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アフリカ旅行記(2006年末)
2.ダルエスサラームの熱

アスカリ・モニュメント

カリアコーマーケット

米などの雑穀売り(右の男がアリ)

民芸品売り場のニーちゃん

ダルエスサラームの魚市場

ダラダラ故障

サトウキビジューススタンドのオヤジ


「ハロー。これからどこに行くんだい?」

「いや、ちょっとそこらへんをブラブラ歩こうと思うんだけど。」
「サファリとか、観光の予定は決まってる?」
「いや、まだだけど。タンザニアではサファリには行かないけどな。」
「今日はどんな予定だい?」
「今日はダルエスサラームの市内観光するよ。」
「じゃぁ僕が案内するけど、どうかな?」

早速来たか。きっとこいつは俺がホテルにチェックインするときからホテルの前にいて俺の存在を確認していたに違いない。いわゆる「観光男」である。おそらくどっかの旅行会社の店員で(実際にそうだった)、各ホテルで旅行者を待ち受けて自分たちのツアーに参加させようというわけである。ここで僕は考えた。ダルエスサラームは危険な街だと聞いている。ここで何も分からないままに一人で歩いてやられるわけにはいかない、まだ旅初日である。そして疲れていた。僕は、彼が「案内する」といった場所が、『歩き方』で「危険なので気をつけろ」をされていた地域なのを聞いて決断した。

(こいつを使うか。結局は俺も需要と供給の歯車の中に組み込まれているわけさ。)

15000Tshまでガイド料を下げさせ、商談成立。奴の名前はアリで、ザンジバル出身。まずはホテルから歩いてカリアコーマーケットに向かう。ここはどんな街にも必ずある、市民の胃袋をまかなっている市場である。野菜、米、肉等の売り場が屋内、屋外と続く。通路の狭さは他国と同じだが、ここは汚いのが目に付く。
売り場のオジちゃん、オバちゃん、若者たちが好奇心むき出しの目で、唐突に現れた黄色人の僕を見つめる。だがそれ以上突っかかってくる気配はない。まぁ、僕が一人でなくアリと一緒だっていうのが大きいだろう。『歩き方』には「危ないので一人で行ってはならない」と書いてある。一人きりならばとてもじゃないがカメラとかビデオをうかつに出せないに違いない。でアリに聞いてみる。
「ここで写真とか撮っていいかな?」
「全然大丈夫さ。だけど人を撮るときには一応撮っていいか聞いてからの方がいいな。」

僕がアリのガイドを選択したのは、何と言っても奴と一緒ならば写真とかビデオが撮れると思ったからである。一人ではやはり何が起こるかわからない。うかつにカメラとかビデオを出していると、どんな悪党が見ているか分からないのである。僕にはちょうど1年前(2005年12月)のテグシガルパ(ホンジュラス)での”強盗されかけ危うく未遂事件”(ちゃんと書きます)がトラウマとして残っている。

カリアコーマーケットでは、陽気なニーちゃんたちやオジサンおばさんたちとキャッチボールしつつ回る。僕が見た限りでは、食料品ではそれほど目新しいものがあるわけでもない。米や香辛料、野菜、果物、肉類。工芸品お土産売り場では、手芸バッグが目を引く。ケニアでもサイザル麻で作った”キオンド”というバッグが伝統工芸品として有名らしいが、ここ隣国タンザニアでもそれに似たものが売られているのだろう。


カリアコーの後は、ダラダラに乗って魚市場へ。ダラダラとはタンザニアのミニバスのことで、ダルエスサラーム庶民の足としてはもっとも一般的な、つまり料金が安くていつでもどこでも走っている乗り物である。ダラダラ内は超満員。通路までギュー詰め。黒人だらけの中に黄色人が一人、という構図。これだけの満員電車並みの過密環境だと始めさすがにビビったが、すぐに慣れた。いやむしろ、黒人という人種の人たちを間近でつぶさに観察する最初の絶好のチャンスとなった、と言える。思ったとおり、”黒い肌”と一口に言っても、その色は様々である。民族的均一性の高い日本に住んでいるとなかなか実感できないことである。

15分ほどでダルエスサラーム湾を見渡す海岸沿いの東端に位置する魚市場へ到着。ダルエスサラームは、インド洋に面したアフリカ東海岸に位置する都市である。魚市場には文字通り、タイやサヨリ、アジ、マグロ等の魚から、ロブスターやカニといった甲殻類、タコイカの軟体系から貝類まで、水揚げされたばかりと思われる海の幸が並んでいる。そしてセリも行われていて、人だかりができている。
ここも治安の悪いところらしい。すぐに片言の日本語を話せるオヤジ二人が声をかけてきた。奴らはさかんに僕に魚の名前を日本語で説明してくれる。そして僕が歩くのにずっとついてくる。そして頼みもしないのにいろいろな解説をしてくれるのだ。いやはや、こりゃありがたい、だけどお前らなんかに1銭も払わねぇからな!と思いながらふんふんと奴らの説明を聞き、質問したりする。横でアリはやれやれといった顔で黙っている。奴らは、僕がアリと一緒にいるため、何も手出しできないと言うか、ビジネス的ボッタクリ話ができないのである。ざまぁミロ。

「このフィッシュ・マーケットは、日本政府が造ってくれたんだ。」
「へぇ、そうか、ODAなんだな。」
「日本はタンザニアのためにいろいろ造ってくれる。だから日本人はタンザニア人の友達なのさ。」

タンザニアでは結構日本の知名度は高く、それはいろいろなインフラ建設を日本が行っているということと、結構商社やメーカはこのタンザニア・ダルエスサラームに進出している、ということが原因らしい。タンザニアは、アフリカにおけるビジネスの拠点になり得るのだろう。そう考えるとダルエスサラームの治安というのは、さほど悪くないのかもしれない。だが、数十年前、数年前と今ではやはりかなり治安悪化の一途をたどっているそうなので気は抜けない。

日本語カタコトオヤジ二人と別れ、近くの土産物屋を冷やかす。アリは、二人のことを日本語で「(彼らは)ドロボーだ」と言った。スリなのかボッタクリなのか、どんな手段でやられるのか分からないけれど。まぁ日本語を操って近寄ってくる奴はどこの国でもほとんどの場合下心アリ、だ。

ステートハウスの横を歩きながら、ホテルのほうへ戻る。いろいろタンザニアの事をアリに聞いてみた。気候、宗教、治安、物価、結婚、車、などなど。12月25日、クリスマス休日の街は、繁華街のサモラ通りもひっそりしている。フェリー乗り場付近は今日は行かなかったが、アリの話では「今日は酔っ払いたちで狂乱状態になってるから行かない方がいい」だと。これはとても信用できる言葉ではなかったが、まぁ明日の昼間に行くとして、今日はもうこれで帰って飯食って寝ることとしよう。
アスカリ・モニュメントの横を通り過ぎ、25分ほどかかってホテルに戻るころには日が暮れかけていた。午後7時前。最後はアリにサトウキビジュース(500Tsh)をおごってもらい(絞りたてサトウキビジューススタンドって結構いろんな国にある)、半日市内観光は終了。
「明日はどうするんだ?」
「明日は午前中は市内を歩き回って夕方にザンジバルに渡るよ。」
「そうかい。俺はいつもこの辺りにいるから、それじゃまた明日。」

部屋に戻ると夜8時のアザーンののっぺりとした大音響が近くのモスクから聞こえてきた。今日も多くのモスクを見たが、この街にはイスラム教が浸透しているようだ。夕食のために
ホテルのグランドフロア(1F)にあるレストランに降りる。タンザニア料理が食いたかったが、このレストランは結構観光客向けでインド料理と中華しかなかった。しばらくして分かったが、タンザニアはじめ東アフリカではインド料理と中東料理が非常に浸透していて、もはやアフリカ人の食事として定着している。我々日本人が中華料理やカレーライスやスパゲッティやハンバーガーを普通に昼食や夕食として食べるのと同じことである。
仕方なくチャーハンを頼むが、これがまたよくわけのわからない代物だった。パサパサの細長い米を炒めたそれは全く油っ気がなく、パサパサのまま他に申し訳程度に入っている具(卵や鶏肉、ねぎ等)と一つも調和していない。さらには味がほとんどついていないのである。人をナメるにもほどがある。タンザニア人は本当にこれをチャーハンだと思っているのだろうか?それともこれがタンザニア人の口に合うようにアレンジされたチャーハンなのだろうか。しょーがないからテーブルの上に唯一載っていた調味料、トマトケチャップをかけて食った。しかもこれで4000Tsh(約3.3ドル)。高ぇーよ!トホホ。

問題のパサパサチャーハン味なし


夕食後間髪いれず睡魔が襲ってきた。思えば日本時間24日PM6時過ぎに家を出て、今日本時間で言えば26日のAM4時である。飛行機でわずかに寝たとはいえ、すでに34時間も経っている。時差ぼけも手伝ってすぐに泥の眠りに落ちた。

翌朝。12月26日火曜日。7:45に目覚ましが鳴る。昨晩は蚊もいなかったのでぐっすり眠れた。8:30朝食。タンザニアの宿は朝食付きが普通らしい。パン、卵、バナナ、そしてチャイ。これはインド式のミルクティーだった。コーヒーでなくてチャイ。昨日のチャーハンもそうだったが今日の卵も塩味がほとんどついていない。タンザニア人は薄味派なのだろうか。

今日は一人で街を歩く。昨日であらかた雰囲気は分かった。基本的にはそんなに危なくない街だ。ホテルの外に出ると早速アリが待っていた。挨拶と握手を交わす。
「アリ、今日は俺は一人で歩くぜ。」

ここで遅ればせながら、タンザニアの基本情報を紹介しておこう。
タンザニアはアフリカ大陸東側、インド洋に面し赤道よりもやや南にある連合共和国である。どこが連合しているかというと、大陸にあるタンガニーカ共和国と、インド洋に浮かぶほとんど独立国ともいえるザンジバル共和国との連合である。1960年代初頭に両共和国はイギリスの支配から独立し、1964年に統合され、連合共和国が建国された。公用語は英語、ただし人々が普段話す言葉はスワヒリ語である。歴史的にインド洋からやってくるインド人やアラブ人との交易が盛んで、街にはアラブ人やインド人も多い。宗教はイスラム教35%、キリスト教35%、伝統宗教30%。宗教的結束は低い。昨晩近くのモスクからアザーンが流れてきたように、ここインド洋沿岸地方ではイスラム教が勢力を持っている。


朝ダルエスサラームの市内に歩き出す。まだ朝は涼しい風が残っているが、日が高くなるとともに空気が澱んでくる。強烈な日差しと湿気で、景色にはくっきりした輪郭ともやが混在しているようである。
タンザニアでは今日も「ボクシング・デイ」というキリスト教の祝日であるため、昨日と同じで繁華街に人通りは少ない。あまり人の少ない路地には入らないようにして歩くが、別に危険な匂いは漂ってこない。ビデオとカメラを交互に手にしながら、次第に汗ばむ暑さの中を、旅行者風情丸出しでキョロキョロする。この街もいわゆる途上国と同じような風景を持っている。ゴミが転がっていて、道は舗装されているが砂色がかっている。だが人が少ないので、ゴミゴミ感がなく、アジアやインドや中東にあるような迸るような熱気とエネルギーが欠如している。昨日のカリアコーマーケットや魚市場も休日のせいか、あふれる人混みの市場が持つ全方位的な人と空間との相乗エネルギーが発散されていない。
一国の首都としてはこじんまりしているが、貧困の陰惨はどこにも見当たらない。少なくともここではアフリカの悲惨の一端を嗅ぎつけることはできない。裸足で歩く人、道端で死んだように寝る浮浪者はたまにいるけれども、それはどこの国にでもいる種類の人々である。
昼前、国立博物館に入る。展示はたいしたことないが、目玉はタンザニアで出土した原始人の化石や動物の化石。ここ東アフリカ、ことにタンザニアでは人類の祖先となるジンジャントロプス・ボイセイの化石が発見された場所であり、人類発祥の地である。
歴史展示。タンザニアは大航海時代前はインド、アラブ、中国との交易をしていたが、例によってポルトガルに侵略され、その後例によってドイツ(20世紀はじめ)、イギリス(第1次大戦後)に支配された地である。

別館はアフリカの動物たち。貝のコーナーでは、おかしなことに日本の缶詰”赤貝味付”が展示されていた。「貝は食材として人間に親しまれている」との解説あり。そしてタンザニアの生活、各民族の風俗(飾り物や武器、楽器等)の展示もある。

再び歩きつかれてへとへとになり、昼飯。もう午後1時半だ。ニュー・ザヒール・レストラン。地元の大衆食堂だが、やはりここもインド系のレストランだった。トマトチキンカレーにサラダ、マンゴージュースで3000Tsh(2.5ドル)。値段はリーズナブル、味もよかった。トマトとスパイスが効いて、カレー好きの僕を唸らせるカレー。店内は地元タンザニア人であふれかえっている。彼らが飲んでいるのが何かを注意深く観察していると、圧倒的人気なのはコーラである。そう、暑い国にはコーラが似合う。ユニバーサルドリンク。店で飯食ってるのは年配者、オジサンから若者まで様々。ダブルデートの4人組が入ってきた。そういえば街でタンザニア若者のカップルを今までほとんど見ていない。男は男同士、女は女同士で歩いている。ここの恋愛事情はどうなっているのだろうか。

ホテルに戻り、預けていたバックパックを受け取る。僕が荷物を担いで出ると、ホテルの前にいつもいるガードマンが驚いた顔をして聞いてきた。
「おい、お前ホテル移るのか?」
「いや、これからザンジバルに行くんだ。」
この男の驚いた顔はいったい何を表すのか?今度の旅ではビビリが入っているのでどうしても思考がネガティブスパイラルに落ち込んでいく。たとえば、「こいつは僕の滞在中に部屋に侵入して盗むつもりじゃなかったのか?思ったより早くチェックアウトしたので驚いてるんじゃないか」とか考えてしまう。いかんいかん。純粋に彼は「昨日チェックインしたばかりだったのにもう出て行くのか?ホテルが気にいらんかったのか?」というホテルの従業員としての残念さと内省がそう言わせただけかもしれないのだ。
アリの旅行会社でザンジバル行きの船のチケットを朝買ってあった。旅行会社のオヤジと一緒にザンジバル行きの桟橋に向かって歩く。昼過ぎからさらに気温が上昇したように感じる。もう35℃近いのではないだろうか。湿度がこの厳環境に追い討ちをかける。汗が全身から噴き出し、ジーンズがみるみるうちにベタベタとなる。
チップを執拗に要求する旅行会社のオヤジを涼しい顔でやり過ごし(奴は、付いて来てくれなんて一言も言ってないのに付いて来たのだ)、僕は桟橋のボート乗り場のゲート内に入っていった。

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