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九州旅行(2013年7月)
8.開聞岳・池田湖・知覧
DAY14
7月29日(月) 鹿児島 開聞岳 晴れ時々曇り
この九州旅行もいよいよあと二日。今日は鹿児島から開聞岳に行き、登る。この旅で2回目の山だ。
開聞岳は、薩摩富士と呼ばれる標高924mの山で、その円錐形の秀麗な輪郭は見る者の視線を捉えて離さない。南薩のシンボルである。南国なので本家の富士山のように雪は被っていないが、その鋭くも優しげのある稜線は、本家に引けをとらない。さすがに鹿児島まで来たら、この山を拝み、そして登らねばなるまい、となぜだか思ったので登ることにした。
朝6:30起床、7時朝食。鹿児島中央駅7:51発の指宿枕崎線で指宿駅へ出発。電車はしばらく住宅地を走る。大学生、高校生が大挙して乗っており、通学列車の様相が濃い。夏休みでも学生さんはこんな朝から動いているのね、と自らの学生時代を顧みながら感心する。途中、坂之上駅で大学生達が、平川駅で高校生達がドッと降りた。中にはかわいい女子高生や女子大生がいて目を奪われる(笑)。いいじゃないか、鹿児島っ娘。
8:58指宿着。指宿駅には菜の花色、鮮やかな黄色の車体の「なのはな号」が停車している。千葉出身の僕には菜の花といえば房総。親近感を覚える。
駅の外に出ると、空はどんよりと曇っている。指宿は温泉や砂風呂で有名。駅の横にも足湯があり、朝から家族が浸かっている。
そしてどうやらここ指宿は、浦島太郎の竜宮伝説の舞台であるらしい。駅前に竜宮城を模した赤い門がしつらえられ、観光客が写真を撮っている。
開聞岳方面のバスに乗る前に、昼飯を調達する。しかし、駅前にはコンビニは見当たらない。雑貨店のような小さな商店に入るが、おにぎりなどは置いてなく、買えたのは甘い菓子パンのみ。仕方なくメロンクリームパンを一つ買う。そしてお茶とポカリスエット。
バスは途中、指宿の観光地を次々に回る。砂むし会館(指宿名物「砂蒸し温泉」があるところ)、フラワーパークかごしま、長崎鼻。そして開聞岳登山口に到着。10時20分。
登山口へ向かう道に、「かいもん山麓ふれあい公園」と書かれたアーチがあり、そこをくぐる。目の前に立ちはだかる開聞岳は、最悪なことに中腹から上は完全に雲で覆われてしまっている。美しい円錐形の開聞岳が眺められないばかりか、このまま登っても山の上からの展望はひょっとしてゼロじゃないか?と大いに気になる。海沿いにそびえる開聞岳、その登山の一番の醍醐味は、見渡す限りの東シナ海、屋久島まで見渡せるという、山頂からの絶景なのである。
だが僕には今日しかない。今日登らなければならないのだ。この九州旅行の日程は明日で終了である。天気によっての日程変更はもうきかない。
登山口までの道を歩く。途中、指宿市立開門中学校の前を通ると、グランドの前の道路をほうきで清掃していた部活動の生徒達が、僕に大声で挨拶する。
「おはようございます」
僕は驚きながらも挨拶を返す。
「おはようございます」
さらに生徒の一人が僕に畳み掛ける。
「登山ですか?」
「はい、そうです」
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
何という礼儀正しく人懐っこい中学生だろうか。
さらにその先で、ランニングしていた男子も、息を切らしながら僕に挨拶してきた。
指宿、良い土地じゃ。
登山道入口の手前にだだっ広い芝生の広場があり、そこが「かいもん山麓ふれあい公園」の一部らしい。トイレに行く。登山道にはトイレはないので、ここが最後のトイレだ。管理棟もあるとのことだが近くには見当たらなかったので、入山登録はやめた。
登山口には色々な看板が立っている。登山の所要時間としては、成人で登り2時間半、下り2時間半だという。あれ、登りも下りも同じ時間かかるって、おかしくないかい?ちなみに子供は登り3時間、下り2時間半、老人は登り、下りとも3時間となっている。この定量化はなかなか興味深い。子供だけなぜ下りの時間が登りより早いのか?老人とは何歳以上の人のことか?
ともかく、登山口(二合目)からいよいよ登山道を登り始める。始めは森の中の道。道は狭く、土は火山礫で、丸く軽石のようにボソボソ、ザラザラしているためズルズルと滑るので歩きにくい。
土に掘られた塹壕のような道を登る。木々は濃い。
円錐形の開聞岳を登る登山道は1本のみ。五合目くらいまでは、斜面に斜めに付けられた道を登る。五合目以降は、くるりとらせん状に山頂まで回り込んでいく。
五合目までが辛かった。斜度はそれほどでもないのだが、ダラダラ坂が延々と続く。辛いのはきっと、足元がズルズルと滑って歩くにくいことも一因だろう。息を切らしながら足を運ぶ。
登り始めて30分、ようやく五合目に到達。休憩所兼展望所があり、下を見下ろすとかろうじて下界の様子は見える。だが、雲はもうすぐ目の前の頭上まで垂れ下がってきている。雲が流れ、下界の視界はクリアになったり見えなくなったりしている。
東には海が広がる。東シナ海。海に突き出た長崎鼻。だがそれ以上先は雲のため見通せない。長崎鼻の手前に川尻の街が広がっている。
北よりの方角には四角に区画された田畑。その間に点在する集落。小高い山の奥には巨大な池田湖が見え隠れしている。
五合目から再び登り始める。ほどなくガスの中に突入した。さっき麓で見たように、中腹にまでかかっていた雲まで登ってきたわけだ。一気に周囲の湿度が上がり、湿っぽくなる。草葉がすべて露に濡れて光っている。雨降りのような様相だ。そして道は白いガスで覆われ、視界がきかなくなる。
途中、数組の降りてきたグループとすれ違った。さらに、3人組で登っているグループと同じようなペースで登っていく。彼らとは何となく抜きつ抜かれつで、微妙な距離感。
七合目を過ぎると、森の中から出て、突如視界が開ける。しかし、案の定下は全く見えない。落胆。これが晴天なら、森の中から出て突然はるかな眼下に青い海が広がっているのを見れば、さぞ爽快なことだったろう。
雲が晴れる様子は全くない。この分だと山頂でもきっとダメだ。だが、どんな天候でも、山登りは山登りだ。山を登ることに意味があるのだ。気を取り直して山頂を目指す。
道は険しくなる。平坦な岩場にはところどころに穴が開いていて、はまったら相当にヤバイ。
山頂直前は急な岩場を登る。最後は岩壁にかけられたはしご場が登場。
山頂直下に御嶽神社がある。神社の鳥居の赤だけが鮮やかだ。周りは完全に白い靄が覆っている。
13時、山頂に立つ。二合目の登山口からちょうど2時間。開聞岳924mの標柱。しかし、予想していたことだが、眺望はゼロ。白く立ち込めたガスの只中で、白しか見えない。天気がよければ、ここからは、東シナ海が一望でき、紺碧の海に屋久島まで見通せるという、その名の通りの絶景が広がっているはずなのである。これ以上の落胆があろうか。これほどの無念さを感じたことが最近あったか(泣)。千葉からここ鹿児島県は薩摩半島の南端までやって来て、白いガスにより何も見えないとは。日頃の行いが悪いということか。
呆然としながら山頂の岩に座り込む。道中抜きつ抜かれつしていた3人組の登山者グループは、すでに山頂で呆然としていた。が彼らはある程度あっさりしていて、ま、しゃぁないかくらいのノリで、昼飯を広げながら楽しくおしゃべりしている。会話を聞いていると、会社の同僚だか、大学時代の友人だからしい。今日はみんな会社を休んだのだろうか。
僕も指宿駅前で買ったメロンクリームパンをかじり、ポカリをグイ飲みする。腹はそれほど減っていない。
スズメバチが飛んでいる。
40分くらい山頂にいたが全く天気が回復する気配はないので諦めて下山開始。3人組は20分ほど前にそそくさと降りていった。同じ登山道を下る。帰りは早い。あっという間に登山口に到達。ふれあい公園の芝生広場では、大勢のお父さんお母さんたちが散らばり、大ゲートボール大会が挙行されている。人懐っこいおじさんが声をかけてくる。
「登ってきたの?」
「えぇ、だけどガスで何も見えませんでした」
「あぁそうだねぇ、今日は天気がよくなかったねぇ。どこから来たの?」
「千葉です」
「あぁ、そう。」
ふれあい公園の管理等で、事後だが登山名簿に署名し、中で登山証明書を作ってもらう。証明書は写真つきで、いくつかの写真の中から選べるのだが、当然のことながらどれもこれも鮮やかにそびえる開聞岳の美しい姿。それに署名し、透明パウチしてもらい完成。確か100円か150円。
そんなわけでこのページでは、端麗なる開聞岳の全景を紹介することは出来なかったので、インターネット上で検索してみてください。みなさんもきっとなぜだか登ってみたくなることでしょう。
歩いて開聞駅へ。完全なる無人駅。ちょっと土を盛った感じのところにホームがあり、駅舎も改札もない。
開聞駅から池田湖へのバスに乗る。バスに乗った直後に開聞駅に電車が到着した。驚いたことに結構人が降りてくる。かれらはホームからなだらかな草の斜面を降りていく。都会の駅とかけ離れた光景が展開する。
池田湖には15分で到着。
広い湖だ。約5500年前の火山活動によって出来たカルデラ湖で、周囲15km、最深部は233mもあるという。九州最大の湖。
湖畔には古ぼけたレストラン兼お土産屋が建っているが、営業している気配がない。曇り空に風が強く吹いている。夏なのに急に寒々しい雰囲気だ。
池田湖の名物は、イッシーと大うなぎ。前者は実在するのかよぅ分からん謎の生物で、ご他聞に漏れず恐竜のような格好をしている。ネス湖のネッシーから派生した、屈斜路湖のクッシーと同類だ。
後者はこの湖に生息しているらしい。その他にも池田湖には鮎、ワカサギ、ハクレン、フナ、オイカワなどの多様な魚類が棲息していて、豊かな生態系を保っているとのことだ。ブラックバスがいないのは好ましいではないか。房総で嘆かわしい事といえば、不要な開発でゴルフ場だらけなのと、いくつもあるダム湖が、いずれもブラックバス釣りのメッカであることだ。ブラックバスなどという肉食性の外来種を放流したおかげで、昔から育まれてきた固有の生態系が完全に破壊されてしまった。喜んでいるのはゴルファーとバス釣り師。もっとも、彼らが環境破壊を是認しているというわけではない、環境を破壊することで金を儲けようと企む仕掛け人を僕は非難したい。
風の吹く湖畔をしばらくブラブラと歩く。道向かいのお土産屋群は閑散としていて、もうすぐ店じまいしそうな勢いだ。軒先にいたオバちゃんが、「むらさきいものソフトクリームどう?」と僕に声をかける。
僕は湖側にある小さな店で買ったソフトクリームをなめる。風で溶けたアイスが手に落ちてくる。
観光客は数えるほどしかいない。時々車で乗り付けてはしばらく湖畔を散歩して去ってゆく。肌寒くなってきた。
17:25発、池田湖から指宿駅方面行きの最終バスに乗る。乗客は僕のほかにおじさんが一人。途中、唐船峡という観光地で、中国人のカップルが乗り込んできた。ここはそうめん流しと鯉やニジマスなどの川魚料理で有名らしいが、中国人が寄るとは何があるのだろうか。
開聞岳は相変わらず上部に雲がかかっていて、美しい円錐形の稜線は見られない。結局今日は一日開聞岳は雲に包まれていたことになる。
JR山川駅に着く。僕はここでバスを降り、帰りは鹿児島まで指宿枕崎線の電車に乗ることにした。
山川駅は日本最南端の有人駅。日本最南端の駅は無人駅で、山川駅から西の枕崎方面に進んだところにある西大山駅。ここにも行きたかったのだがいかんせん時間がなかった。
山川は海沿いの街で、山川港、地熱発電所がある。海沿いの国道脇に山川駅があり、線路裏には山が迫っている。
山川港と言えば、1837年、アメリカの商船モリソン号がやって来て薩摩藩に交易を迫った場所である。ペリーの黒船来航から16年前のことである。
そして、2度流罪になった西郷隆盛は、ここから奄美大島と徳之島に渡っている(1859年と1962年)。
次の鹿児島中央行きの電車は19:38までない。1時間以上時間がある。腹が減ったので、駅近くにちょうどあった食堂に入ることにする。ここは旅館も兼ねているようで、学生やおじさんがたが結構泊まっているようだ。
ここの食堂で鶏のから揚げ定食。なかなかよろしい。テレビでは天気予報をやっている。今日の熱中症指数は、西郷どんの表情で示される。さすが鹿児島。
食後はしばらく海の周りをブラブラうろつく。夕暮れ、海が鉛色にくすんでいる。海から引かれた水路脇の空地で、またまたおとうさんおかあさんがゲートボールに興じている。南薩摩はゲートボールが盛んな地に違いない。
日は暮れた。山川駅に戻ると、すでに鹿児島中央行きの電車が入線していた。
19:38山川発。指宿枕崎線には、けったいな名前の駅名が多い。「せせくし(瀬々串)」、「きいれ(喜入)」、「にがつでん(二月田)」、「かいもん(開聞)」、「いぶすき(指宿)」。千葉でも「やちまた(八街)」とか「かまとり(鎌取)」とか「そが(蘇我)」など妙な名前の地名があるけれど、僕は幼少からこれらに慣れ親しんでいるので違和感はない。鹿児島の人もきっと同じ感覚だろう。
20:52鹿児島中央着。
ホテルに戻り、11:30就寝。今日は一山登ったので肉体的疲労はいつもより大きいはずだが、アドレナリンが出ているのか、それほど疲れを感じない。
開聞岳、池田湖 写真集
DAY15
7月30日(月) 知覧 晴れ
いよいよ15日間におよんだ九州旅行最終日。
今日は鹿児島からバスで知覧へ行く。「知覧」と聞いて思い出すのは、水島新司の野球漫画、『男ドアホウ甲子園』に出てくる、右翼でやくざの若組長、丹下左文字の子分、知覧太郎だ。もちろん、この「知覧」は、ここ鹿児島県の知覧から取っているはずで、つまりは愛国の地として右翼的に連想されるためだろう。
ホテルをチェックアウトし、早朝の街を歩く。朝の飲み屋街は、昨日のどんちゃん騒ぎの残り香が漂っているようでしかし閑散として祭りの後。市電通りを歩き、鹿児島天文館の先、山形屋デパートのバス乗り場からバスに乗る。
知覧行きのバスは8時発。鹿児島市内を通り抜け、やがてバスは山道を登り始める。
知覧に到着したのは30分近く遅れて9時50分頃。知覧での滞在時間がただでさえ短いのにこの遅延は痛い。本来なら知覧の街を歩いて武家屋敷や、特攻隊員たちが食事をしたというホタル館富屋食堂などを見たかったのだが、残念ながらその時間はなさそうだ。
知覧で何をおいても絶対に行きたかった場所、それは知覧特攻平和記念館。知覧は、特攻基地があった場所である。終戦間際、この基地から、日本の若者達が飛行機に乗り、沖縄周辺に迫るアメリカ艦隊に向けて飛び立っていった。
もともとここは昭和16年に陸軍飛行学校として開所し、少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習士官らが飛行訓練をしていたのだが、戦況の悪化により、昭和20年、本土最南端の陸軍特攻基地となり、20歳前後の若者達が日本内地や満州より集結し、悲劇の旅立ちをした場所である。
九州各地の特攻基地から飛び立ち、沖縄戦で亡くなった特攻兵士は1036名。
記念館一帯は公園になっている。知覧はお茶でも有名らしく、巨大な急須のモニュメントがお土産屋の前でお茶を注いでいる。そして海ぶどうも名産のようだ。お土産屋には「知覧産海ぶどう」という文字が躍っている。
特攻平和祈念館に入る。入り口ロビーでは、知覧特攻基地の歴史を太平洋戦争の戦局とともに説明する映像作品が流れている。
向かって右側には保存された零戦の展示。いたるところが破損した生々しい戦争遺物。
館内は、特攻隊員たちの遺物が展示されている。特攻服や日記や靴や時計や帽子が、生前の使用者たちの人となりを無言で語りかけてくる。
だが、この記念館でもっとも多くのスペースを割いているのは、特攻隊員たちの直筆の手紙である。ショウケースに収められた手紙の数々。これらは、特攻隊員たちが出撃直前にしたためたもので、ほとんどが両親、家族に宛てられている。彼らは生きて帰還することなど考えていなかったので、これらはいわば遺言である。そしてその通り、ほとんどが絶筆となった。ショウケースの上の壁には、そこに展示されている手紙を書いた特攻隊員たちの写真が飾られている。
特攻隊員の多くは、17歳〜21歳くらいの若者である。生を受けてからわずか20年足らずで、彼らは国のために、国の命令によって死んだ。
戦闘の末に死ぬのではない。死ぬことにより敵に打撃を与えるのが上官の、国の命令なのだ。彼らは、決死隊ではなく、必死隊である。死ぬかもしれないのじゃなく、死にに行く。
僕は彼らの手紙を丹念に読んだ。さすがにすべての手紙を読むことは出来なかったが、時間の許す限り読んだ。正直、涙をこらえるのが辛かった。
両親や兄弟に宛てられた直筆の手紙。その多くは、次のような内容だ。
「国のために死ねるのはこの上ない名誉です。必ずや使命を全うし、皆様に恥じないよう、お役目を果たしてきます」
「今までありがとうございました。今まで親不孝ですみません。お身体にお気をつけて。」
だが、中には日本の置かれた現状、進んでいる道を痛切に憂慮する内容もある。
「イタリア(ファシズム)もドイツ(ナチス)ももはや壊滅し、日本はこの先どうなるのか?」
そういう批判的な手紙を書いた若者達もまた、特攻して死んでいった。彼らは複雑な思いを持ちながらも、国のために死んでいった。本心は「こんなことしたって何も変わらない」だったかもしれないし、そう思っていても「日本男児として国のために死ぬことは本望」と思っていたかもしれない。
こう考えると、「お国のために喜び勇んで役目を全うしてきます」と手紙に書いた多くの若者の心中も、それが本当に本心だったのかは、分からない。そう考えると泣けてくる。もちろんそれは誰にも分からない。だが、生まれてわずか20年くらいの若者が、20年で人生を閉じることについて、すべて割り切っていただろうか?そう疑念を持つのは僕が現代に生きているからだろうか?当時の軍国教育によるいわゆる洗脳で、本当に彼らはそう思っていたのだろうか?当時の若者のマインドは今の僕には知る由もないが、あまりにも過酷な運命だ。現代の平和慣れした日本人には想像を絶する。戦争を知らない世代の日本人は、この時代に生きているというだけで幸福だと言っていい。自分の意に反して死を命令されることなどないのだから。
彼らの文字が綴られている。彼らの写真の顔と筆跡を見比べる。あぁ、この人がこの手紙を書いたのか。それを一つ一つ確認していくうちに、彼らがどんな思いで知覧を飛び立っていったのか、そのことに思いをはせる。本当に、もう吹っ切れてすっきりした気持ちだったのだろうか?そんな人ばかりではなかろう。今から、敵の艦船に体当たりする。そうすれば確実に命は消えてなくなる。それまでの過程、時間は、一体どのようなものだったのだろうか?
右翼も左翼もない。ここには、若くして日本のために死んでいった人たちの真実がある。国の命令により自分の命を差し出した若者達の生きた証がここにある。
結局は、この特攻も、玉砕も、武士道からの日本の伝統であるということなのだろうか。武士は、他国にない、「死」に対しての独特の美学を持っていた。君主のためには命を投げ出す。そして「切腹」。腹を切る名誉。武士として死ぬことの誉れ。そういう死への考え方が特攻に息づいていると思う。お家のため、お国のために死ぬ。武士道であるならば、部下を死地に派遣した上官は、敗戦によりすべて腹を切るべきなのだろう。沖縄戦などでは指揮官が自決した。特攻を命じた上官はどうしたのだろうか?
イスラムの自爆テロも本質は特攻の考えと同じであるように思える。イスラムの正義のために死ぬ。ジハード(聖戦)のために死ぬ。死をもって大義を果たそうとする。だが、特攻した人たちの気持ちを考えれば今風にテロと呼ぶのはあまりにもそぐわない。
記念館を出る。横には特攻隊員たちが寝泊りした兵舎が復元されている。ここで、特攻前夜、彼らは何を考えていたのだろう。どのように気持ちの整理をしていたのだろうか?
そして観音様が祀られている。特攻平和観音堂。特攻で戦死した英霊を慰霊・顕彰し、世界の恒久平和を祈念するために昭和30年に建てられた。
戦争。絶対悪。だが戦争はなくならない。世界の国々は、いつ何時他国に攻め込まれても対応できるように、戦争の準備を怠らない。性善説では国民の安全は守れないということか。人間の歴史はいつこの悪循環から脱出できるのだろうか。
そして大国は、世界の紛争地で「非戦」を叫びながら、平然とそれらの国々に武器を売りつける。
ジョンレノンが「想像」した世界は、いつまでたっても実現しそうにない。
今回の旅は長崎の平和公園から始まり、知覧の特攻平和祈念館で終わる。途中、西南戦争ゆかりの地を巡った。図らずも戦争というものを考えさせられる旅となった。
こうして知覧を最後に今回の観光はすべて終了。知覧は開聞や池田湖からわずか30km程度の距離であることが分かり、やはり指宿を拠点にして活動した方がよかったかとも思ったが、荷物を持って移動するのは面倒なので、鹿児島拠点でよしと自分に言い聞かせる。
今日の最後の課題は、飛行機に間に合うかどうか。知覧観音発11:36のバスで鹿児島に戻る。行きのように30分も遅れたら、飛行機に乗り遅れかねない。賭けだが仕方ない。日本の公共交通機関の正確さを信じるしかない。とにかく特攻記念館は時間ギリギリまで見るしかなかった。そこにいるだけで様々な思いが頭に充満する。軽く切り上げて去れるような場所ではない。
バスは山を降り、鹿児島市街に戻る。鹿児島駅に近づくにつれ、時計とにらめっこ状態となる。鹿児島駅発鹿児島空港行きバスは、13時ちょうど。これに乗り遅れたら飛行機に乗り遅れる危険性大。
だが、果たして鹿児島交通のバスは、定刻12:55から数分遅れで鹿児島駅に到着。空港行きバス乗り場へ走る。ちょうどバスが来た。ぎりぎりセーフで乗り込む。何という紙一重の乗換えか。バスを降りて走って次のバスがジャスト到着。神がかり的乗換え成功で一安心。
空港バスは快調に高速を走り、40分で鹿児島空港に到着。
鹿児島弁は結局どういうものかはっきりとは分からずじまい。始めのネットカフェでは元同僚のN君と全く同一の口調に出会ったが、その後は「〜けん」とか「〜き」という語尾の人も多かった。
とはいえ、イントネーションに特徴があることだけは分かった。文をしゃべる時にずっと声調は上ずっていき、最後にがくんと下がる。これが真髄なのだと理解した。例えば、「駐車場は2時間まで無料」という言葉を鹿児島弁で言えば、無料の「無」まで声調は上がり続け、「無」で最高潮に音程が高くなり、「料」で一気に下がる。分かりますかね?
空港でお菓子と薩摩揚げのお土産を買い、飛行機に乗り込む。小学生軍団が乗り込んでいるが、機内は空いている。そして飛行機はでかい。ボーイング787−8。
16:10羽田着。京急とJRで千葉に戻った。
(おわり)
九州旅行 1−2−3−4−5−6−7−8