来ない。這ってでも行くにはどうしたらいいかを考えなくちゃならないかもしれない。オリャンタイタンボまでバスで行くとか、マチュピチュ遺跡の最寄村、マチュピチュ村(旧アグアスカリエンテス)で1泊するとか。
そういえば、さっき街でシティツアーの客引きの女性に話を聞いたけれど、マチュピチュの1日ツアーは195ドルだったが、聖なる谷+マチュピチュの2泊ツアーが何と165ドルの格安だった。これは魅力的だが、僕にはいかんせん時間がない。もっと時間があれば・・・。
僕は明日の朝マチュピチュに行けることを想定し、早めに寝床に就く。明日行けるとすると、バックパッカーは午前6:50発なので、宿を6:20に出発する。
クスコは涼しい。夜は寒いくらい。ちゃんと着て寝なければ。この旅の最後になってようやく長袖シャツの出番。寒いから蚊もいなさそう。シャワーを浴びる。僕がエクアドルの始めのホームステイ先と同じ、電熱式のシャワーだ。このタイプの欠点は、湯量を多くすると温くなってしまうということだ。熱いお湯にするには、水量を少なくしなくちゃならない。湯量と湯温が両立しないのだ。
それでも少な目のお湯でずっと浴びる。気持ちいい。昨日はずっとバスに乗ってたので当然浴びてない。クスコはクエンカよりも当然寒い。今は夏の季節なのだが、3399mの冷気は揺るぎない清冽さを持っている。
ベッドの布団は、さすがに分厚い。リマでもナスカでもサンティアゴでもイースター島でも布団はペラペラだった。今までとは全く違った重量感だ。アンデスの山の上。
12月29日月曜日。今日マチュピチュに行ける場合に備え、朝5:15に起きる。しかし、フロントのソファで寝ていた、まだ眠そうなホテルのニーちゃんが僕に告げる。宿のオバちゃんがチケットを取りに駅に並んだけれど、取れなかった。だけど明日30日の切符は取れたから、とのこと。僕は明日のチケットが取れたことを喜んだ。(後で分かったことだが、クスコ発の列車は取れず、途中のオリャンタイタンボまでバスで行き、そこから列車に乗るパターンで行くことになる)
こうとなればもう一眠りした後、今日はクスコの街を回ることにする。
7時過ぎに朝食。ここは朝食付き。パンとオレンジジュースとコーヒー。
今日のクスコは曇り。
まずはセントロを歩き回る。1日経ったが、高山病は僕の身体に全く姿を現さない。
クスコのセントロは、とても趣がある。古めかしい。まずカテドラルからして、リマとは大違いだ。巨大で古い。リマでは、歴史の重層感が感じられず、コロニアルな建物もどこかこじゃれた新しさを醸し出していたが、ここクスコは一目で歴史を感じることが出来る。文字通り古い。古い感じがよく出ている。道もデコボコの石畳だし、教会群はほとんどが経てきた時間を感じさせる。街自体が、使い込まれた革製品のように、いい意味での色褪せと艶が表現されている。
アルパカ・ア・ラ・プランチャ(アルパカの焼肉)
中央市場の外で、雑踏の真ん中でチンポを出して小便をしている浮浪者がいる。そして、市場の中で大声でけんかする女性二人。取っ組み合いになったので、近くにいた人々が慌てて止めに入る。
昼飯は、昨日も食べたレストランで、アルパカの焼肉。ここまで来てこれを賞味しないわけにはいかない。ラ・パス(ボリビア)ではリャマを食べたが、アルパカの方が若干柔らかいか。ちょっと硬い豚肉というところ。美味い。
マッサージの呼び込みのネーちゃんやオバちゃんが多い。彼女らは「マッサージ」を連呼する。ここはタイかよ!それとも日本か!?「マッサージどう?本番もできるよ」と日本の歓楽街で男を誘う、中国人のおネーちゃんたちを思い浮かべる。
レストランは、ピザ屋が多い。やだやだ。なぜかメキシコ料理も多い。イスラエル料理なんかもある。様々な国から観光客を集めるから、需要があるのだろう。地元の安食堂というのがなかなかなく、ほとんどが観光客向けの、たいした内容でもないのに高い金を取るレストランである。
午後2時からのシティーツアーに参加する。このツアーは、大型バスでクスコとその近郊の観光地を巡る。
ツアー客の顔ぶれは多彩だ。まずペルー人。ここクスコはペルーきっての観光地なので、ペルー全土から観光客が押しかけて来るのだろう。それから、アルゼンチン、中南米各国から、欧米からの客。中国人と韓国人はいない。僕以外に一人の日本人の女の子がいた。彼女も一人旅だそう。顔色が悪かったが、高山病ではないとのこと。高山病の薬を多量に飲んでいるらしい。
ガイドのベンハミン(英語名ベンジャミン)は、40代男で、スペイン語と英語ですべての説明をする。
このツアーではカテドラルは見ないとのことで、いきなり僕は騙された。ツアーの呼び込みの女性は、「カテドラルに行く」と明言していたのに。僕はこのツアーでカテドラルに行くから、今日はカテドラルに行かずに我慢していたのだ。チクショー。
ピスコ・サワー
(ブドウの蒸留酒+卵白+レモンのカクテル)
まずツアーはコリカンチャこと太陽の神殿へ。インカ帝国時代。ここには金の祭壇があり、壁には幅20cm以上の金の帯がまかれ、広場には金の泉に金の石、金のとうもろこし、金のリャマ。この太陽の神殿は、途方もなく大量の金で飾られていたのである。
侵略してきた強欲スペイン人たちが、これを見逃すはずがない。彼らはよだれを垂らしながらすべての金を奪った。それに飽き足らず、この神殿を、土台を除いてすべて破壊し、カトリックの教会、サント・ドミンゴ教会を建てた。その後のクスコの大地震の際、後からスペイン人が作った教会は無残に倒壊したが、インカ人が作った土台の石組みは、ひずみ一つ起こさなかった、というのは、インカの石組み技術、建築技術の高さを示す、あまりにも有名な話だ。
サクサイワマンは、クスコ郊外にあるインカの要塞跡である。とてつもなく巨大な石を積み上げてある。”石の魔術師”、インカ人の技である。日本人の団体観光客が多い。日本語で説明する外国人添乗員。
ケンコー、プカ・プカラ、タンボ・マチャイ。これらはインカ時代の遺跡で、それぞれ祭礼場、要塞、泉である。クスコからさらに山を登ってきたところにこれらのインカの遺跡が点在する。山は、どこでも僕らの目の前にある。
みっちり6時半までかけて回る。最後のプカ・プカラでは、標高3500mのインカの谷に、寒風吹きすさぶ。寒くてかなわなかった。
クスコに戻る。夜のクスコも寒い。
明日のマチュピチュ行きに備え、早めに眠る。
(続く)
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