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イベリア半島&北アフリカ旅行記
2007年12月〜2008年1月
(1)パリ経由バルセロナイン

2007年12月20日木曜日、朝5時半起床。わずか1時間しか寝ていない。車で成田へ。いつも停めているUSAパーキングまで1時間。これからイベリア半島と北アフリカを17日間旅行する。所持金はユーロ10万円分+日本円3万円のトータル13万円分。ヨーロッパということで金を余分に持っていく。ちなみに2007年年末現在、最近のユーロ高のおかげで、1ユーロ=165円ほどのレートである。

シャルル・ド・ゴール空港の広大な待合ロビー

雨のランブラス通り

ゲバラ展のポスターがかかるバルセロナの街角

サン・ジュセップ市場

レイアール広場

バルセロナ旧市街

街はクリスマスムード最高潮

コロンブスの塔

ポルト・ベイ

コロンブスの塔から見たランブラス通りとバルセロナ市街

オリンピック・スタジアム

教会のような威容のカタルーニャ美術館

カタルーニャ美術館からスペイン広場を見下ろす


午前9:30、エール・フランス機エアバス330成田発パリ行きは、定刻どおり離陸。機内には空席が目立つ。年末年始とはいえさすがに20日に脱出する人は少ないか。
離陸時には僕はすでに熟睡していた。パリまでの飛行時間およそ12時間のうち、始めの10時間はほとんど寝ていた。機内食はきちきちと頂いたけれども。
このエアバス機の座席は前との間は割りとゆったりしていて悪くない。だが、各自の座席にあるパーソナルエンターテインメントシステムは、インターフェイスが扱いにくく、映画の種類も少なくて使えない。エミレーツの素晴らしさが改めて実感される。

パリには12月20日14時着。昼間で気温がわずか3℃。東京よりもかなり寒い。シャルル・ド・ゴール空港ではタバコを吸える場所はない。外に出て吸うしかないのだが、寒い。服が足りない。
ヨーロッパ上陸は8年以上ぶり2度目のことである。僕にとって初のヨーロッパは1999年のゴールデンウィークだった。今回の旅前半の目的は、スペインとポルトガルである。ヨーロッパの国々には、いろいろな理由であまり行く気がしないが、僕が2年間住んだエクアドルを含む中南米諸国をかつて蹂躙していたスペインやポルトガルという国がどういうところなのか、この2国に対しては興味があった。旅の前に読んだ本は、司馬遼太郎の『南蛮のみち』(『街道を行く』シリーズ)。スペインバスク地方とポルトガルの紀行である。

シャルル・ド・ゴール空港はやたらとデカく、A〜Fまであるターミナル間の移動はバス。空港にはゴミをあさる浮浪者が多い。フランスの内情を象徴しているのだろう。外国人に対してフランスへの玄関となる国際空港で、こういう人々が締め出されずにいるものも、フランス人の考え方を表しているのだろう。日本の空港でゴミ箱をあさる浮浪者を見たことは僕はない。
フランス人は、基本的に英語をしゃべれない。しゃべらないのではなく、しゃべれない。これは以前8年前にも感じたことで、普通のそこらへんの道端にいる人たちは、英語をしゃべれない。普通空港で働いている人々は日本でも結構英語をしゃべれる人が多いけれど、ここパリのシャルル・ド・ゴールでは、荷物・身体検査の係官のオヤジや、カウンター内の係員で、それを必要としているにもかかわらず全然しゃべれない人が多い。よくそれでこの仕事が務まるなと思うのだが。日本の方がマシかもしれない。

パリで早くもトラブル発生。僕が乗ろうとしていた15:45発エールフランスのパリ発バルセロナ行きがキャンセルというではないか。だが幸いエールフランスのパリ−バルセロナ間というのは2時間に1便くらいの頻度で飛んでいるので、次の便の17:55は満席で乗れなかったものの、その次19:05に乗ることとなった。それでも3時間20分遅れである。今日中にバルセロナに着けるのは不幸中の幸いだが。
19:05出発予定が遅れて、19:30にパリを離陸。スペイン時間21:40にバルセロナ着。出発時0℃のパリから、この時間で12℃のバルセロナ。暖かい。10℃以上も違う。スペイン語の世界へ再びやって来た。エクアドルを離れてちょうど2年。
空港バスでカタルーニャ広場へ。一つ星ペンシオンのNOYAにチェックイン。トイレつきシングルで1泊25ユーロ(4000円強)。いきなり高い。

翌12月21日金曜日。朝8:30に目が覚める。天気が悪い。重く低い灰色の空からパラパラと雨が落ちてくる。バルセロナ旧市街中心部のメイン通り、ランブラス通りをカタルーニャ広場から海の方へ下る。並木道の大通りである。並木が冬枯れている。いわゆるヨーロッパ風の、四角い輪郭に四角い出窓が張り出した建物が延々と続く。スペインの植民地だったエクアドルの都市と同じ風景である。景色は雨でかすんでいるようでもあり、水に濡れて道も建物もしっとりと鮮やかさを増しているようにも見える。雨の好きな僕の気分が陽気にはならないのは、真冬の雨で陰鬱としているからだろう。
ランブラス通りは、朝の通勤通学か、学生風の若者、サラリーマン風の男女が地下鉄カタルーニャ駅の方へ僕と逆に歩いていく。ビデオカメラを回す僕に誰も関心はないようだ。僕は朝食のレストランを探した。さすがにバルセロナの目抜き通りだけあって結構レストランはあるのだが、どれもこれも目が飛び出るほど高い。パンに卵にコーヒーみたいな普通の朝食が平気で7ユーロ(約1155円)とかする。僕はいくつものレストランの前を、ドアに張り出されているメニューと価格をチェックしながら、自分の目を疑う。その値段が本当だと分かり、素通りせざるを得ない。スペインごときが、こんなに物価が高いのか。僕は初日から愕然とする。これじゃ一日いくらかかるか分かったもんじゃない。だが僕はすぐにバルセロナ市民の台所、サン・ジュセップ市場へ向かった。そう、長年の経験から、市場には屋台的安食堂が併設されていることが多く、そこでは美味しいものが安く食えると相場が決まっているのだ。
しかし、ここでも僕の期待ははかなく崩れ去った。巨大な屋内市場内に、確かに食堂はあった。だがどれもこれも外のレストランを市場の中に持ってきただけのような高さなのである。結局僕は、たくさんの客が朝から飯と一緒にビールやらワインやらを飲んでいるカウンターの店に座り、周りの人が食べているものを見渡し、Tripaという肉と野菜の煮込み的料理を頼んだ。これが結構辛くて美味かった。一緒に出されるパンと食べると最高の組み合わせ。それにカフェ・コン・レッチェ(=カフェ・オ・レ)。カウンター内で忙しげに料理や飲み物を作る、店長のオヤジや店員の若者が僕に話しかける。

朝飯、肉と野菜の煮込み。量は少ないが高い

「どこから?」
「ハポン(日本)。」
食べ終わって幸せな気分になったが、支払いをする段になって再び不幸せな気分にさせられる。会計は、〆て9ユーロ。約1485円。いきなり朝飯から1500円。これってインドだったら、一日三食として5日は食べられるよ。日本だって朝飯は500円くらいでしょ。日本円で考えるのが必ずしもこの国の実情とはならないけれども、スペインの人間が日本人の2倍も3倍もの価値を稼いでいるとはとても思えない。このユーロ高は、この旅、ヨーロッパ大陸を脱出して北アフリカに渡るまでの間、常に僕に苦悩させ続けることになる。

さて、気を取り直して市場内を歩き回る。子羊を売っているのがスペイン的か。市場の生鮮食料品の価格も、それほど安くはない。
その後、抑圧された低い空の下、バルセロナの旧市街・ゴシック地区を歩く。レイアール広場、カテドラル、王の広場。カテドラル周りの即席市場では、クリスマスグッズを売る店がずらりと軒を連ねている。スペインは、カトリックの総本山的中心国である。クリスマスに向けた盛り上がりぶりは、想像通りだ。
旧市街からランブラス通りを下って海へ。地中海だ。バルセロナは、スペイン東部、地中海沿いの街である。海沿いに建つのはコロンブスの塔。この塔に上がり、展望台からバルセロナ市街と地中海を眺める。スペインといえばコロンブス。スペイン国王の命を受けた彼の歴史的大航海のおかげで、中南米諸国はヨーロッパにより発見され、その後ヨーロッパ人の非慈悲的傍若無人によって悲惨な運命をたどることになる。そしてその禍根は、現在にまで脈々と続いている。一方でここスペインでは、彼の功績が、比類なき偉業として絶賛され、尊敬されているのである。
バルセロナ港の遊覧船が出ていると聞いていたが、チケットブースは閉まっている。冬は営業していないのだろうか。
その後海沿いのおしゃれな地区、ポルト・ベイへ。日本で言えば横浜か。海の上に張り出された板張りの通路、係留されたヨットの大群、海に面して建つマレマグナムという巨大でスカしたショッピングセンター。入ったが思った通りつまらないのでションベンをしてすぐ出てくる。風が強い。気温は東京並みかやや暖かい。コロンブスの塔の横の温度計は12℃を示している。

昼飯は、なるべく安そうな場末系レストランを探して入る。だがやはり高い。スペインの飯は、1ro Plato(前菜)+2do Plato(メイン)+飲み物から構成されている。エクアドルと変わらない。エクアドルに定着したスペイン文化の一つだろう。
前菜にスパゲティ、メインに肉を頼んで、飲み物付で7.4ユーロ(約1220円)。これでも僕が探した中で一番安いレストラン。本当に先が思いやられる。

フニクラというケーブルカーと地下鉄を乗り継いでモンジュイックの丘へ上がった。ミロ美術館横の道を上がっていくと、丘の頂上に1992年バルセロナオリンピックで使用されたオリンピックスタジアムがある。現在ではバルセロナのプロサッカーチーム、エスパニョールが本拠地として使用している。バルセロナのサッカーチームといえば、ロナウジーニョを擁するFCバルセロナが有名だが、その本拠地はカンプ・ノウ・スタジアムで、バルセロナ市西部にある。
オリンピックスタジアムからカタルーニャ美術館へ歩く。ここからのバルセロナ市街の展望は、モンマルトルからパリ市街を見下ろすようなもので、バルセロナの街がパノラマ状態で一望できる。また、スペイン広場までの一直線の道路が上から下へ豪快に走っているところは、ベトナムの統一会堂を彷彿とさせる。

広大な回廊のような、カタルーニャ広場からスペイン広場へ下る道を、ゆっくりと下る。途中回廊のど真ん中に巨大な噴水が幅いっぱいに広がる。
バルセロナのターミナル駅の一つ・サンツ駅で、明日のマドリード行き夜行列車のチケットを買う。

もうすっかり夜。真冬のスペインは日が短い。地下鉄で宿へ帰る。地下鉄のホームには、次の電車が来るまでのカウントダウン表示がある。これがなかなかいい。あと何分したら電車が来るかを示している。日本にもないサービスだ。だが、遅れることはないのだろうか?と大いに疑問を感じる。なぜなら、かつてスペインの植民地だったエクアドルに2年間住んだ際、エクアドル人の時間のルーズさには何度も閉口させられたからである。それは”南米時間”と呼ばれ(笑)、約束の時間に30分くらい遅れるのが当然の文化なのだ。そもそもそれは先住民インディヘナのおおらかさから来ているのか、それともスペイン人の習慣から来ているのか、よく分からないが、あれだけスペイン文化や習慣が浸透している国なので、僕は後者だと思ったのである。
だが、予想に反して、地下鉄はほぼ時間通りに動いていた。
地下鉄に乗っていて気付いたことが一つある。それは、バルセロナでは、第一言語がスペイン語ではなくカタルーニャ語である、ということだ。駅や車内での様々な表示が、一番上がカタルーニャ語、次がスペイン語、最後に英語となっているのである。そういえば、人々の会話がよく分からないことが今日度々あったけれど、彼らはカタルーニャ語を話していたのである。(もちろん、僕に対してはスペイン語を話すわけだが)
スペインは、国の中にいくつもの独立国があるといわれる多民族国家である。バルセロナを中心としたカタルーニャ地方、ビルバオを中心としたバスク地方、また北東部ガリシア地方では、スペイン語のほかにそれぞれの言語が公用語として話されている。この多民族状況下での国の統一は、その歴史とともに、スペインという国の成り立ちが非常に特異であることを象徴している。


翌12月22日土曜日。朝8時起床。今日はアントニ・ガウディの建築群を見に行く。そして夜、夜行列車でマドリードへ向かう。
ガウディは、カタルーニャが生んだ世界的建築家である。その建築物は、自然物のデザインを取り入れた独特なものである。ここバルセロナの街なかには、彼の建築物がいくつも点在する。グエル邸は改装工事中で見れなかったので、カタルーニャ広場から歩いてカサ・ミラ(ミラの家)、カサ・バトリョ(バトリョの家)を外から見(例えばカサ・ミラは入場料が16ユーロとバカ高。当然入らず。東京じゃあるまいし、何で入るだけで2000円以上も払わなあかんの?!)、地下鉄に乗ってハイライトのサグラダ・ファミリアへ。そしてグエル公園。いずれも独創的な建築物だ。周りを埋め尽くすスペイン風建物からはかけ離れ、街なかでひときわ異彩を放っている。いわゆる人工物のイメージからは程遠い、植物か昆虫のような建物だ。曲線の多用だけでなく、デザイン一つ一つが自然物である葉っぱや枝や貝殻や虫をモチーフとしている。大量生産はできない、手作業で作り込んだオリジナル感がある。彼の建築を見た後は、植物や動物や昆虫といった自然物の造形の美しさ、奇妙さ、独特さ、複雑さ、シンプルさ、等々に改めて気付かされる。冬枯れの雑木林の、葉っぱ一つない枝々が複雑な模様を描いて空に映えているところを見ると、人間が想像力をどこまで飛躍させられるだろうか、この枝の複雑さの中の美しさを創造できるのだろうか?といつも疑問に思う。「神が作りたもうた・・・」とはよく言ったものである。人間では到底考え及びもつかないような造形が、自然にはごく普通に存在する。

アントニ・ガウディ建築物写真集

夕方グエル公園を後にする。冷たい雨が降り始めた。雨宿りがてら喫茶店でコーヒーを飲む。スペインではブラックコーヒーのことをカフェ・ソロ(Cafe Solo)という。エクアドルではカフェ・ティント(Cafe Tinto)が普通だったので少し違う。
日は暮れて夜になり、バルセロナ旧市街に戻った。マドリードへの移動の前、バルセロナ最後の夜に行ったのは、ピカソ博物館。ピカソは、スペインが生んだ偉大な画家である。彼は南部マラガで生まれ、14歳でバルセロナに移り住み、青春時代をここで過ごした。美術館には、初期の作品から、キュービズムへ至る作品群が展示され、恥ずかしながらピカソのことをよく知らなかった僕は大いに衝撃を受けた。つまり、キュービズムはロックなのである。やはりオリジナル、新しい表現というのは素晴らしい。あまりに突拍子もないと誰にも理解されないままだが、キュービズム化する解体の方法論があるわけで、そこが新しい表現方法を編み出したピカソのすごいところなのだろう。
ところで話は変わるが、美術館で絵を見て回るとき、なぜか分からないけれど知らず知らずのうちに両手を後ろ手に組んでいる。いっぱしの美術愛好家を演出するために無意識にしてしまう、見栄の表れだろうか。

夜行列車エストレージャ号


美術館を出て、地下鉄に乗って宿へ戻る。乗換駅Urquiana駅で降りて1番を待つが、今まで不自然なくらい時間通りキチキチと走っていた地下鉄で、遅れが出ていた。いくら待っても来ないので、諦めて歩くことにした。
宿でバックパックをピックアップし、夜行電車が出る、バルセロナ最大のターミナル駅であるサンツ駅へ。夜行列車エストレージャ号は、定刻どおり午後10時20分、マドリードへ向けて出発した。


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