1.長崎、島原
DAY1

トルコライス、600円。 |

長崎駅前 |

平和公園 鐘のモニュメント |

平和祈念像 |

浦上天主堂 ⇔ 原爆により損傷した石造 |

山王神社の一本鳥居 |

被爆クスノキ |

寂しい長崎新地の中華街 ⇔ 長崎チャンポンと餃子 |
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龍馬のブーツ |
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宗福寺 第一峰門 ⇔ 大雄宝堂 |

長崎の市電 |

国宝、大浦天主堂 |

グラバー邸 ⇔ グラバーさん |

稲佐山展望台から見た長崎の夜景 |

島原鉄道(諫早→島原)、車窓の風景 |

島原駅 |

島原のアーケード |

鯉の泳ぐまち |

島原城 |

島原城天守閣から見た風景 (東)島原湾方向 ⇔ (西)雲仙の山々 |

平和祈念像の原型(西望記念館) |

武家屋敷通りの水路 |

島原名物・寒ざらし |
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7月16日(火) 長崎 晴れ・猛暑
朝5時に起き、5時45分に家を出、バックパックを担いで羽田行きの高速バス乗り場まで15分かけて歩く。6:15発羽田空港行きの空港バスは、時間通り7:15に羽田空港着、長崎行きの全日空便は8:10発、9:55長崎空港着。飛行機の窓から、大村湾に浮かぶ島と入り組んだ海岸線が見える。海の中に着陸する感じだ。実際、長崎空港は、大村市から出島のように突き出た人工島にある。長崎県が無数の島々で形成されていることを象徴するかのようだ。
長崎空港からリムジンバスで45分、11時前には長崎駅に到着。何ということだ。千葉市の自宅から長崎駅まで、わずか5時間ほどで着けてしまう世の中なのだ。
長崎駅はでかい。巨大な駅ビルの前、2階というか空中部分に、仙台のペデストリアンデッキのような広々とした歩道橋があり、下にはロータリー、道路、市電乗り場、バス乗り場がある。駅の規模からすればなかなか大きな街のようである。
腹が減ったのでまず飯。空港からのリムジンバスが到着した県営バスセンターには食堂が併設されていて、到着早々、いきなりのトルコライスだ。そう、長崎の県民食といえば、チャンポン・皿うどんと並んでこのトルコライス(らしい)。これはピラフ、デミグラス系ソースのかかったカツレツ、スパゲッティナポリタンに生野菜サラダが載ったワンプレート料理。なぜ長崎でこれが発祥し、なぜ「トルコ」なのかはよく知らない。昼前の誰もいない店内でトルコライス。安くて美味い。600円。
腹を満たした後、予約したホテルに行ってみる。長崎駅から歩いて5分ほど。入り口は開いていたものの、フロントには誰もいない。いくら呼んでも出てこない。カウンターには、「チェックインは16時です」の表示。まだチェックインは出来ないようだ。それにしても無用心だ。フロントの前にソファとテーブルがあるだけの小さなロビーで、盗まれるものは何もなさそうだが、いや、液晶テレビがある。盗まれないのかしら。長崎は悪人が少ないのか。
仕方なく僕は駅に戻り、コインロッカーに荷物を突っ込み、ついでにジーンズを短パンに履き替え、早速観光モードに入る。コインロッカーの奥は若干人目につかなくなっていたので、パンツ一丁になるのにそれほど抵抗はなかった(笑)。暑すぎるのだ。35℃猛暑日きてるよ、これは。すべてのものがギラギラと反射して輝いている。こんな中、長ズボンで活動するわけにはいかない。
さて長崎。そうここは一大観光地である。江戸時代から、歴史の表舞台となった街だ。特に幕末、外国との窓口として開かれていた長崎では、グラバーを始めとする外国人商人と坂本龍馬を始めとする維新メンバー達が、歴史の担い手となり活躍した。そして時代は下って太平洋戦争。この街は、世界でただ二つしかない、原子爆弾を落とされた街のうちの一つとなり、悲劇の記憶を刻み込む。
僕は今日の午後と明日で、長崎の街を見倒すことにする。ちなみに近くにはハウステンボスという割と名の通ったテーマパークがあるが、しがない独身一人旅の僕には関係ない。
今日は浦上地区、原爆関連の見所を回り、アメリカによって殺害された多くの長崎市民のために祈る。
まずは市電に乗って松山町へ。まさに爆心地に向かう。
今からおよそ68年前、1945年8月9日の午前11時2分、アメリカ軍はここ松山町にファットマンと呼ばれる原子爆弾を投下した。第一目標であった小倉の上空が曇っていたため、第二目標の長崎に切り替えたとのことである。この原爆により、1945年12月までに推定73884人もの人々が亡くなった。常日頃言っている通り、広島、長崎における、アメリカ軍の原爆投下による非戦闘市民の大虐殺は、ナチスによるユダヤ人虐殺とも並んで、人類史上最悪の犯罪の一つである、と僕は思っている。だが勝者の理論で、アメリカ大統領が裁かれることはなかった。
平和公園。「平和の泉」と呼ばれる噴水を過ぎ、広々とした広場の奥に、長崎出身の芸術家、北村西望氏の手による平和祈念像が鎮座している。
鐘のモニュメント前で、韓国人の若者観光客グループ(すべて男)が水を手向けている。被爆して亡くなった人たちは、被爆後、瀕死の状態で水を求めた。だからこの鐘の下には、水をお供えするようになっている。鐘といえば広島の平和祈念公園にも同じような鐘があったな。
韓国人の若者のうちの一人が僕に英語で声をかけてくる。
「すみません、写真を撮ってもらえませんか?」
「いいよ」
で僕はてっきり、この7人くらいの面々が、鐘を背にして写真に収まるという、記念写真型の典型的な絵を想像していたのだが違った。彼らは、鐘の前に横一列に整列し、鐘に向かって頭を下げて祈っている姿を、鐘と一緒に横から撮ってくれというのだ。何と、こいつら。原爆で亡くなった人たちの慰霊・鎮魂という、この場所に来る目的を彼らはしっかりと持っているのだ。若いのになかなか分かってるじゃないか。しかも韓国人なのに。いや待てよ、そういえば、朝鮮から日本に労働力として連れてこられた多くの朝鮮人もここ長崎で原爆により亡くなったと聞く。そうか、お前らも自分のこととして考えているのか。そうすると、こいつらも、結局は被爆した朝鮮人を強制的に日本に連れて来た日本人を恨んでいるのだろうか?と複雑な思いになる。
僕はスマホを受け取り、写真を撮ってやる。ただ、写真を撮りながら、ちょっとこれは「やらせ写真」だな、と思ってしまったが。いや、彼らが祈ったことは間違いないので文句は言うまい。まぁ、こういうところで満面の笑みを浮かべながらVサインをして写真に収まるよりはよっぽどマトモだ。いや、Vサインは平和を表すから、別にいいのか。
韓国人の若者達は、口々に、僕に「ありがとうございます」と片言の日本語で礼を言い、平和祈念像の方に去っていった。
ここでショックな出来事が一つ。コンパクトデジカメをコンクリートの地面に落としてしまい、シャッター部がおかしくなって、半押し状態が出来なくなったのだ。撮れることは撮れるが、半押し状態がないままにシャッターが押されてしまう。ショック。まだ旅行初日、しかも観光を始めたばかりだというのに。シャッターの半押しが出来ないのは致命的じゃないか。いやだけどさ、このカメラ、3m防水に1.5m落下の耐衝撃性、−10℃の低温でも使えるというタフ仕様なはずだが、なんでたかだか1m程度から落下して壊れるのよ?インチキソニーめ。
僕は仕方なくミラーレス一眼をカバンから取り出し、こちらで撮り始める。僕のメインカメラは、今でもコンパクトの方だ。画質は圧倒的に一眼の方がいいが、機動力は圧倒的にコンパクトだ。僕は多撮なので、手軽に撮れるカメラがベストである。沢や山に行くときはほとんど一眼は持っていかない。川の中で転んだら大変だということもあるが、沢を歩きながらの一瞬のチャンスに、一眼では対応できないのだ。ズボンのポケットから取り出して、すぐに撮る。これが僕のスタイル。ま、街歩きなら一眼でもいいか。首からカメラをぶら下げて歩く「おのぼりさんスタイル」が恥ずかしいですが仕方ない。
浦上天主堂。かつて東洋一と呼ばれたキリスト教会である。もともと浦上地区は、戦国時代末からキリシタンの村で、キリスト教徒が多かった地区。長崎県はキリシタン以降、キリスト教が浸透している場所だ。至近距離で原爆が炸裂し、建物は倒壊し、神父、信者の多くが亡くなった。今の建物は再建されたもので、茶色の双塔がそびえる。近くには原爆によって損傷した当時の聖者の石像が、記憶をとどめるために配置されている。また、倒壊した当時の尖塔が、裏の川沿いそのまま残されている。
原爆資料館。被爆した数々の物品。学校の給水タンク、11時2分で止まった時計、亡くなった女生徒の名前が入った弁当箱、キリスト信徒のロザリオ、など。熱線により焼けただれ、変形している。そして投下直後の惨状を表す写真と映像。死体と焼け野原。子供が死に、大人が死に、老人が死んだ。日本人だけでなく、当時長崎にいた朝鮮人をはじめ、外国人も死んだ。兵士でない一般市民が、無差別殺人されたのである。本当に胸が痛くなる。
国立長崎原爆死没者追悼平和記念館。ボストンの「ホロコースト慰霊碑」を彷彿とさせる、四角柱の光の塔が並んだ追悼空間。この光の塔は、原爆の爆心地方向に向かって並んでおり、正面の名簿棚には、原爆死没者の名簿が納められている。祈るしかない。
この建物には、水が至るところに配置されている。この建物に限らず、長崎の原爆関連の施設には、水を使った場所が多い。水による慰霊。
爆心地。原爆投下の爆心地には今は慰霊碑が建っている。
山王神社の一本鳥居。これは二の鳥居で、山王神社の参道にはもともと四本の鳥居があったが、原爆で生き残ったのは一の鳥居とこの二の鳥居の片足だけ。爆風で鳥居の足の一本が倒壊したが、残りの一本で今でも立っている。残った柱を見ると、爆心地側が熱線により焼けただれていて、刻まれた名前が消えてしまっている。一番上の横木である笠木・烏木と、その下の貫(ぬき)とが、並行となっておらず、ずれている。当時の凄まじい爆風でずれたのだ。
その奥に山王神社がある。ここには被爆した楠の巨木が二本残っている。残っているどころか、爆風によって飛んできた石などが、木の中に埋め込まれてしまった姿を見ることが出来る。
僕が写真を撮っていると、一人のおじさんが声をかけてきた。
「電気つけてやるから待ってな」
彼はここの神社の関係者なのか、楠の木の中に飛び込んだ石を見るためのガラスケース内の電気をつけてくれた。
「ほら、そこに転がっている石も、木の中から出てきたのさ」
見ると直径50cmはあろうという大きな石だ。こんなのが爆風で飛んできて、木に埋め込まれてしまったというのか。
このおじさんは、親切に色々と説明してくれた。見たところ普通のオジサンなので、町内会の会長さんか何かかしら。彼は神社にお参りをしに来たらしく、お参りをするとまた僕に話しかけてきて、僕の今日の予定を聞いてきた。僕が「稲佐山に登ろうと思ってます」と言うと、「稲佐山の下の方に、福山雅治の実家があるよ」と教えてくれた(※注)。彼は僕に時間があるようなら、さらにこの辺りを連れ回して説明したかったみたいだが、ここで別れた。もう夕暮れが近い。稲佐山には夕暮れ時に上がらねばなるまい。
おじさんと話して、久々に九州弁を聞いて懐かしく思う。先述した通り僕は両親、祖父母、親戚みんなが九州弁(博多弁や熊本弁)を話す(話した)ので、九州の方言には違和感はない。九州でもまた土地土地で言葉が違うに違いないが、このおじさんの話す方言(長崎弁?)は、僕にすんなりと入ってきた。
さらに歩いて、長崎大学医学部の被爆した門柱を見に行く。大学は関係者以外立ち入り禁止だが、入り口で聞くと、守衛の人は快く場所を教えてくれた。当時ここにあった前身の長崎医科大学は、爆心から600mほどの近さということもあり、多くの学生、教授、職員が亡くなった。建物は76棟中65棟が倒壊、全焼し、合計898人が犠牲となった。現大学の裏口の方に当時の門柱が残っており、他の原爆遺物と同様に、横には千羽鶴、そして水だろうか、瓶に入ったお供え物が手向けられている。
学生達が医学の話をしながら僕の横を通り過ぎる。医者の卵達か。
このように、浦上地区には、原爆の凄まじさ、恐ろしさを伝える遺物が数多く遺されている。これらを見ていると、もう理屈をこねている余地がないと感じる。核兵器は廃絶するしかない。悲劇は繰り返されるのだろうか。人間の業は深い。
もう大分日が暮れてきた。6時を過ぎている。初日からフルスロットル、しかしもう疲れた(笑)。朝5時起きで昼からの活動とはいえ、この気温では体力をどんどん消耗する。結局僕は今日は稲佐山に登ることを断念。長崎駅に戻り、コインロッカーからバックパックを引っ張り出してホテルにチェックイン。7時半。日が異様に長い。8時にようやく暗くなる感じ。
ホテルのおじさんは本当に善人っぽい人だ。ニコニコしながら、穏やかな口調で僕にホテルの説明をする。夜9時以降は扉を閉めるとのことで、9時以降に帰着する場合は、暗証番号を押して扉を開けてくれ、とのこと。なんだ、夜のセキュリティはしっかりしてるのね。というかとにかく人手不足なのだろう。1泊3000円と安い。
部屋に荷物を置いた後、腹ペコなので飯を食べに出る。日本3大中華街の一つといわれる長崎新地に行ってみることにする。だがこれが大ハズレ。まだ8時半だというのに、ほとんどの店が閉まってしまっているのだ。しかも見たところ、4つの門に囲まれたそのエリアは小さく、10分も歩けば概要が知れる。横浜中華街的なものを想像していた僕は、大いなる肩透かしを食らった。
まだ宵の口じゃないか、どうしてこんなに閉店が早いのや?
僕は仕方なく、開いていた店のうち一番安そうな小さな店に入り、チャンポンと餃子を注文する。ここはチャンポン、皿うどん専門店で、メニューはほとんどない。しかしここのチャンポンはなかなか美味かった。値段は安くなかったが、良しとせねばなるまい。
午後9時半にホテルに帰り着く。11時半には寝る。
※注:後で聞いた話だが、福山雅治の実家は、今や観光地化しているくらいに訪れる人が多いそうである。
DAY2
7月17日(水) 長崎 晴れ・猛暑
朝8:30起床。昨日買っておいた菓子パンとコーヒーの朝食。9時半前にホテルを出る。
今日も強行軍だ。まずは風頭(かぜがしら)公園から龍馬ゆかりの場所を巡る。長崎駅からバスに乗ると、バスはぐんぐんと坂道を上っていく。長崎の街は、斜面に家々がへばりつくように建っている。アンデスの街を思い出す。ラパスとかクスコとかも斜面に質素なレンガ造りの家が密集していたっけ。ここ長崎に建っている住宅はかなり立派ですが。
10:20風頭のバス終点到着。
大分上がってきただけあって、この辺りから見る長崎の街の俯瞰は最高だ。長崎港の青い海の手前に、四角い箱のようなビルが密集している。
坂の向こうに青い海。ポルトガルのリスボンみたいじゃないか。
風頭公園。ここには龍馬の銅像が建っている。高知・桂浜のものよりは、土台が小さい(笑)。また、日本写真の始祖、上野彦馬の墓がある。この人は、あの有名な、台に肘をついた立ち姿の坂本龍馬の写真を撮った人だそうである。
亀山社中記念館。ここが龍馬が設立した日本初の商社といわれる亀山社中跡である。彼が率いる海援隊は、新しい日本を目指して武器や弾薬、艦船までの調達・貿易を、グラバーら外国人商人達の協力を受けながらここで行っていた。亀山社中時代、長州や薩摩のために物資調達に奔走していた頃が、坂本龍馬が最も充実していた時代なのかもしれない。彼もこの山の上から、「まっこといい眺めぜよ」とか言って長崎の街を一望していたのか。150年前はビルなどはなく、街の広がりも今よりはこじんまりしていただろう。長崎港にはフェリーやタンカーではなく帆船が浮かんでいたのだろう。
ちなみに、亀山社中記念館の名誉館長は、武田鉄矢である。
近くには龍馬のブーツという銅像がある。流行先取りでブーツを履いていたという龍馬ならではのモニュメントである。ここからの街の眺めもまたよろしい。
修学旅行の女子高生が多い。グループに分かれて長崎の要所を巡っているらしく、確かに長崎ほど学習のための修学旅行に最適な街もなかなか他にはあるまい。
坂道と階段を歩く。住宅街の中を、狭い道と階段が入り組んでいる。坂の街・長崎を地で行く場所だ。この辺りは、尾道に雰囲気が似ている。
風頭地区から坂を下りたふもとにある寺町では、延々と高い塀に寺院が並んでいる。さすが寺町。
そこから市中を流れる中島川はすぐだ。名物、眼鏡橋がかかっている。石造りの橋が、眼鏡橋のほかにもいくつか連続しており、街の風景にアクセントを与える。
飯はさとの家。眼鏡橋の向かいにある。ランチ終了時間の14時ちょっと前に飛び込む。ランチが安い。各種定食が650円。バンバンジー定食を頼む。安くてボリュームあって美味い。
食後はまず宗福寺へ。1629年に、長崎に在留していた福州人たちが創建した。中国洋式建築の寺として、第一峰門と大雄宝堂が国宝、その他の建造物も多くが重要文化財となっている貴重な寺である。なるほど中華風で寺町に立ち並ぶ日本寺とは異質な建築だ。中国らしい赤い建物が、強烈な違和感を発する。
ここ長崎には、中華街もあるくらいだから、オランダ人や英国人だけでなく、中国人も多く住んでいた(住んでいる)ことがうかがえる。長崎は、和華蘭文化の地とも呼ばれる。
大浦天主堂。国宝。現存する木造ゴシック様式の教会としては最も古い。
ここで再び僕は宗教というものについて考えさせられる。命を懸けてまで信仰を貫き通すというメンタリティーにだ。遠藤周作の『沈黙』、『侍』等一連の小説を思い出す。
江戸幕府による壮絶なキリシタン弾圧にもかかわらず、人々は信仰を捨てなかった。雲仙の地獄に突き落とされても、彼らは信仰を守ることを選んだのである。なぜだ?自分の命よりも信仰が大事なのか。よほど生活に困窮し、いっそのこと死んだ方がマシだというところまで追い込まれていたのだろうか。いや、そうじゃないだろう。
僕はここに、武士道に通ずる日本人の精神性を感じる。信念を貫く。主君を守るために命を懸ける。信念が貫けないのなら、生き恥をさらすことなく潔く腹を切る。こういった考え方が、一般庶民にも浸透していたのではないか、という気がする。もちろん、踏み絵や棄教を要求され、転んだ(宗旨替えした)人もたくさんいただろうが、死してまで信仰を保った人たちは、そのような精神を持っていたと思う。
(ここから2週間後、旅の最後に訪れた知覧の特攻平和会館で、僕はまたこの問題に行き当たることになる。)
グラバー園。ここには、西南諸藩との貿易を生業とし、また幕末から明治維新には維新の志士達と深い交流があった英国人商人、トーマス・グラバーの邸宅があった。グラバー邸は、1863年に建てられた日本最古の木造西洋風建築である(国重要文化財)。ここには、旧グラバー邸を始めとして、ウォーカーやオルトといった当時長崎で活躍した商人達の住宅を移設してある。高台なので、長崎港と長崎の街がよく見える。
一つ一つ見ていたらあっという間に時間が過ぎ、閉園時間の6時となってしまった。慌てて門から出る。
大浦天主堂・グラバー園の前の坂道は観光参道のようになっていて、お土産屋がずらりと並んでいるのだが、まだ6時だというのにほとんどの店が閉まってしまっている。昨日の中華街といい、長崎は店が閉まるのが早いのだろうか。
孔子廟、オランダ坂を歩く。坂道の街・長崎で最も有名な坂がこのオランダ坂だそうである。だが、それほど印象的な風景は見つけられなかった。
日が暮れかかっている。稲佐山へ上がる。バスでロープウェイ駅前まで行く。淵神社という神社がロープウェイの出発点となっている。片道たった5分のロープウェイが、往復1200円もする。本当に人をバカにしている。これをボッタクリと言わずしてどうする。
稲佐山からの長崎市街の夜景は、モナコ、香港とともに世界新三大夜景に選ばれたそうである。誰が選んだのかは分からない。通称、1000万ドルの夜景。笑わせてくれる。
だが、ここからの夜景は、その名に恥じないだけのものはある。右側から入り江が入り込み、その奥に長崎の街が広がる。さらに奥は光のない山が横たわる。夜景のポイントはまず光の量だと思うが、その点では長崎は(僕の主観としては)十分であろう。だが特徴的な建物や地形がないのが残念だ。僕はここと函館だったら函館のほうが好きだ。函館のいいところは、海によって街の輪郭がはっきりと分かるところである。というか海の漆黒が、街の光を浮き立たせていることだ。
夕食は長崎駅近くの安食堂。夜遅くまでやっていて、ワンコイン500円で定食が食べられる。定食は、トンカツ、焼魚、ハンバーグ、からあげその他、メニューも豊富だ。思うに、長崎には安食堂が結構ある。これは貧乏旅行者には助かる。
PM10時、ようやくホテルに戻りつく。今日も35℃のなか朝から晩まで歩き詰め。
■長崎所感
・長崎はガソリンが高い。レギュラーでリッター161円とかする。千葉よりもリッターあたり10円以上高い。
・「ボートレース大村」の看板。長崎空港がある大村市。大村と聞いて僕が真っ先に思い出すのは、遠藤周作の小説『侍』のラストシーンで、キリスト教徒と神父が、磔にされて火あぶりで処刑されるのが、確か大村の砂浜だった。長崎県は、原爆だけでなくキリシタンの悲劇が色濃く刻まれた地だ。
・長崎発のツアーで僕が興味があったのは、「軍艦島上陸ツアー」だ。長崎港の沖合い19kmに、昔は炭鉱の島として栄え、今では無人島になってしまった軍艦島がある。その廃墟などを船に乗って見に行くツアーである。だが4000円近くもするので諦めた。
・長崎は結構大きな街だ。そして観光地である。住民と観光客とが渾然一体となり、街は賑わっている。観光客では、韓国人、中国人が多い。白人も結構いる。
長崎写真集
DAY3
7月18日(木) 島原 晴れ・猛暑
朝7:00起床。7:50ホテルをチェックアウト。今日は島原を観光した後にフェリーで熊本に渡る。
荷物を担いで、長崎駅の向かい、西坂の丘にある二十六聖人殉教碑へ。ここは、日本で初めて最高権力者の命令によるキリスト教徒の処刑が行われた場所である。1597年2月5日、豊臣秀吉はここで26名のカトリック教徒を磔刑に処した。のちにカトリック教会がここで処刑された26名を「聖人」としたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれる。
この碑を僕が見ていると、朝もはよから修学旅行生が先生に引率されてやってきた。
長崎駅からJRで諫早駅まで行き、ここで島原鉄道に乗り換えて島原へ。今日もほんに暑か。諫早駅は割と大きな駅だが、朝9時半の駅前はシーンとしている。人の姿はほとんど見えない。
諫早を出発した島原鉄道は、右に雲仙の山々、左に有明海・島原湾を見ながら走る。田んぼの緑。いい田舎だ。
途中、ある駅で「サッカーの街 国見」のモニュメントが建っている。そうかここが、あの高校サッカーの強豪、国見高校の所在地かい。また、海の中に造られたような大三東駅。下りたらすぐ浜である。
島原駅着10:50。ギラギラとした真夏の晴天。駅に降り立つとすべてのモノが太陽の光を反射して溶け出しそうに光っている。
島原は、島原湾に突き出た、セミの抜け殻のような形をした島原半島の東端に位置する。半島中心には、雲仙普賢岳がそびえている。島原半島は「世界ジオパーク」に認定されており、地球の歴史を学ぶことの出来る自然公園となっている。
さて島原駅で僕は荷物をコインロッカーに突っ込み、街を歩き始める。駅からしばらく歩くとアーケード街がある。中小都市のどこに行ってもそうだが、ここのアーケードも、残念ながらそれほど繁盛している気配はない。だがシャッターが閉まっている店ばかりではない。夕方以降は割と賑わうのかもしれない。島原には城も温泉もあるし、ジオパークだし、観光地としての魅力は十分だ。
しばらく行くと「鯉の泳ぐまち」がある。ここ島原は湧水で有名で、その湧水を生かした水路がいたるところにある。「鯉の泳ぐまち」では、住宅脇に掘られた水路に鯉を放し、清水をアピールしている。見た目にも涼しくて良い。だが一匹死にそうな鯉がいるのは気になった。水路を泳ぐ鯉も、暑さを避けるために日陰に集まっている。
アーケードにも鯉が泳ぐ水路があり、歩く人の心を癒す。
腹ごしらえはアーケードの駅側にある居酒屋食堂。夜は居酒屋、昼はランチ提供だ。ソースカツ丼500円。ランチタイムは逃す手はない。
島原城まで歩く。暑か。今日も暑か。天気予報では、九州各地で35℃近くまで上がるので、なるべく外で活動しないように、と言っていた。こちとら旅行だ、外で活動しないわけにはいくまい。それにしてもこの暑さは堪える。何か東南アジアとか中東とかアフリカとか中米に旅行しているのと遜色のない暑さだ。湿気も低いとはいえない。
島原城。1618年に松倉重政によって着工され、4〜7年の歳月を経て完成。明治維新により廃城となり解体されたが、1964年に天守閣を復元した。五層の白い天守閣が美しい城だ。破風のない真っ直ぐ水平な屋根が特徴である。入り口では、武士の格好をした人たちが観光客を迎える。堀の一部はハス、また別の一部は浮き草が埋め尽くしている。
ここは、いわずと知れた島原の乱の舞台となった場所である。1637年、重い年貢と凶作による生活の困窮と領主の悪政に耐えかねた農民が、一揆を起こした。彼らはこの島原城を包囲したが落とせず、原城に立てこもり、天草四郎を総大将に幕府軍と戦い、散っていった。3万の一揆軍に対し、幕府軍12万。この江戸時代最大規模の農民反乱は、悲惨な結末で集結する。
天守閣は資料館となっており、島原の乱、キリシタンの歴史・遺物や、郷土資料、民俗資料が展示されている。
ここでもキリシタンに対する壮絶な弾圧とそれでも信仰を捨てなかった人々の遺品が説明される。隠れキリシタンたちは、釈迦像や観音像をキリストやマリア像に改造して人目を忍んで祈りを捧げていたのだ。
天守閣の展望台からは、島原の街と島原湾、そして対岸の熊本がはっきりと見渡せる。逆の西には雲仙の山々。
城内には、いくつかの資料館がある。西望記念館。日本彫塑界の巨匠、北村西望氏の代表作や作品の原型が展示されている。長崎平和公園の平和祈念像の原型を興味深く眺める。館の外には、彼の彫刻が広場に陳列されている。なかなか独特だ。
民具記念館、観光復興記念館を見て回る。復興記念館は、雲仙普賢岳の噴火活動の記録を展示してある。
城を出て、炎天下の街を歩く。武家屋敷へ。島原には武家屋敷が残っている。3軒の家が無料開放されている。武家屋敷通りの未舗装道には真ん中に水路が通り、清流を流している。しかし暑い。あまりに暑いのでお茶屋さんに入り、島原名物の「寒ざらし」を食す。これは白玉を甘い蜜を溶かしたシロップに沈めた甘味で、美味い。
江戸時代に作られた時計台、時鐘楼を見て、駅に戻る。16:15。コインロッカーから荷物を引きずり出す。
16:21発の電車に乗り、島原外港駅へ。ここにはフェリーターミナルがあり、熊本行きのフェリーに乗る。オーシャンアローという高速船。わずか30分で島原と熊本を結ぶ。
フェリーは17:30出航。なかなか豪華な船だ。18時に熊本港着。ここからバスで熊本駅へ。バスは田園風景の中を走る。畑の上に浮かぶ積乱雲が豪快だ。18:45熊本駅着。失敗だったのは、駅で降りずに終点の交通センター(バスターミナル)まで行けばよかった。なぜなら、今日予約してあるホテルは、交通センターから割と近いのである。それが頭に入っていなかった。
まぁ仕方ない。市電に乗ってもよかったが、悔しいので駅からホテルまで歩くことにする。なに、たかだか市電4駅分程度だ。だが結構遠かった。荷物を担いで20分くらいは歩いた。今日から2泊予定のホテルにチェックイン。
荷物を置いてフロントで近くに安くて美味しい食堂があるか聞いてみる。答えは「ない」、とのこと。おいおい待ってくれよ、いやどこかあるでしょ?フロントの男は、僕に最寄のラーメン屋の場所を教え、でなかったらアーケードですかね、とのことで地図をくれた。
近くにラーメン屋と食堂があったがパスしてアーケードへ歩く。熊本は都会だ。アーケードが巨大で垢抜けている。パチンコ屋まである、今風のアーケードだ。そして午後8時、多くのかわいい女の子が歩いている。いいじゃないか熊本。
アーケード街では、早速上空からくまモンに迎えられる。木曜夜、アーケードの人通りは多く、熊本という街の規模が何となく分かる。
新市街アーケード、下通りアーケードと主要な通りを歩いたが、全国展開してるチェーンの飲食店が集まっている。その中でおやっと思ったのは、金沢の「カレーのチャンピォン」。金沢以外ではほとんど見たことがなかった(多分東京かどこかで一度くらい)が、熊本にはあるのね。
夕食は結局「やよい軒」(笑)。トホホ、熊本まで来てやよい軒かよ。熊本ラーメンという手もあったのだが、連日猛暑の中歩き倒しているので、カロリーと栄養をきちんととらなあかんと思い、がっつり食えるところに入りたかったのだ。やよい軒ならご飯お代わり自由(笑)。結局ハンバーグ定食。
ホテルに戻ったのは午後9時前。今日は歩いた距離はそれほどでもなかったが、特に暑さに消耗した。島原の街歩きはキツかった。
島原写真集
(続く)
九州旅行 1−2−3−4−5−6−7−8
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