3.佐賀、吉野ヶ里、佐賀競馬場
DAY6

鳥栖から吉野ヶ里へ向かう電車の車窓。北には筑紫山地が見える |

吉野ヶ里公園駅から遺跡に向かう |
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弥生時代の方々 |
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甕棺 ⇔ 埋葬予想模型 |

北丘墳墓。発掘されたままの姿を見ることが出来る。 中 ⇔ 外 |

甕棺墓列 |
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佐賀競馬場 |
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ゴール板を駆け抜ける |

変わり果てた風景。巨大な100円ショップが忽然と現れた。 |

小学生の夏休みに遊んでいた寺、龍雲寺 |

結構古い街並み |

セミ |

地蔵院 |

小城バスセンターの待合室 |
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本龍院 |

高速道路下の公園 ⇔ 畑の中の餃子屋 |

佐賀名物、シシリアンライス。美味い |

佐賀駅。有田工業とサガン鳥栖の応援 |
7月21日(日) 吉野ヶ里、佐賀競馬場 晴れ・酷暑
朝8時起床。今日も暑そう。朝からセミがうるさい。
さて、今日は午前中に吉野ヶ里遺跡を見学し、午後から佐賀競馬場で勝負する。
鳥栖駅から長崎本線で長崎方面へ。20分ほどで吉野ヶ里公園駅に到着。吉野ヶ里遺跡はこの駅から歩いて15分。
のどかな田園風景の中を歩く。稲が短い。首都圏の田んぼなら7月のこの時期、稲はかなり生長しているが、ここの稲はまだ田植えして日が浅いように見える。温暖な気候を利用した二毛作なのだろうか。
遠くには山々。電車の中でも、北側に、佐賀の北部から福岡まで東西に広がる筑紫山地を観察できた。
遺跡までは案内板があるし、ほとんど田んぼの中の1本道なので、迷いようがない。朝から容赦のない日差しが照りつける。すでにジリジリと気温は上がっている。ひょっとしたらもう30℃あるかもしれない。
田んぼ道はやがて国道的な道路に突き当たり、道を渡ったところが吉野ヶ里歴史公園の東門である。
東門から入り、しばらく歩きミストが出ている植物のトンネルをくぐる。
入場券売り場やレストラン、売店がある一画が歴史公園センター。ここで入場券を買い、無料で貸し出されている笠を借りることにする。さすがに熱中症対策。普段僕は帽子というものとは無縁である。ベトナム人を思い出させる笠をかぶって園内を歩き始める。
朝っぱらから既に酷暑。入場門を入った後、「手ぬぐい浸し場」なる水場があり、あまりに暑かったのでハンカチをここで濡らし、首に巻くことにした。10:15。
吉野ヶ里歴史公園は、弥生時代の村の跡を復元した広大な遺跡公園である。弥生時代といえば日本が大和朝廷によってある程度統一される前、紀元前5世紀〜紀元3世紀くらいの長い期間。今から2000年も前だ。
高床式、半地下式の住居や倉庫、高見櫓、司祭のための建物などが復元されてある。
そして住居や政をする建物では、中に暮らしや祭祀の模様が再現されており興味深い。
ここで僕は新しいことを色々学んだ。この時代の特徴的な出土品には銅剣やガラス製管玉(くだたま)があるが、何といっても衝撃的なのは、甕棺(かめかん)であろう。弥生時代、この地域の人々は、、陶器でできたカプセルのような甕の中に死者を入れて埋葬した。それが甕棺である。その埋葬された甕棺を並べた墓地が、甕棺墓列である。
そして遺跡のハイライトは、北墳丘墓。こんもりと方形に積まれた土の下には、身分の高い人々の墓があり、それを発掘した状態で見ることが出来る。通常の甕棺墓列よりも一つ一つの甕棺が距離を持って埋葬されている。ここは空調完備の展示館となっていて、弥生時代の死者埋葬についての説明や副葬品などのパネル説明がされると同時に、中央にはその発掘された墓列を見ることが出来る。すばらしい。
さらに北へ歩くと、もう一つの甕棺墓列が、芝生の平地にずらりと広がっている。
気がつくと首に巻いていたはずのハンカチがなくなっていた。どこかに落としてしまった。僕は炎天下の中、来た道を戻りながら、ハンカチが落ちていないか探す。所々にいるスタッフにも聞いてみるが届いていないとのこと。疲れる。途中から僕は再び自分がたどった道をもう一度歩き、ハンカチを探す。しかし見つからない。普通に見学する2倍の道のりを僕はこのバカ暑い中歩いて、疲労困憊だ。自業自得で仕方ないが我ながら本当にアホや。
僕は入口の事務所で遺失物届けに記入し、もし見つかったら連絡してもらうようお願いした。もう14時だ。予定では12時頃にはここを見終わって競馬場に向かう予定だったので大幅に遅れている。しかも14時台の鳥栖方面への電車がないということで、僕は吉野ヶ里遺跡のレストランで昼食を食べることにした。こじゃれたレストランは案の定高いが仕方ない。「佐賀産和牛コロッケ定食」を頼む。900円。高いが、味はまずまず、定食っぽく小鉢とサラダもついたので良しとする。
飯を食い終わって一服後、遺跡を後にする。今日はもう一つの目的地、佐賀競馬場に是が非でも行かねばならない。今日を逃すと、次の土曜日まで競馬はないからだ。
吉野ヶ里歴史公園 写真集
猛暑の中、吉野ヶ里公園駅まで歩く。14:57鳥栖行きの電車に乗る。鳥栖駅横のファミリーマートで、佐賀競馬の競馬新聞「日本一」を買う。何が日本一なのか分からないが、地方競馬の新聞はけったいな名前がついている。高知競馬場で買ったのは、「土佐龍馬中島」という新聞だった。このファミマには「日本一」しかなかったが、いくら地方競馬でも競馬新聞が1種類のみということはさすがにあるまい。
鳥栖駅からは目達原行きバスが15:40発。これに乗って競馬場前で降りる。16時頃に佐賀競馬場着。とにかく暑い。
佐賀競馬場は、茶色の建物(スタンド)がでかく印象的である。コースは地方競馬の標準よりもやや小さいようだ。1周全長1100m、直線も200mしかない。直線勝負の追い込み馬は不利だろう。
競馬新聞売り場では、2種類の新聞売りブースが離れて並んでいる。「通信社」と「日本一」。名前バラバラ。
パドックは小さいが、地方競馬では普通の大きさだ。出走頭数はほとんどのレースで8〜10頭くらいなのでそれ相応のパドックだ。
人は割と多い。さすがに土日に営業しているだけある。地方競馬はなぜ平日に開催しているところが多いのか、不思議だ。収益以外にも、出走馬の確保等の問題もあるのだろう。
食堂は、2,3軒並んでいる一画と、あとはパンやおにぎり、やきとりなどを売っている店が数軒。食堂にはさすが九州、「とんこつラーメン」や「チャンポン」というのぼりが立っている。この二つは、九州ではどこでも2大王道麺ということになろう。僕は吉野ヶ里で飯を食ったのでここでは食わない。
この日は始動が遅くなったので、16時過ぎに着いた時には、11レースあるうちの8レースのパドックをやっていた。
僕はこの8レースから11レースまで4レースで勝負し、2勝2敗ながらも4270円の負け。当たってもトリガミ。ここでこれからの旅行資金を稼ごうと思っていたので呆然とする(悲)。
最終11レースが終われば、人々はクモの子を散らすようにあっという間に去ってゆく。18時30分。
携帯の留守電に何か入っていたので聞いてみると、何と吉野ヶ里遺跡のスタッフの人からで、「ハンカチが見つかったので郵送する」とのこと。やった!素晴らしい!
僕はすぐに電話して、明日の午前中に遺跡の事務所に取りに行くので郵送は無用、と伝えた。
それにしてもこの落としたハンカチは、実は前にも一度落としたことがある。数年前、福島県田村市の鍾乳洞、あぶくま洞の中でだ。このときも、誰かが見つけて届けてくれ、ハンカチは無事僕の元に戻ってきた。
長年使ってきたハンカチだけに、喜びもひとしおである。
ハンカチが見つかった喜びと、競馬に負けた悲しみをないまぜにしながら、バス停に歩く。
バスは19時過ぎに鳥栖駅着。
鳥栖はJ1チーム・サガン鳥栖の本拠地である。サッカースタジアムにしては珍しく、サガンのホーム競技場のベストアメニティスタジアムは、鳥栖駅の真裏にある。駅からの導線が短い。が試合時は大混雑じゃないかと推察される。臨時列車でさばいているのだろうか。
日が暮れた。夕飯。だが昨晩と同様、鳥栖には食堂がない。あるのは焼き鳥屋とラーメン屋のみ。鳥栖人はみんなおうちで夕食を食べるのだろうか。昨日ホテルでもらったグルメマップを見ながら駅の周りを歩き回るが、大衆食堂は皆無。1軒あったが日曜だからか、閉まっていた。あまりに寂しい。
結局この日もとんこつラーメンに半ライス、餃子。昨日とは違うラーメン屋だが、メニューは全く同じ。トホホ。
今日も疲れた。吉野ヶ里ではハンカチを探して通常の倍歩いた。
ホテルに戻る。鳥栖ステーションホテルマツザカは、もともとマンションだった建物をホテルに改装したようだ。真ん中が吹き抜けになっており、各階にはその吹き抜けを取り囲むように部屋が配置されている。面白い。部屋の内装はホテルなのだが、マンション時代の名残りか、ユニットバスではなく、バストイレ別である。良い。残念なのは、エアコンから水が垂れてくることくらいか。
DAY7
7月22日(月) 佐賀 晴れ・酷暑
朝7時起床。今日はその昔祖父母が住んでいた家に行き、母方の家系の墓参りをするための一日だ。
ホテルをチェックアウト。今日まで佐賀にいるのでここ鳥栖にもう一泊しても良かったのだが、今日は佐賀を拠点にして動くので、今晩は佐賀に泊まることにしていた。結果的には正解だ。何しろ鳥栖には食堂がない。
8:09の佐賀方面の電車でまずは吉野ヶ里公園へ。そう、ハンカチを回収せねばならない。重いバックパックを担いで、吉野ヶ里歴史公園までの田んぼの道を再び歩く。今日も底抜けに天気がいい。全く九州というのはこげんに天気が良くて暑かものか、とため息が出てくる。汗がにじむ。
9時開園のところを8時半に歴史公園センターに着く。きっとスタッフは開演前から準備をしているはずだから、8時半にはハンカチをもらえると思ったのだ。だが、スタッフさんたちの姿はほとんど見えない。しばらく入口で待つ。8:40頃にようやくスタッフ達がゾロゾロと表に出てきた。そして無事ハンカチを回収。発見の経緯を聞くのを忘れてしまったが、いずれにせよスタッフか客が届けてくれたに違いない。厚く礼を言ってハンカチを受け取る。
園内各持ち場担当のスタッフさんたちは、弥生時代をイメージしているのか、作務衣のようなゆったりとした衣装をまとい、輪になって朝礼をしている。今日のイベントとか、連絡事項が伝達されているのだろう。そして、「今日もがんばりましょう」と園内に去っていった。
僕は再び駅に向かって歩き始める。9:03発の電車で佐賀へ向かう。僕の記憶違いでなければ、佐賀はおよそ30年ぶりだ。
佐賀と言えば、今でこそ全国的な知名度は相当に低いと思うが、明治維新の功藩として、薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)として4番目に数えられた雄藩である。当時、兵器生産等の産業は全国で薩摩と並んで一番進んでいたと言われる。
維新後は江藤新平や大隈重信など、肥前佐賀出身者が政治家として活躍した。
ちなみに、征韓論後に下野した江藤新平は、明治新政府によって特権を奪われた旧佐賀藩士の反乱によって首領に担がれ、1874年(明治7年)に佐賀の乱を起こして政府軍に鎮圧され、梟首(さらし首)となった。この佐賀の乱で拠点となった佐賀城は、佐賀駅の南にある。県庁の近く。
維新前後は政治の中心的位置にいた佐賀県であるが、はなわに「SAGAさが」という自虐的なヒット曲があるように、現在の佐賀県というのは、さほど有名とは言えないだろう。
佐賀駅南口には、映画『悪人』ロケ地の看板があり、ここで主人公の二人、妻夫木聡と深津絵里が初めて会った場面が撮影されたとのことで、そのシーンが撮影されたときの二人の位置に足型が描かれていた。もっとも、僕はこの映画を見てないので全く分からない。
鳥栖駅ではあまり目立たなかったが、佐賀駅には高校野球佐賀代表の有田工と書かれた小さな応援旗というのか飾り付けが激しい。鳥栖駅では見かけなかったと思うので、有田工業は佐賀市の高校なのだろうか。
まず予約しているアパホテルに行き、まだチェックインできないので荷物を預ける。そして佐賀駅バスセンターへ。バスセンターは駅に直結した隣にある。まずは祖母の家があった場所をおよそ30年ぶりに訪ねることにする。
バスセンターで「地蔵前」まで行くバスを聞くと、すぐに発車するというので、言われた通りのバスに乗り込む。バスは佐賀市内を進む。
僕が祖父母の家に行っていたのは小学校時代、今から30年も昔のことである。僕は毎年、小学校が夏休みになると、両親と弟と一緒に、佐賀の母方の祖父母の家に帰省していた。当時福岡に住んでいたおばさん、おじさん家族も、僕らに合わせて佐賀にやって来た。僕と弟は、滞在中従兄弟たちと思い切り遊んだ。当時の記憶をたどれば、祖父母の家はとてつもない田舎にあって、昔ながらの広い日本家屋の一軒屋だった。僕らは、広い畳の部屋に巨大な蚊帳を吊って寝た。蚊帳というものを初めて体験したのもここだった。今思えばだが、家の中には古き良き日本の情景があった。
家の目の前には川が流れ、裏手すぐに寺があった。この川と寺は、夏休みの僕らの格好の遊び場所となっていた。川と言ってもドブ川みたいなものだったが、ここで魚釣りをした。何が釣れたか、いや釣れたのかどうかすらよく覚えていないが、じいちゃんと釣りをした記憶があるから、何かが釣れたのだろう。川にかかる橋は、木製の太鼓橋のような簡素なものだった。ある雨の夕、木製の欄干に白い着物を着た見慣れない女性が座っていたことがあって、しばらく目を離した隙に忽然と姿を消してしまい、僕らは「お化けだ!!」と震え上がったことをはっきりと覚えている。不自然な白い着物と彼女の顔の蒼白さが、強烈な印象を残している。
寺では何をしたかこれまたよく覚えていないが、広い境内を鬼ごっこで走り回っていた気がする。セミがうるさかったのでセミを捕っていたかもしれない。
そして近所に1軒ポツンとある駄菓子屋。ここがまた僕らのたまり場だった。当時の駄菓子屋がみなそうであったように、この店にも1台のインベーダーゲームが置いてあり、僕らはなけなしのお小遣いを投入して夢中でやっていた。10数年後に誰もが家でゲーム機を保有しているような世の中になろうとは夢にも思わず、たった一台のインベーダーゲームが僕らの教祖様であるかのように、毎日のように店に通った。
近くの路地は細く、舗装されていなかった。すべて砂利道的な未舗装道で、僕たちはその砂っぽい道を走り回っていた。
今考えると、森も渓流もない、何の変哲もない田舎(!)だったが、毎年の佐賀は、楽しくて仕方がなかった。当時住んでいた千葉も十分に田舎だったが、佐賀はもっと田舎だったし、何か田舎の大らかさを湛えていた。家は密集していなくて、空間が広々としていた。違う場所に来たという旅行の高揚感だけでなしに、佐賀には僕らが居心地の良さを感じる雰囲気があった。
そんな記憶を呼び起こしながらバスの車窓を眺める。佐賀も都会だわなんて思っているうちに、地蔵前バス停に着いてしまった。佐賀駅からわずか20分ほどのところで、国道沿いの住宅や店が立ち並ぶ場所だった。僕は自分の記憶に照らし合わせ、大いなる違和感に戸惑った。ばあちゃんちはこんなに家があるようなところじゃない、もっと田舎の田舎だったはずだ。
だが、間違ってはいなかった。ちょっと路地に入ると、小さな川があった。そしてさらに奥に寺がある。
「ここだ!!ここで間違いない。」
僕は愕然とした。すべてが丸っきり変わり果てていた。祖父母の家は今は他人の手に渡り、平屋のままではあったが、改築されたようだ。隣の家は新しくなり、川にいたっては、立派な欄干をもったコンクリートの橋ができ、岸もコンクリートで護岸され固められてしまっていた。もはや釣りをするような川ではない。橋には、「地蔵川」、「中橋」と川と橋の名前が表記されている。地蔵川か。そんな名前だったっけ。
そしてばあちゃんちの西側には大きな国道が走り、いや、この国道はひょっとしたら30年前もあったかもしれないが、元ばあちゃんちの裏手には、いまでは国道沿いに巨大な100円ショップが四角いコンクリートの壁となって立ちはだかっていた。
周りの家々もすっかり新しくなり、道路は舗装され、こぎれいな街並み。変わっていないのは寺くらいだ。入口の柱に「龍雲寺」とある。この寺は30年前とほとんど変わっていないように見えるが、入って左側の一画が墓地となってしまっていた。僕の記憶が正しければ、ここには何もなかったはずで、もっと境内を思い切り走り回れた。自分の体が成長したせいかもしれないが、もっとだだっ広いと思っていた寺は、それなりの広さしかなかった。
駄菓子屋があったと思われる方に歩いてみた。そこは今でも古い街並みが残る「長崎街道」と呼ばれる旧道で、車一台分しかない道幅だ。ヘルメットをかぶった自転車の中学生が行き過ぎる。記憶をたどって駄菓子屋のあった辺りまで歩いてみたが、跡形もなくなっていた。だが、確かに古い商家がところどころにあるのは、当時のままである気がしてくる。
もう一つ、変わっていないのはセミの声だ。街並みは今風になったが、セミの声は相変わらずうるさく、近くの木を見ると、1本に10匹くらいのセミが張り付いて一斉に鳴いている。
川の周りにはどう見ても昔からありそうな地蔵院という、大小の地蔵が何体も鎮座している公園がある。ここにあるブランコが当時からあるとすればきっとここで遊んでいたのだろうが、記憶が薄い。何となく見覚えはあるが、それ以上の脳内化学反応は起こらない。周りの風景が変わり過ぎているせいもあるだろう。
僕はしばらく近くを歩き回ったが、自分の記憶が抹殺されゆく寂しさで一杯だった。もう、自分の脳にある記憶を、鮮やかな色と手触りと感傷でもって思い出すことは不可能になってしまった。埃にまみれた僕の記憶は、この先靄がかかっていくばかりでかすんでいく。もしここが昔のままの風景だったなら、今日記憶の底から蘇ってくる思い出もいくつかあったに違いない。祖父母の記憶、従兄弟の記憶、自分が毎夏ここに存在したんだという記憶。30年というのは長い年月である。何もかもがすっかり変わってしまっても不思議でない年月だ。無数の変わるものと無数の変わらないもの。その中で僕らは生きていく。いや、諸行無常、すべてのものは変わってゆくのだろうが、せめて自分が生きている間くらい変わらないものがあると信じていたい気がする。
原発事故で故郷を追われた人たちのことを考える。変わらない風景なのに、そこに帰還できないという悲劇。
僕は感傷を無制限に解放し、浸った。だが変わり果てた風景は、感傷に浸ることを困難にする。
もういいだろう。歩くのをやめて地蔵前バス停に戻る。昼前、バスで佐賀駅に戻る。
気を取り直そう。その前に昼飯だ。時刻はちょうど正午。佐賀駅構内にある観光案内所で、近くの「大衆食堂」を尋ねる。さすがに駅周りにはありました。サラリーマンが昼飯に使う「ゴッドマザー今井」という飯屋が駅裏にあり、そこを紹介されたので行ってみる。店はちいさな小料理屋風で、カウンターが5席ほど、座敷のテーブルが4つほどある。なるほどランチ時、サラリーマンのおじさん、OLで混雑している。夜は居酒屋になるのだろう、カウンターの後ろには様々な銘柄の日本酒や焼酎が置いてある。
料金は安いというわけではなかったが、文句はない値段だ。いくつもある定食から、トンカツ定食を頼む。
「ゴッドマザー」の店名通り、どうやらこの店は若女将の女性が切り盛りしているようだ。今目の前で調理し、厨房、ホールの女性たちに矢継ぎ早に指示を出している。いかにも威勢が良くて切れそうな、女将的な女性である。だが見たところまだ若い。30代半ばだろうか。
トンカツはなかなかいけた。小鉢、冷奴、漬物、フルーツがついて750円はお買い得。
勘定を済ませ、再び酷暑の外に出る。今日も35℃コースだ。店の外の灰皿で一服後、再び佐賀駅バスセンターへ戻り、今度は小城方面のバスについて尋ねる。午後は母方の家の墓参りをする。だが私が母に書いてもらったバス停や寺院名は、ここの係員にはどうもピンと来ないようで、まずは小城のバスセンターに行き、そこで聞いてみてはどうか?という提案を受け、そうすることにする。
唐津行きのバスに乗り、小城バスセンターへ。小城は遠い。1時間くらいかかる。午後2時前に小城バスセンター着。バス代は570円。
小城バスセンターで、色々聞いてみる。僕の行きたいのは、本龍院という寺。ここが母方の家の菩提寺であり、先祖代々の墓があるのだ。バスセンターのおじさんたちは、本龍院と聞いたら知っていた。口々に行き方を教えてくれる。
バスが来るまで待合室に座って待つ。待合室には本棚があり、客が寄付した本が何十冊か並んでいる。そこには、「ご自由にお読みください。お持ち帰りも出来ます」の文字。文庫本の背を一冊一冊確認していく。安倍公房の小説があったので、お言葉に甘えて持ち帰ることにする。
唐津方面のバスに再び乗り、一本松バス停下車。そこから歩く。どう見てもラブホテルの「峠」というホテル脇を抜け、田んぼが広がる道を歩いてえらく高いところを走っている高速道路の陸橋脚の脇をくぐる。森の中の道を5分ほど上がると、目的地の本龍院はあった。森の中の寺。本堂の奥、開かれた斜面には檀家の墓地が広がり、その背後には木々がそびえる。さらにその先には山の稜線が浮かぶ。
15年ほど前、祖母の葬式の際にここには来たはずだが、よく覚えていない。墓がどれかも分からないので、一つ一つ墓石を見て回るが見つからない。仕方ないので、住職に挨拶を兼ねて、尋ねることにする。本堂の横に、2階建ての住宅が建っていて、ここが住職の住まいであることは明らかである。
「ごめんください」
住職の奥さんが始めに出てきて、その後住職が現れた。まだ若い。40代前半だろうか。
僕は原チヨノの孫であることを告げ、墓参にやって来ましたと言うと、住職は丸顔をほころばして「あぁ、原さんの。遠いところよーくお出でになりました」と歓迎してくれた。
「原家の皆さんは元気ですか?最近お目にかかってないですが。」
「ええ、元気だと思います。ただ僕も親戚連中とはほとんど会ってないので・・・」
住職の話では、実は原家の墓石の土台部分に、ミツバチが巣を作ったため、今お参りするのは危険だという。来月お盆前には一斉清掃するので、その時にハチを駆除しようと思っているとのこと。だがせっかくここまで来たので、線香をあげさせてくださいと頼むと、それでは様子を見てみましょう、と墓を案内してくれた。住職はハチをしばらく眠らせるとかいうスプレーを手に持って、僕の前を歩き始める。
坂道を少し上ったところに原家の墓はあった。他の墓と比べても古いながらもなかなか立派な墓だ。確かに後ろ側に小さく開いた穴からハチが複数出入りしている。だが僕は大丈夫ですといってお参りさせてもらう。住職は坂を下りて家に戻っていった。
15年ぶりか(※注)。佐賀は遠い。というより僕が会社を辞めたから来れたと考えれば、無職となったことでいいこともあるということだ。
じいちゃんの思い出はあまり思い出せないが、ばあちゃんのことは色々思い出せる。大人になってから分かることが僕には多過ぎた。いや、何も考えずにわがままに育ってきたと言うべきか。祖父母の言葉や態度にもっと真摯に向き合っていれば、と後悔した頃にはもう彼らはいない。
さっき小城バスセンターの横のコンビニで買った線香を取り出し、すべてに火をつける。大量だが持って帰ってもしょうがないので、大盤振る舞いだ。原家のすべての亡くなった人たちに向けて線香の煙をたく。その中には、従兄弟のニーちゃんも含まれている。
炎天下に線香の火が熱い。汗をダラダラ流しながらすべての線香に火をつける。そして墓に手向ける。7月下旬、お盆前のこの季節、他に誰も墓参者はいない。午後3時過ぎ、まだまだ溶けそうな日差しに照らされて墓地はじっとしている。僕がつけた線香の煙だけが白い筋となって青空に舞い上がっていく。墓の前で手を合わせる。
坂道を下り、住職の家に再び声をかけ、礼を言う。住職も、お参りしていただきありがとうございました、と逆に僕に礼を言ってきた。確かに、誰も墓参に来ない家の墓は、住職としては悲しいのだろう。そのような墓は、ずっと住職一人で見守ることになるのだ。
帰り際、奥さんがお茶のペットボトルと、みかん&パインジュースの紙パックを僕に持たせてくれた。うれしい。この暑さで、次から次に飲み物を買う羽目なのだ。住職と奥さんに礼を言って本龍院を後にした。
高速道路下の公園でオレンジジュースを飲む。美味い。この公園が怪しい魅力満載だ。滑り台とブランコ。上を見上げると高速道路。家は何軒かポツンポツンとあるが、子供はここで遊ぶのだろうか。夜なんかはかなり怖い雰囲気だろう。
バス停に向かって歩き始める。田んぼが広がる真ん中にポツンと一軒の店がある。「ギョーザ」ののぼりを何本か立てている。「ぎょうざ工房」という店だ。こんなところになぜギョーザのテイクアウト屋が一軒ポツンとあるのか、世の中は面白い。
一本松からバスに乗り、佐賀駅に戻る。佐賀駅に着いたのは17:30。アパホテルにチェックインし、しばし休憩する。
夕食を食べに出る。夕食は佐賀名物、シシリアンライス。フロントで、シシリアンライスを食べられる店を聞くと、若い男性フロントマンは、僕に飲食店マップ地図を渡しながら、「私が知っているのは、パスタ屋のクレストという店です」と言う。あれ、それだけ?僕は佐賀にはシシリアンライスを出す店がひしめいているのかと思っていたが、どうやらそうでもなさそうだ。僕はじゃぁそこに行ってみましょう、といってホテルを出た。『まっぷる』によれば、佐賀県庁最上階にあるレストランにもシシリアンライスはあるが、県庁までは若干遠いので、駅の近くで済ませたかった。
さて、シシリアンライスとは何か。モノの本によれば、これは佐賀市街に昭和50年ごろに登場した料理で、ご飯の上に生野菜、甘辛く味付けされた肉が載っていて、マヨネーズが網のようにかかっているワンプレートご飯もの料理である。
佐賀駅南口を歩き回るが、確かにシシリアンライスを置いていそうな店はない。居酒屋とラーメン屋ばかり。このシシリアンライスは、長崎でいうトルコライスのような存在だと思ったが、実際には佐賀に深く浸透しているわけではなさそうだ。長崎ではトルコライスをメニューにしている食堂は結構あったと思うが、佐賀でシシリアンライスは限られたところでしか食えないらしい。
歩き回ったがもう埒が明かないので、僕はフロントマンお勧めのクレストに入ることにした。薄暗い店内には、年配の夫婦一組しかいない。月曜日の夜19時過ぎ。まぁ、客足はこれからなのだろう。パスタ屋ということだが、夜はおしゃれな洋風居酒屋という趣だ。
ここのシシリアンライスはばり美味かった。肉の味付けが絶妙だ。この甘辛さとマヨネーズが合うのだ。そしてさっぱりしたレタスに、真ん中に温玉。いい料理じゃないか。僕が座ったカウンター席の横の壁には、「インターネットランキングで佐賀市シシリアン部門でクレストのシシリアンライスが第1位」と自慢した貼り紙が貼ってある。いや、確かに美味いよ、認めよう。
美味い飯にありつけた日は、幸せな気分でいられる。ホテルに歩いて戻る。
今日は旅行7日目にして歩いた距離は一番短かった。今日は観光ではなく、自分の家族と記憶をたどる一日だった。
午後10時半に布団に入るが、なかなか寝付けない。今回の旅では疲労のせいか毎晩ぐっすり眠れるのだが、今日はなぜか眠れない。昼間、脳の奥底から色々な物を強引に引き出そうとしたおかげで、脳が活性のままなのだろうか。
■九州所感
・九州では、バスターミナルのことを、バスセンター(熊本では交通センター)という。これは関東の人間には聞き慣れない呼び方だ。
・九州で一番幅を利かせているコンビニは、間違いなくファミリーマート。駅にはたいていファミマがある。セブンイレブンやローソンが少ない。
(続く)
九州旅行 1−2−3−4−5−6−7−8
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