チリ&ペルー旅行 実況中継
(8)奇跡の空中都市、マチュピチュ
雲、山、街 (クスコ⇒オリャンタイタンボ)
オリャンタイタンボから電車に乗る
ウルバンバ川に沿って電車は走る
観光写真的観光写真 (マチュピチュ)
段々畑
マチュピチュに雲が流れる
風に立つライオンならぬ雲に立つリャマ
クスコの街並み。茶色い屋根が続く
まったく陽気な男だ、アレックス
夕陽モアイ
12月30日火曜日。ハイライトは最後の最後にやって来る。今日はマチュピチュへの長い一日。とんでもない強行軍になる。
朝5:20起床。支度を済ませ5:50に朝食。6:20にオバちゃんとレゴシホ広場横のバスの発着場へ歩いてゆく。やっと明るくなったばかりの外は、雲が重く垂れ込めている。
バスは、中小型。席が全部埋まるまでダラダラと待っている。欧米の白人野郎どもが次から次へと乗り込んでくる。若者、年配者、欧米人ばかりだ。
AM7時前にバスは出発。オリャンタイタンボまで1時間40分。途中バスはアンデスの山々を縫っていく。宿のオバちゃんに、バスの左の席に座りなさい、と言われた通りに、僕は左の車窓から、雄大な景色を満喫する。山々の間に、うねるような緑の丘が続く。斜面には時々茶色のレンガ造りの家がポツンと建っている。
雲がすぐ眼前を流れ、遠くでは、幾十にも重なって地平線をつぶすように低く押さえ込む。山の斜面では、巨大な綿飴を撒き散らしたように山肌を飲み込んでいる。眼下に街が広がる。その町の直上にも雲は迫っている。
途中からバスはウルバンバ川に沿って走る。そしてマチュピチュへ向かう電車の線路も並行して走っている。天気は回復した。
バスはオリャンタイタンボに到着。ここは、”インカの聖なる谷”のほぼ中心に位置し、インカ時代の宿とも要塞跡とも言われている。インカ帝国の首都、クスコを中心に、その周辺、6000m級の山々に囲まれた地域が”聖なる谷”である。ここが、インカ民族が生活を営んできた、インカの中枢である。
オリャンタイタンボ発の電車は、バックパッカーと呼ばれる二等列車。マチュピチュ行きの列車には3種類あり、「アンデスのオリエントエクスプレス」という趣の超豪華列車のハイラムビンガムトレイン(クスコから往復588ドル)、その次のクラスがビスタドーム(同142ドル)、そしてバックパッカーが一番安価な列車で、クスコからだと往復100ドル程度、オリャンタイタンボからだと60〜80ドル程度である。
バックパッカーは、クスコから来た電車に、さらに数両の客車を増結して出発した。午前9時過ぎ。線路につかず離れず寄り添うようにその豊富な水量を運ぶウルバンバ川を見ながら、列車は走る。途中、いくつかのトンネルに入る。車内には照明がなく、トンネルにもないので、トンネルに入ると完全な暗闇となる。真昼の暗闇。
午前10:50頃、マチュピチュ駅到着。ここは以前アグアスカリエンテスという駅であり、村であった。
鉄道駅の小さなキオスクでサンドイッチとジュースを買って、近くのテーブルで簡単な昼飯を済ませる。マチュピチュでは飲食禁止、近くにレストランもないので、事前に腹ごしらえだ。列車の乗客は、すべてもう行ってしまった。駅のトイレでタダのトイレを済ませる。中南米では、公衆トイレに入るには金を取られる。ペルーでは50センティモ程度(15円程度)。タダのトイレはうれしい。しかもこの駅のトイレは、ペルーにしては清潔だ。普通の有料トイレはこれより数段汚い。得した気分だ。
駅からしばらく行くとマチュピチュ村(旧アグアスカリエンテス)があり、そこからバスに乗って、マチュピチュの発見者の名を冠した、ハイラム・ビンガムロードというつづら折れの坂道を30分登り、山の頂上にマチュピチュがある。
マチュピチュ行きのバスは頻繁に発着している。ここからマチュピチュまで登る人を運び、マチュピチュから降りる人を乗せて村に戻ってくる。引っ切りなしにピストン輸送している。僕もバスに乗り込む。
バスは細い山道を左右カーブを繰り返しながら登る。途中時々下りの車とすれ違う。道が狭いので結構ビビる。深い森の山である。片側は急斜面。乗ってきた電車と増水したウルバンバ川の濁流がだんだん小さくなっていく。
昼12時前、マチュピチュの入り口に着く。そこから入場し、マチュピチュを歩き始めた。
入り口を入った僕は、うっそうとした木々の間の山道をしばらく登る。すると、道は突然開け、奇跡の空中都市、マチュピチュが、よくテレビとか本で誰もが見たことのあるアングルで姿を現す。月並みな表現だが、すごいところだ。普通じゃない。こんな高山に、自然のど真ん中、何もないところに、しかもわずかな面積しかない山の尾根に、こんな石造の街を造るとは。インカ恐るべし。マチュピチュとは何か。マチュピチュは、インカ帝国の9代皇帝パチャクティの離宮という説が有力である。しかもインカの建造物のように見えながら、少なくとももっとも古い部分はインカ以前から存在していたと考えられている。謎が多い廃墟となった空中都市。
地球上に存在する他の人工物とは、何というか、想像を超えるか否か、という違いがある。全く想像力を超えている。これをここになぜ造らなければならなかったのか。想像を超えた巨大さでは、例えばエジプトのギザのピラミッドは恐るべきものだが、ピラミッドは生きていない。ここマチュピチュは、人が営む場所である。生活であり祭事であり作物栽培であり、人はここで生活していたのだ。今ではその痕跡を嗅ぎつけることは至難の業だが、人がかつて生活していたという、その有機性というか、生活感がピラミッドとは本質的に違う。
マチュピチュ(=”老いた尾根”という意味)は、インカ帝国の滅亡から400年近くを経て、1911年、アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見された、”失われた都市”である。スペイン軍によりほとんどのインカの都市が征服され、徹底的に破壊されたが、ここはスペイン人に見つかることなく、何百年もの間無人で山々の峰の間にひっそりと存在してきた。マチュピチュの築かれた尾根は、標高は2400mほどながらも、周りにはアンデスの峰峰がその存在を隠すようにして屹立している。さらに険しい山の急斜面がこの場所へのアクセスを制限する。ハイラム・ビンガムは、急斜面をよじ登ってきて、この無人となった驚異的な遺跡を発見した。
現在でも、建造年代、どうやって何のためにこの石造都市を建設したのか、等解明されない謎が多い。
空は一気に雲に覆われる。雨が降り始めた。僕はウィンドブレーカーのフードをかぶり、カメラとビデオが濡れないように気をつける。今まであまり気にかけなかったが、これらの機器が水に弱いことは身にしみて分かっている。イースター島の二の舞はごめんだ。
マチュピチュは、一つの独立した小さな要塞都市である。住居があり、神殿があり、陵墓があり、広場があり、段々畑がある。建物には、インカ人特有の石組み技術を見ることが出来る。建物はそっくり残されているが、こんな山の中、というか山の上で、インカの人々が生活していたことは、とても想像できないことである。
天気は山の上らしく、雨が降ったり止んだりと小刻みに変わる。霧が山の斜面を這い上がってきて、ほとんど視界がなくなったかと思うと、しばらくするとあっという間に去ってゆく。だが、この日は日差しが戻ることはなかった。雨に煙りがちなマチュピチュの空中都市を、丹念に歩く。
建物が建つ尾根の周り、山の急斜面に造った段々畑が緑の階段を形成している。ほとんど崖を削って作ったようなものもある。そして、急斜面の段々畑は、面積がとても小さく、とにかく小さな面積でもいいから作物を栽培する土地を確保する、という切実な思いが見て取れる。
リャマたちは、いまでもこのマチュピチュで草を食んでいる。その体のしなやかで美しい曲線は、マチュピチュの直線的な廃墟に、アクセントを与えている。
マチュピチュ写真集
PM5時前。マチュピチュが閉まる直前に、僕は山を降りた。マチュピチュは毎日朝6時から夕方5時まで開いている。クスコから日帰りで来る人も多く、そういう人はマチュピチュに昼前に着いて、夕方帰ることになるので、滞在時間はせいぜい4,5時間である。だけど、4時間もあればマチュピチュの街を一回りできるので、僕は満足した。
基本的にこれで今回の旅は実質的に終わりだ。最後の最後に訪れたマチュピチュはやはり天空の別世界だった。あまりにもメディアで紹介されすぎ、日本人が行きたい世界遺産ナンバーワンとなるくらいにテレビでイメージが氾濫しているので、正直その先入観による既視感でそれほど感動が沸いてこないんじゃないかと思っていたが、やはり実物を実際に自分の目で見るのとは違った。
マチュピチュ村では雨がまた降り始める。レストランは無数にある。しかしどれも観光客向けのこじゃれたスカしたものだ。ピザ屋も多い。アルマス広場から細い坂道を登りながら、延々と続く食堂通りで、僕はペルー料理の食べれそうな食堂を探す。どのレストランも従業員が店先で客の呼び込みをしている。
チチャロン・デ・セルド(豚の焼肉)の豪華ワンプレート
坂道を大分上ったところ、僕はそのうちの一軒で、誰も客がいないレストランで、店の主人と話す。
「チチャロン(焼肉)を食べたいんだけど、ある?」
「あるよ、28ソル(9ドル強)だ。」
「高いよ、安くしてよ。」
主人は考えた末、22ソル(7ドル強)に下げると言ってくれた。レストランで価格交渉するのは珍しいが(笑)、店の主人も、PM6時に誰も客が入らないので必死だったんだろう。高かったが、主人の人のよさに僕は食べることにする。
チチャロンは、骨付き豚肉の焼肉である。揚げたポテト、マイス(大粒のとうもろこし。エクアドルで言うモテ)、米、野菜が付け合せの豪華ワンプレートで、満足。肉はボリュームがあり、しょっぱいところはいかにもアンデスらしい味だ。満足。そしてポテトとマイスが美味い!エクアドルに戻った気分だ。そう、しょっぱい肉と、ほとんど味がついていない、それでいてずっしりと実が詰まった、瑞々しい大粒とうもろこしとの絶妙のコンビネーションこそ、僕がエクアドルで慣れ親しんだものなのだ。これでポテトにサルサ・デ・アヒ(唐辛子の辛いソース)をかけたら、エクアドルそのものじゃないか。客は誰もいなかったけど、美味かった。店内には、なぜかアメリカントップ40のMTVがテレビで流れている。
夕食を食べた後僕はお土産屋を冷やかしにかかる。何かお土産を買おう。ナスカの地上絵の怪しいコースター。マチュピチュの絵葉書。
マチュピチュの夜も寒い。雨だからだろうか。これから1000mも標高の高いクスコに帰ろうというのに、ここですでに息が白い。4枚着てきてよかった。
帰りの列車は、21:20マチュピチュ発のバックパッカー。今日最後の便だ。駅の係員は、この列車にはペルー人しか乗れないはずだが、と言っていたが、待合室には欧米人がわんさかいる。みんな僕と同じように普通の時間の切符が取れなかったと見える。
列車に乗ったら、まだ通電されていないらしく、真っ暗。席番号が見えないので、自分の席がどこだか分からない。やっとのことで見つけ出し座る。行きと同じく、2時間弱でオリャンタイタンボに到着。LUCYという看板を持っている添乗員についてバスまで歩く。大型のバスは満席。欧米人多い。
雨の中、アンデス山中をバスは走る。出発する際、運転手のおじさんが胸で十字を切る。おいおい、どういうこと?「無事故でクスコに帰れますように」って祈りは分かるんだけれど、まさか運を天に任せなきゃならないくらい飛ばすんじゃないだろうな?こんな夜道を?
僕の席は一番前だったので、走る道がいかに暗いかがよく分かる。果たして、街灯のない舗装道路を、バスは猛スピードで突き抜ける。暗いので、このスピードでもし何かが急にバスの前に飛び出してきたら、絶対に避けきれずに跳ね飛ばすに違いない。
だが、年配の運ちゃんの運転技術は確かだった。スピードを緩めるべきところはちゃんと緩めながら、バスは一路クスコへ急ぐ。
午前1時。ついにバスはクスコに到着した。夜中のクスコに雨は降りしきっている。朝と同じレゴシホ広場で、乗客たちは自分たちの宿に三々五々戻っていく。
宿に着くが夜中なので扉が閉まっている。僕は何度か扉を叩く。すると、10mくらい離れた勝手口のようなところを宿のニーちゃんが開けて僕を呼ぶ。「こっちだよ」
ホテルに入り、ニーちゃんに軽く今日のマチュピチュ報告をする。彼はいつものようにフロントのソファでもう寝ていたようだが、僕のノックの音で起きてくれたのだ。
おやすみを言って部屋に戻る。シャワーを浴び、寝たのはAM2時過ぎ。朝5時から夜中2時までの長い長い一日が終わる。肉体的疲労は相当だったが、マチュピチュのおかげで精神的高揚感がそれをいくぶん和らげてくれる。
これでマチュピチュも無事消化し、旅はほぼ完結に近い。あとは、明日クスコからリマへ飛行機が飛ぶか。それだけが最後に残った心配事となる。何しろクスコ発着の飛行機は、日中しか飛んでないうえ、悪天候によって発着が遅れたりキャンセルされることがとても多いらしいのだ。今は雨が降っているし、もし明日大雨で飛行機が飛ばなかったら、それは僕が日本に予定通りに帰れないことを意味する。ここからバスでリマに帰ろうとしたって、21時間〜26時間もかかる。リマからの飛行機に間に合わないのだ。そのことを話すと、宿のオバちゃんは、Ojala!(「飛びますように」)と言う。僕の強運が再び試される。
僕は、照る照る坊主の気持ちになりつつも、すぐに眠りに落ちる。
12月31日水曜日、大晦日。朝7時に起き、眠いながらも朝食後外へ。坂道を登ってサンクリストバル教会へ行き、クスコの街並みを一望する。二頭のリャマが、教会の前の、タイルとタイルの間から伸びている雑草をもさもさと食べている。彼らは誰かの家畜なのだろうか。放し飼い?
クスコの家の屋根は茶色である。上から見ると、隙間なく茶色屋根がどこまでも連なる。
アルマス広場に戻ると、なぜかカテドラルの正面扉が開いており、金を払わずに入れた。なんか知らんけどラッキー。ここの祭壇は、ポトシ(ボリビア)の銀300トンを使っているという。スペイン人の盗賊ぶりがここでもまた垣間見える。
また、ここに描かれた『最後の晩餐』の絵の中、メインの食べ物がクイになっている。アンデスらしい。
このカテドラルの鐘は、南米最大で、その音は40km先まで届くという。
アルマス広場の近くの露店で、お土産にチェ・ゲバラのタバコを買う。アルマス広場では、子供たちが小さな木製の箱でタバコを売り歩いているのだが、彼らの一押しの商品はこのゲバラタバコである。彼らのうちの一人は、このタバコは日本人に人気だとも言っていた。
9時過ぎにホテルに戻り、タクシーでクスコのベラスコ・アステテ空港へ。今日は雲が多いながらも時折日が差す穏やかな陽気だ。この分なら飛行機は問題なく飛びそうだ。
飛行機は、11:10、時間通りにリマに向けて飛び立った。1時間のフライト。バスで21時間以上かかるところを、わずか1時間。アンデスの山は険しいのだ。陸路は厳しい。空の道であれば、地表の凹凸は関係ない。
昼12:30リマ着。よっしゃあぁぁぁぁーーー。これで予定通り旅を終えられそうだ。
空港に荷物を預け(1日5ドル)、コンビに乗ってセントロへ。今日の夜中、日本へ戻るフライトまでリマで時間をつぶす。
ペルー名物、セビッチェ・ミクスト
昼食は大衆食堂でセット昼食。前菜セビッチェ、メインを魚フライ。ペルー式セビッチェは、汁はなく、貝、魚、海草、玉ねぎを辛めに和えたマリネ風の料理である。美味い。ナスカのタクシー運転手、ホルヘが言っていた。ペルーといえば、セビッチェ、チチャロン、ピスコ(ブドウの蒸留酒)だ、海沿いの街ならどこでもセビッチェは美味い。
僕はその言葉通りリマでセビッチェを食す。
食後にタバコを吹かしながら日記を書く。海に近いリマに下りてきて、ライターもボールペンも復活した。
今日は大晦日で祝日扱いだそうで、バス料金は1.5倍。郵便局も閉まっている。
ミクロ(中型バス)で新市街であるミラ・フローレス地区へ。セントロから30分くらいかかる。旧市街と新市街がこんなに離れている街も少ない。街自体がかなりデカい。
ミクロが10台くらい平気でつながっている。こんな多くのバスが同じ道を走る意味があるのだろうか。目的地は全部違うんだろうが、それにしても、いくらなんでも。普通車よりバスの方が多いのではないかと思わせる。
リマには巨大なマックやKFCがある。日が暮れる。ネットカフェで19:40〜20:40まで1時間、ネットを見たりメールを出したりする。日本のニュース。日本ではすでに1月1日になっている。ここリマでは、あと4時間ほどで新しい年が明ける。
コンビに乗って空港へ。道は大渋滞。大晦日の夜だからか。21:45空港着。デルタ航空のチェックインカウンターは、絶望的な長蛇の列。まだフライトまで3時間半もあるというのに。デルタだけでなく、ユナイテッドやその他の航空会社のカウンターは、どこも大混雑だ。
出国審査も同様に長蛇の列。入国の時もそうだった。審査手続きの処理能力の低さには閉口する。
空港のお土産屋で買い物をしているときに、年が変わる。店の店員から空港スタッフまで、空港従業員が大歓声を上げて新年を祝う。そして誰彼構わず抱き合って喜ぶ。僕は、石のように輝きを失った冷ややかな目でその騒ぎを眺める。
リマ発アトランタ行きのデルタ航空機は1月1日の午前1:25発。満席。アトランタとリマは時差なし、6時間で7:40頃アトランタ着。
アトランタ発成田行きはAM9:45発。こちらも満席。乗客の日本人の大部分は、アメリカで年末を過ごしたのだろうか。それとも僕と同じく中南米に行っていたのか。
給油ポンプの調子が悪いとかで機内に乗り込んでから1時間近く待たされる。ポンプの交換だか修理だかをして、ようやく飛べる状態になる。ちょっと不安。本当に大丈夫か?
離陸した飛行機は水平飛行に入る。それにしてもデルタ航空機というのは最悪だ。シート前のポケットには映画や音楽のプログラムガイドが入っていないし、その他の冊子もボロボロ。しかも前の乗客のゴミがそのまま入っている。トレイには米粒がついている。掃除してんのか??絶対してネェだろ。ヒドい航空会社だ。これで安かったらいいけど別にそんなこともない。二度と乗りたくない。
心配された飛行機だったが、無事成田に到着。日本時間1月2日14:30頃。13h以上のフライトはきつい。
日本は正月。いつもよりちょっと帰国が早い気がするが、今年の年始休みは1月4日までだから2日帰国は妥当だろう。
いつものようにすべての予定を強引に消化し、無事に日本に戻ってきた。
3年ぶりの南米、チリもペルーも僕が行った場所には、全く危険な雰囲気はなかった。ペルーの方が貧しく、治安は悪目だろうけど、人や食べ物や物価や文化が、以前2年間住んだエクアドルを僕に思い出させ、とてもリラックスできた。ペルーの人々は、エクアドル人と通ずるところがあり、ゆるやかで、のんびりしていると言うか泰然自若というか、なるほど悪鬼のような強欲スペイン人どもにあっという間に征服されてしまったのも納得できる、穏やかな人たちだった。
これからもまだまだ一話完結型の旅は続く。
(おわり)
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