2012/7/29 (Sun.)
相馬野馬追(そうまのまおい)

警戒区域立ち入り禁止(福島県双葉郡浪江町) |

放射性物質を含んだ土砂がブルーシートにかけられて仮置きされている (福島県伊達郡川俣町) |

放射線量は高くても、花は咲く (福島県伊達郡川俣町) |

甲冑競馬 |

人で埋まった観覧席 |

身分と名前を書いた布をぶら下げる武士たち |

神旗争奪戦。色とりどりの旗指物をさした騎馬が、旗を取り合う |

相馬野馬追の騎馬武者たち |

今年の5月まで中央競馬で走っていたオッキオディガット。
JRAから野馬追への華麗なる転身 |
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3つの神社の神主や神子達が行列を作って神社に帰っていく |
一千余年の歴史を持つ相馬の戦国絵巻、相馬野馬追。ついにその現場を目撃する時がやってきた。
福島県南相馬市周辺で開催される相馬野馬追は、東北を代表する夏祭りである。もともとは、1千年以上前、相馬家の始祖とされる平将門が、下総地方(千葉)で野生の馬「野馬」を敵に見立てて追ったという軍事訓練が始まりだとされる。そして江戸時代、相馬で開かれていた野馬追は、野馬を追って捕まえて神馬として神前に奉納し、繁栄を祈願する「野馬懸(のまがけ)」という形に変わっていった。さらに、江戸時代が終焉して明治になると、主催者である藩が解体されてしまったため、地元の神社の行事として引き継がれた。明治時代には野馬が農耕馬等の実用馬として徴用されてしまったため、野馬を追うという行事ができなくなり、馬を追う代わりに各神社の神旗を争奪する、神旗争奪戦という形となった。さらに戦後、平和を象徴する祭典として開催することを条件に継続が許された野馬追に、馬事スポーツ的な「甲冑競馬」が内容として加わったのである。以上のように時代とともに徐々にその姿を変えてきた祭りであるが、時代が変わっても共通しているのは、今の世に武家の伝統を伝える行事だということであろう。野馬追期間中には、甲冑や陣羽織を着た武士達が、馬に乗り、様々な行事をこなす。武士が現代に再現される祭りなのである。
相馬野馬追は3日間の祭りであり、以下がその内容である。
1日目:出陣、本陣到着、宵乗競馬
2日目:野馬追本祭。お行列、甲冑競馬、神旗争奪戦というメインイベント
3日目:伝統の野馬懸。裸馬を追い、素手で捉えて神前に奉納する
昨年は震災の影響で縮小された規模で開催されたため、今年は2年ぶりの待ちに待った通常開催となる。直前の7月8日には、福島競馬場でPRイベントがあり、横山、蛯名、田辺の3名の関東トップジョッキーが甲冑姿でサラブレッドにまたがり、この野馬追をPRした。今年の野馬追は福島県復興のシンボルとしての役割もある。
僕はメインイベントの2日目に乗り込む予定でいた。午後の甲冑競馬や神旗争奪戦だけでなく、騎馬武者が隊列を組んで街を練り歩き、雲雀が原(ひばりがはら)祭場に向かう「お行列」から見るため、郡山を朝8時半に車で出発した。福島県の北東部沿岸に位置する南相馬まで、2時間もあれば着くはずだった。しかし、南相馬にたどり着くのは容易ではないことをすぐに思い知らされることになる。
まず、郡山から三春街道と呼ばれる国道288号で東進する。左折して国道399号に入る。しばらくして県道50号の交差点に出るのだが、ここを右折して最短距離で南相馬を急襲するつもりだった。ところが、県道50号線の東行き浪江方面は通行止め。そう、福島第1原発を中心とした福島県東部、大熊町、双葉町、浪江町やその周辺地域は、警戒区域として進入禁止である。仕方なく399号をさらに北上して国道144号を東進。しかし浪江町に入ってすぐに警察によるバリケードが張られ、完全に通行止めとなっていた。バリケード近くに警察車両が停まっていて、警官が立っている。僕が車を停めると警官が近づいてきた。
「この先は立ち入り禁止です」
「南相馬の野馬追に行きたいんですけど」
「のまおい?」
「祭りですよ、相馬野馬追。」(この警官、福島県民じゃねぇのか?野馬追を知らないとはどういうことだ?)
「南相馬ですか。それなら114号を戻って、県道12号なら大丈夫です」
「そうですか」
僕は警官に注意されそうになりながら、通行止めとなっているバリケードの写真を撮り、車をUターンさせて戻る。もう10時。出発して1時間半も経ってしまった。結局、114号を福島方面に上がり、大きく遠回りして行くしかないことを知る。この辺りは原発から北西方向、一番放射線量が高い地域である。
114号で川俣町に入る。田畑の中に家が点在しているが、人の気配がない。みんな避難してしまったのだろうか。誰もいない畑には、いたるところにブルーシートで覆った小山が点在している。除染のために、セシウムを含んだ表土を削って一時的に仮置きしているのだろう。どこにも持っていけないので、自分達のところで置いておくしかないのだ。
ようやくのことで県道12号に出、やっと東向きに走り始める。「川俣しゃも」の看板がむなしい。街の中心部、童話のような子供のモニュメントが建っていて、「コスキンの街」という表題がある。なんだろう?(注:後で調べてみたら、川俣町は、南米音楽のフォルクローレの音楽祭を毎年開いており、「コスキン」とは、アルゼンチン北西部の街の名で、ここで毎年開催されている音楽祭にあやかり名づけられたそうである)
飯館村に入る。放射線量が高い地域として震災後のニュースで有名になった村である。除染は進んだのだろうか。避難した人々がどれだけ戻ったのかは分からない。だが、県道12号沿いにはなんとなく人の気配はある。
最後の最後、いよいよ南相馬市原町区に入ろうというところで大渋滞。みんな野馬追を見に来た観光客の車である。大型バスも混じっている。
そりゃそうだ、南方面から車で来る場合、この道しかないので、全員がここに集中するのである。原発事故が原因とはいえ、ここまでの迂回を余儀なくされたうえにこの渋滞には、心底疲れ果ててしまった。
結局、原町にたどり着いたのは昼12時過ぎ。郡山から4時間近くかかった。野馬追のメイン会場となる雲雀が原(ひばりがはら)祭場地近くの駐車場はすでにどこも満車。やむなく、会場から遠く離れた駐車場まで車を走らせ、そこからシャトルバスに乗って会場に向かう。このバスは運行がお粗末で、いくつもの駐車場に寄って、乗客をその都度待っている。おかしいだろ、だってもうこの辺りの駐車場は満車なので、乗客なんているはずがないのだ。案の定、後続のバスは満車の駐車場など見向きもせずに祭場地に直行している。要するにこのバスの運転手がおかしかったのだ。こうしてバスは30分近くかかってようやく雲雀が原に到着。会場に向かうと、すでに馬が簡易の繋ぎ場にたくさんつながれていた。馬と糞の匂い。気分が高揚してくる。入場券を買っていよいよ雲雀が原祭場地に入る。すでに観客席は超満員、道沿いの撮影スポットも鈴なりの観客で落ち着ける場所を探すことすらままならない。そして頭上は真夏の太陽。今日はこの日差しを遮るもののない炎天下で、多くの人々が熱中症で倒れるに違いない。
すでに甲冑競馬が始まっていた。雲雀が原祭場は、広大な楕円形の一面の芝生の縁に、一周1200mのダートコースが配された、野馬追のために造られた場所である。相馬の人々にとっては、いわば聖地と言えよう。その祭場地を見渡す斜面いっぱいに観客席が設けられ、隙間のないほどの観光客が埋め尽くしている。真夏の太陽の下、無数の白いシャツに、無数のうちわがはたはたと揺れている。この日の観客は、4万人以上だったとのことだ。 今年の騎馬数は400騎と、例年の500騎に比べれば若干少ないらしいが、それでも祭場地内には色とりどりの馬装を施した馬たちが、甲冑姿の武士に操られうごめいている。
ここで繰り広げられる戦国絵巻、人馬一体の祭り。祭場地の入り口の近くにいると、続々と馬にまたがった騎馬武者が、威風堂々と会場に入っていく。祭りに参加している人たちは、みんな甲冑姿で、背中から自分の役職と名前を書いた布をぶら下げている。例えば、「軍者 佐藤なにがし」といった具合である。武士には階級があり、総大将を頂点に、奉行、軍師、軍者、組頭、下は一般騎馬まで、細かく身分分けされている。参加者は、みんな武士のある身分を背負って、武家社会の一員になり切る。今年は総大将が相馬市市長、野馬追執行委員会委員長が南相馬市の桜井市長。桜井氏は、原発事故直後の陣頭指揮から、Time誌が選ぶ、「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた人物である。事故直後は飯館村の菅野村長と同様頻繁にテレビに出ていたので、見たことがある人も多いだろう。
鎧兜姿の鞍上に目が釘付けになった後は、馬である。様々な馬具で飾られた馬たちが、目の前を次々と通り過ぎる。すごい。僕の目は馬に注がれる。いい馬が多い。筋肉質で、毛づやもよく、まるでサラブレッドだ。これは僕が予想していなかったことだが、相馬人たちのこれらの愛馬は、元競走馬も多いとのことである。馬を愛する相馬の人々の元で第2の人生が送れる元競走馬は、幸せである。よほど現役時代に活躍した馬でなければ、引退したサラブレッドの生きていける道は、養老牧場や乗馬クラブ等ごく限られている。ここ相馬がそれらサラブレッドの受け皿になっていることを知り、うれしくなった。馬を愛する人々が責任を持って馬を生かす。あるべき姿じゃないか。もう今は江戸時代までの武家社会と違って、馬は人間の日常生活の中には存在しない。日本の紛れもない伝統、馬とともに生きる武家文化を伝承する人たちが、死に行く運命の馬たちを引き受ける。何という華麗な一石二鳥であろうか。
法螺貝の音が響き渡り、次々と甲冑競馬のスタートが切られる。甲冑姿で腰に差した旗指物(自分の家や郷の紋や模様が入った旗。各家に代々伝わるもの)をはためかせながら、1200mのダートコースを馬が疾走する。前述した通り、この甲冑競馬は戦後に生まれたものだが、武士達の気概を今に感じることの出来る行事である。法螺貝が鳴り響き、スタート係が馬の整列状態を注意深く見極めながらスタートの合図を送る。走り出した騎馬は、一周1200mのダートコースを疾走する。競争中、拡声器でレースの状況が実況される。ちょっとギャグ交じりのユーモラスな実況。
しばらくこの場にいると、この祭りの壮大さがじわじわと実感されてくる。相馬の男達が武士になりきって馬を駆り、武士の時代を再現する。歴史を甦らす壮大な劇場。
相馬の人たちは、盆と正月と野馬追、なのだ。彼らの中では毎年7月になると巡ってくる、一年で最も重要な行事の一つ。野馬追のない1年は考えられない。子供の頃から、野馬追を見て育つ。それが自分の中に刷り込まれる。なくてはならないものになる。各地の祭りってのは大体そんなもので、その地域の人々のDNAと言っていい。僕は、相馬人はみんな馬に乗れるのではないかと、ほとほと感心した。馬とともに生きる。維持費は馬鹿にならないだろうに、彼らの生活の中には馬がいる。僕も馬を自由自在に操り、風を切って走ってみたい。きっと車を運転するのとは全く違う感覚に違いない。馬の仕草と気持ちが分かれば、馬券にも活用できるだろう(笑)。
甲冑競馬が終わり、神旗争奪戦が始まった。これは、3つの神社の神旗を打ち上げ花火で打ち上げ、下降してくる旗を騎馬武者たちが取り合う、というイベントだ。法螺貝に続き、耳をつんざく轟音とともに花火が打ち上がる。臆病な馬がよくパニックにならないものだと思うほどの騒音だ。そして花火とともに打ち上げられたご神旗が、頂点からゆっくりと降りてくる。数百騎の騎馬武者たちは、風を読んで着地点目指して馬を操る。素早く正確な馬術が求められる。そして旗が地上近くに下りてくると、武者達は手に持ったムチ(竹製か木製か)で旗を絡め取る。旗を取った武者は、観客席に設けられた羊腸の坂を馬もろとも駆け上がり、頂上で待つ総大将に報告し、褒美を授かることになる。この旗を取ることはすなわち、戦地で武勲を上げることに他ならず、武士の誉れである。目の色を変えて騎馬武者たちがこの旗を争奪するさまは、まさに戦国絵巻。計20発の花火で打ち上げられた計40本のご神旗が、繰り返し空から舞い降りる。
僕はそれまでグランドレベルで神旗争奪戦を見ていたが、途中から羊腸の坂の上、観客席の上の祭場地を見下ろす場所へ移動した。雲雀ヶ原祭場地を一望する。広い。暑い。
ここには神旗を取った騎馬が、次々と上がってきて、褒賞の記念品を手にしていく。目の前で野馬追に参加している馬たちをじっくりと観察したが、本当にいい馬が多い。毛ヅヤがよく、太ってもいない。少し鍛えれば競馬場で走れそうな馬体の持ち主が多い。元競走馬が多いのだろう。
目の前の馬が、僕の隣にいたオバちゃんグループに鼻面を向けた。とてもおとなしい馬だ。オバちゃんの一人が、恐る恐る馬の鼻面に手を差し出しながら、鞍上の武士に聞く。
「この馬はなんて名前ですか?」
「オッキオディガットってんだ。今年の5月くらいまで中央競馬で走ってた馬だよ」
ガーン!僕は横でこの会話を聞いていて、愕然とする。どうりで。いい馬なわけだ。オッキオディガットって、もちろん聞いたことのある名だ。名前が珍しいというだけでなく、何勝かして結構いいところまでいった馬だから覚えている。(※帰ってすぐ調べると、1600万下まで行った馬だった。20戦3勝。)
ここにいる400騎の馬たちが、ここに生を見つけて動き回っていることに、何とも言い表せない幸福感を感じた。
メインイベントである神旗争奪戦も終わると、人々は早々と家路へ向かう。誰もいなくなった観客席の上から、3つの神社の神輿行列が、羊腸の坂を降りてきて、自分達の神社へと帰っていく。神主が籠に乗っている。僕は他の観光客がみんな帰ってしまった後も、この無言の行列をずっと眺めていた。
こうして2日目の野馬追は終了した。日がやや傾き、騎馬がいなくなった雲雀ヶ原祭場地は、まさに宴のあと。つわものどもの夢のあと。
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2012/7/15 (Sun.)
蔵とラーメンの街、喜多方

裏磐梯の穀倉地帯、国道121号線沿いの田園風景(会津若松⇒喜多方) |

無名店の喜多方ラーメン |
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醸造蔵 |
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裏磐梯、喜多方へ出かけた。いつものように磐梯山を見ながら磐越道を走る。会津若松インターで降り、国道121号線を北上して喜多方へ。ここ裏磐梯は福島県の穀倉地帯。会津若松から喜多方を通って米沢に続く道は、越後から会津、米沢へと移封した上杉家ゆかりの道、会津街道である。
昼過ぎに出たので、喜多方に着いたのは3時前。目当ての有名ラーメン店「まこと食堂」は、閉店間際にもかかわらず、まだまだ外まで行列が出来ていた。僕は行列に並んでラーメンを食べるなどという愚鈍なことはしない。まこと食堂を諦め、車を市役所前の有料駐車場に入れ、街に無数にあるラーメン屋の一つに入った。実は、腹が減ってもう死にそうだったのだ。店に客はたったの一人。ま、もう3時だし、昼飯時は過ぎているのさ、と思いながら定番の喜多方ラーメンを頼む。美味い。普通の醤油ラーメンのようだが、味がある。スープか。行列に並ばなくたって、僕くらいの舌には、どんなラーメンでもイケるのさ。
腹ごしらえをした後、喜多方の街を歩く。7月中旬だというのに真夏の暑さである。観光客も多い。喜多方は、「蔵とラーメンの街」である。ラーメン屋は無数にあるが、行列のできる店はもちろんすべてではない。喜多方ラーメン発祥の「源来軒」、「まこと食堂」、朝ラー(※)発祥の「坂内食堂」、チェーン店「来夢」などが有名どころである。
そして、蔵が多く残っていることから、レトロな街並みがもう一つの見所だ。「レトロ横丁」という名で、昭和的な味わいを残す街角が中心部に通る。
「ふれあい通り」を歩くと、昭和レトロミュージアムが目に入る。駄菓子屋のような店内には、昭和的なものがずらりと並んでいる。おもちゃ、食料品、飲料、古きよき電化製品など。無料で入れて懐かしさを味わえる。昭和の今が再現され、畳に七輪、古めかしいテレビに家具。
ミュージアムのおばちゃんと会話する。
「どこから来られたんですか?」
「郡山からです。」
「来週、『喜多方レトロ横丁』ってイベントあるから、来週も来てね」
「へぇー、どんなことやるんですか?」
オバちゃんはチラシを僕にくれた。お化け屋敷とか、懐かしアニメ上映とか、昔ながらの縁日とか、レトロモーターショウとか、伝統大道芸とか、ベーゴマ、竹とんぼなど懐かしの遊びとか、実に楽しげだ。
裏の路地では神社で縁日をやっている。そして蔵の立ち並ぶ通りに出る。喜多方は市内だけで4000以上の蔵が残る、日本一蔵の多い街である。喜多方に蔵が多いのは、古くから交易地として商人の街として貯蔵用に建てられたこと、また上質な水と米を利用して酒、醤油、味噌の醸造が盛んだったことが理由である。
一口に蔵といっても、喜多方の蔵は酒蔵、座敷蔵、店蔵と多彩だ。漆喰の白壁に重厚な防火扉が特徴的だ。また、日本風の蔵のほかに、明治以降に造られたレンガ造りの蔵もある。明治37年(1904年)築の若喜商店が代表的なレンガ蔵で、国の有形文化財と近代化産業遺産に指定されている。
安勝寺という寺は、明治の大火で全焼した後、本堂が蔵造りで再建された。蔵風の寺。
さらには、銀行や郵便局、NTTまでが蔵風の建物で、街全体がこぞって蔵となっているのが面白い。
古い家や集合住宅も目立つ。
街を歩けば歩くほどラーメン屋が現れる。こんなにラーメン屋があって、それぞれの経営は成り立っているのだろうか?観光の街とはいえ、いくらなんでもこれは過当競争だろう。地元の人々も外のラーメン屋で頻繁に食べるのだろうか。
午後5時、大和川酒造北方風土館に足を運んだが、すでに閉まっていた。ここは超甘口の弥右衛門酒で知られる酒造元。創業は1790年。博物館になっており、酒蔵の見学や酒造りの工程を解説したパネルなどの展示があるとのことなので見たかったが万事休す。年季の入った建物群の写真だけ撮る。
入り口が赤レンガ造りの喜多方駅。おばあちゃんのところに遊びに来たのか、子供二人が電車に乗るのを、おばぁちゃんが見送っている。
駅から遠くの山を見通すと、大きな虹がかかっていた。
夕刻、レトロ通りに街灯が点る。レトロな街の夕暮れはこれまた味わい深い。昔が暮れていく。色あせたフィルム。暮れた時間帯が一番似合う。昭和風のど派手な映画看板が夕闇に包まれて周りの風景と溶け合ってくる。
夜7時半。市役所前の駐車場にはもはや係員さえいない。入るときに、「いつまで停めててもいいよー」とおじさんが言っていたっけ。まだ停まっているのは数台。夜の喜多方を後にした。闇に包まれ、夕暮れ時のレトロ感はすっかりなくなってしまった。
(※)喜多方では、朝にラーメンという習慣が発祥。坂内食堂では、朝7時から行列が出来るそうである。 |
2012/7/7 (Sat.)〜7/9 (Mon.)
ムロさんの結婚式@高岡

マッちゃんと明男さん |

披露宴 |
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2次会会場を後にするマッちゃん |

3次会会場。高岡大衆酒場。 |

真夜中の高岡の街を、マッちゃん捜索に向かう |

高岡古城公園 捜索中 |

マージャン後のカラ元気。もう朝6時を過ぎている。ママは朝まで付き合ってくれた。 |

朝の雀荘 |

高岡の路面電車 |

引き出物を持って去っていくマッちゃん |

氷見うどん |
エクアドルクエンカで同時期に青年海外協力隊員として働いたムロさんがこのたび結婚することになり、式に呼ばれたので彼の故郷、高岡へ参じた。彼はこのページではエクアドル時代の記事で時々登場するので、本ページの愛読者の方には知られているだろう。とにかく自分の信念を貫く、という男で、そのため周りの人間から煙たがられたり周りの人間と衝突したりすることもあるが、僕は彼の歯に衣着せぬ率直さには時々唸らされたものである。そしてその行動力・実行力は特筆すべき彼の特質であり、尊敬に値する部分である。
さて、7月7日土曜日、車に礼服と靴を積み込み、郡山から高岡へ出発した。東北自動車道から磐越道、新潟から北陸道。途中、大雨のため柏崎⇒柿崎間が通行止めとなっていたので、仕方なく一般道に下りる。案の定夕刻の国道8号は混雑している。25kmほどだが1時間くらいかかって再び柿崎から北陸道に乗る。能越道を通って高岡に着いたのはもう9時ごろ。ムロさんが取ってくれたアパホテルにチェックイン後、すでに飲んでいるというマッちゃんに電話をかける。ロビーで彼を待っていると、見たことのある顔が現れた。モロちゃんだ。彼と会うのはこれまた数年ぶり。彼は協力隊の僕の同期で、クエンカでは同じ職業訓練校で働いていた。帰国後は、マージャンを数回、そして彼をレベルダウン5のバンド練習に呼んで一緒に音を出したことが数回あったが、ここ数年は全く会っていなかった。久しぶりのモロちゃんの顔は、数年前に比べ、ややふっくらしていた。彼ももう37歳だ。挨拶を交わしているところへマッちゃん登場。彼もまた僕とモロちゃんと同じ職業訓練校で教えていたコンピュータ変態である。久々の再会。マッちゃんとも帰国後はマージャンを数回やったきりだ。彼は変わってない。相変わらず怪しげなヒゲ面である。
3人で近くの飲み屋に向かう。そこでさらに懐かしい顔が二つあった。今回の主役、ムロさんと、マッちゃんの同期のエクアドル隊員だった明男さんである。そして、初見となる、ムロさんの奥さんの愛さん。
ムロさんとは帰国後、まさにこの地高岡で会った。2007年8月、レベルダウン5のバンド合宿を富山、高岡で敢行し、なんとバンドメンバー揃ってムロさんちに泊まらせてもらったのだ。(その模様はこちら)あれからもう5年が経つのか・・・。
昔話に花が咲く。みんな歳を取った。協力隊から帰国してみんな6年〜7年も経過しているのだ。
11時前にムロさんと愛さんは明日の式のために帰っていった。残された4人でしばらく飲んだ後、マージャンしに行くことにする。飲み屋の店員さんに近くに雀荘がないかと尋ねると、なんとここの真上が雀荘だというではないか。しかも割引券までもらえた。ウソだろと店を出て上を見上げるとまさに雀荘。あまりにもおあつらえむきすぎて怖いくらいだ。
12時の雀荘は、客はなしだが営業はしていた。従業員と常連さんが1卓を囲んでいるのみ。久々のマージャン。午前2時過ぎ、1半チャンで終了。明男さんとマージャンするのは初めてだったが、マッちゃんとモロちゃんはいわば雀戦友なので、クエンカで打っていた頃の昔の雰囲気を思い出した。楽しい。
4人して歩いてアパホテルに戻る。明日は朝10時から挙式なので、9時半には会場に行かねばなるまい。だが幸いなことに、式場はホテルから通りを挟んだ斜め向かいにあり、徒歩30秒であるので、割と寝ていられる。4人それぞれの部屋で明日に備えて眠りにつく。
7月8日日曜日。高岡。晴れ。朝起きて礼服に着替え、ご祝儀を持って9時半にホテルを出る。歩いて30秒で式場に到着。受付をし、待合室で待つ。後で気づいたのだが、受付をしていたのは、僕らがバンド合宿で高岡に来たときに一緒にマージャンをやった表さんだった。ムロさんの高校時代の友達だ。
明男さんはすでに来ていたが、マッちゃんとモロちゃんの姿は見えない。待合室には、小さな液晶画面に、僕が作ったムロさんのファッションショーのビデオが流れている。すると、また懐かしい顔が現れた。池田篤である。協力隊で僕と同期、エクアドルはピーニャスという街で働いていた男だ。会うのは協力隊以来なので6年半ぶりか。奴は当時の面影がなくなるほど太っていた。特に顔が丸々としている。何でも資格を取って、今は火災報知機の設置・点検を生業としているらしい。さらには、同時期にクエンカで過ごした、テルさん。こちらは変わってない。羽織袴の純日本風。
式が始まる直前、列席者がもう式場に移動するって時に、マッちゃんとモロちゃんはノコノコと現れた。二人は並んでいる人々に白い目で見られながら受付をする。
式は教会でキリスト教式。その後外に出て記念撮影。そして一人ひとりビリヤードの玉のような錘がついた風船を渡される。中庭にあるプールにみんなで一斉に投げ入れると、着水した瞬間に水で紐が溶けるかなんかして錘がはずれ、風船が一斉に空に舞い上がるという仕掛けだ。幸せの色とりどりの風船が空に昇り詰めるのを、みんなで口を開けて見上げる。結婚式というおめでたい式にケチをつける気はないが、土に帰らないゴミを飛ばすという暴挙というか、無責任なアトラクションである。風船が飛んで行った後の結末を誰も考えていないとみえる。ゴミを飛ばしているだけじゃないか。
程なく11時、披露宴が始まった。同じテーブルに座ったのは明男さん、マッちゃん、モロちゃん、そしてムロさんの横浜バイト時代の明石さんと池田さん。こじゃれた料理が次から次へと出てきて、あっという間に腹いっぱいになる。給仕の女の子は、大学生のアルバイトだとのこと。素人感が緩くていい。
途中スクリーンでは、二人のここまでの半生が映像とともに振り返られる。その中にはエクアドル時代の僕やモロちゃんも登場していた。
午後2時頃、披露宴は無事終了。最後出口で、ムロさんの両親に、数年前の一宿一飯のお礼(いや2泊だったかな)を改めて伝えた。
2次会が始まる4時まで、ホテルに戻って一眠りする。
4時前に起きて炎天下の中2次会会場へ向かう。まだ昼間。会場のバーは貸切で、ムロさんの小中高校時代の友達が集まっていた。幹事をしていた表さんに挨拶し、5年前のお礼を言う。
午後6時、2次会終了。ようやく外は夕暮れ。マッちゃんはもう眠いといって帰ってしまった。確かに、彼は2次会の途中から机に突っ伏して寝ていた。飲み会で眠りこけるのは彼の特技である。2次会会場の外に出た彼は、およそ結婚式に参列した人間とは思えない荷物を抱えている。パックパックにテントと寝袋を背中に背負っているのだ。みんな奇異の目で彼を見つめる。さすが変態。今晩は高岡古城公園で野宿すると言って去っていった。
3次会はムロさんの高校時代の友達と、居酒屋で飲む。高岡人というのはなかなか独特だ。我が道を行くタイプの人間が多いように思える。それとも、ムロさんの友達がそうだというだけか。高岡には歴史があり、古い街並みも残っている。地方都市の文化が残っているところだ。首都圏のように、みんな東京のベッドタウンのようになって土地の独自性をすっかり失ってしまった場所とは違う。住んでいる人々も、伝統文化に育まれた独自の考え方を持っているのかもしれない。
ムロさんの友人はバラエティに富んでいて、魚の剥製職人、NHKのディレクター、ミュージシャン、医者など職業も様々。そして僕と同じ会社に表さんと安田さんが勤めていることが分かった。世間は狭い。
3次会の途中でムロさんと愛さんが合流。久々に会う友人も多かったようで、大いに盛り上がっていた。
4次会はスナック。今日は日曜日で高岡の日曜日はなかなか開いている店は少ないのだと言う。僕は今日の最後はマージャンと決めていた。3次会、4次会では「やりましょう」といっていた明石さんと池田さん(ムロさんのバイト時代の友達)は、4次会途中で僕がトイレに行っているスキにバックれた。一度約束はしたものの、本当にマージャンをやりたくなかったに違いない。
午前1時前、4次会もついにお開き。マージャンどうすっか、と思案していたところ、スナックのママ(30代後半)がマージャンしてもいい、と言ってくれたではないか。しかし、僕とモロちゃんしかいないので、あと一人足りない。池田篤はマージャンはできないと言う。あと一人。こうなれば、マッちゃんをテントから引きずり出してくるしかないだろう。
「いま公園で野宿している男がいるので、そいつを確保したらマージャンをやろう」とママに告げて、歩いて高岡古城公園に向かう。僕とモロちゃんと池田篤。高岡古城公園は、広大だ。真夜中、暗くひっそりとしている公園の中を、テントを探して歩き回る。マッちゃんの携帯に電話するが、応答する気配はない。水場が近い場所に野営しているはずだ、と3人してトイレの周りなどを重点的に捜索する。
途中、公園に住む浮浪者に遭遇したりしたが、30分くらい探し回った後、ついに見つけた。芝生の上にテントを張って中で眠りこけているマッちゃんを発見したのだ。僕らは奴を叩き起こし、これからマージャンするから、と言って有無を言わさずに撤営させた。そうこうしているうちにママは車で公園の近くまで来てくれた。スナックももうはけたのだ。いい人だ。マッちゃんは緩慢な動作でテントをたたみ、荷物をまとめた。
こうしてママの車で昨日行った雀荘へ向かった。雀荘前で池田篤と別れ、僕、マッちゃん、モロちゃん、ママ、4人で雀荘へ突入。ママはこの雀荘の店員と知り合いらしい。事前にまだ営業しているかを電話で確認してくれていたのだ。さすがスナックママ。
こうして2日連続のマージャン。朝からずっと酒を飲んでいるのでさすがに疲れていたが、それでも楽しい。朝6時過ぎまで楽しくも辛い時間は続いた。結局マッちゃんは眠りを叩き起こされたからか、大負け。
外に出るともう朝。ママに感謝して別れる。彼女は車で帰って行く。僕とモロちゃんはアパホテルへ。マッちゃんはこのまま金沢だかどこかにバスで向かう、とのこと。再会して、再び別れを告げる。クエンカで一緒に働いていた3人が、高岡で再会し、次はどこだろうか。
もうすでに7月9日月曜日。今日は有給で休みを取った。部屋で数時間眠る。11時にアパホテルをチェックアウト。近くのうどん屋で氷見うどんを食す。受付で麺をどんぶりに入れてもらい、トッピングの天ぷらや何かを自分で選んで、さらにスープ給湯器でスープを入れる。セルフサービス。麺に腰があって美味い。
高岡を観光していこうかと思ったが、徹マンの疲れでそれどころではない。今日は帰るだけにする。相変わらず真夏のような日差し。能越道、北陸道から新潟経由で郡山へ戻る。 |
2012/7/6 (Fri.)
酷暑一転冷涼
今週の前半は、恐ろしく暑かった。まだ7月始まったばかりだというのに、35℃近い気温。朝通勤の4号バイパス上の温度計は、8時40分にしてすでに32℃。しかし、週後半は急に涼しくなり、同じ時刻の温度が18℃。14℃も下がった。今年の夏は一体酷暑か、冷夏か。 |