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アフリカ旅行記(2006年末〜2007年)
6.ビクトリア湖の生活感
キブリモスクから戻った後、夕飯を食いに外に出た。もう闇が降りている。こりゃヤバイ。街灯が少なくて暗い上に、黒人の顔は闇に溶け込んでよく見えないのだ。いや、これは笑い話ではなく、夜の闇の中では彼らが見えないとなるとつまりこれは僕の身の安全に大きく関わる問題なのだ。
夜の街を食堂を探して歩くが、なかなか見つからない。夜の街は大きな通りなのに街灯のない場所もあり、街灯はあっても概して暗い。人はそこそこ歩いているが、店はもう半ば閉まりかけている。僕は強盗に遭いやしないかという恐怖心にとらわれる。心に圧迫感を感じる中、小さなインドレストランを見つけた。ここウガンダでもインド料理がポピュラーだ。街にも黒人に混じってあの太い眉毛、口ひげ、クリッとした目をした濃い顔が結構混じっている。インド人はもともと色が黒いので、それほど違和感がない。だがよく見るとインド人。余談だが、インド人とアラブ人の違いは、やはり”目”である。インド人の目は、丸くてクリッとしてかわいい。アラブ人の目はどちらかというと切れ長である、というのが僕の個人的印象である。
それほど腹が減っていなかったので、インド食堂で僕はバジーヤ(野菜のから揚げのような軽食)を食べてすぐに出た。だが暗いせいでホテルまでの道が分からなくなり、行ったり来たりして迷う。強盗恐怖症にでもかかったようにビビッている。誠実そうな人に道を聞き(笑)、ようやくホテルに戻れた。カンパラは多分そんなに危険な街ではないのだろう。だがやはり夜に外を出歩くのは怖い。
カスビ・トーム
ジョセフ
ウガンダは赤土
カセニの村とビクトリア湖
ビクトリア湖畔、カセニの子供たち
カセニ村の場末の大衆食堂
ゲームに興じる男たち
翌日。12月30日土曜日。ホテルの最上階のバーレストランで朝食。このホテルは今回の旅で唯一朝食込みではなかった。そしてこのレストランにはコーヒーがなかった。しかもエッグサンドを頼んだらパンもないとのこと。なんちゅうレストランや?パンとコーヒーがなくて朝食が成り立つか、ボケ!!ここにはもう絶対に、二度と、来まいと思いつつ、ミルクティー(アフリカンティーと言っていた。イングリッシュティーがストレートティーである)とスパニッシュオムレツを頼む。
ウガンダの朝は涼しい。そういえば昨日の朝も空港からバイクタクシー乗ってたら清清しかったなぁ。日中は多分25℃〜30℃くらいまで上がったと思うけど朝晩は涼しい。Tシャツ1枚では寒い。
今日はカスビ・トームとビクトリア湖を見に行く。まず乗り合いタクシーに乗ってカスビ・トームへ。タクシーの車掌の若者に、カスビ・トームの近くで降ろしてくれるよう頼む。言われた方向に坂道を上がっていく。そこにはモスクがあり、そのすぐ横がウガンダのガンダ族の王の墓、カスビ・トームであった。ここでは王の末裔の親戚という、ジョセフという若者がガイドをしてくれることになった。もちろん無料で(笑)。
ここカスビ・トームは、かつてウガンダにあったガンダ王国のカバカ(王)の墓所である。ここには初代カバカ、ムテサ1世から最後のエドワード2世までの4代のカバカが祀られている。実はこの墓所はかつてのカバカの住まいであり、ドーム型をした独特の藁葺きの家である。
この家の中は天井が高く、奥にいわゆる王しか入れない玉座がある。その他エリザベス女王から贈られた椅子とか豹の剥製とかゲームとかがさりげなく置かれている。
再び外に出てジョセフとウガンダについて話す。王国の顛末、イギリス植民地時代、ウガンダの産業について。ジョセフいわく、ウガンダの3大輸出品はコーヒー、コットン(綿花)、タバコだそうである。
「ジョセフ、俺そろそろ行くわ。」
「なぁ、今僕は自分の書いた本を出版しようとしてるんだけど、その資金のために少し寄付をしてくれないかな。」
(結局最後はそう来るか、お前王の末裔なら金持ってんのとちゃうの?)
「いや、断る。」
「そう・・・。ならいいんだ。」
まぁ、ガイド料としてって考え方もあるけど、始めに俺は「ガイドにビタ一文払わん」と合意したしこいつはどう見ても金に困ってなさそうやし、逆に僕が現金には困ってるんでね。
カスビ・トームを後にしたのが正午ごろ。一旦カンパラのタクシーパークに戻り、カセニに向かうタクシーを捜す。
カンパラからエンテベ(国際空港がある街)に向かう途中に、カセニというビクトリア湖畔の村がある。カセニに行きたい、とタクシーパークで運ちゃんの一人に尋ねると、一度乗換えして行ける、とのこと。例の乗り合いタクシーに乗って40分くらいで乗り換えポイントに着く。ここで別の乗り合いタクシーでカセニへ。カンボジアばりの赤茶けたデコボコ道を15分程度走って目の前に巨大湖が開けてきた。
これが世界第2位の面積を持つ淡水湖、ビクトリア湖である(ちなみに世界最大の淡水湖は、アメリカ五大湖の一つ、スペリオル湖。スペリオル湖は、僕が以前住んでいたミネソタ州の州境の一部となっている。世界最大の湖は、ダントツでカスピ海)。どのくらい広いかというと、四国と九州を合わせたよりも大きいそうである。さだまさしの歌に『ビクトリア湖の朝焼け、100万羽のフラミンゴが・・・』とあるが、ここカセニにはフラミンゴはいない。いるのはハゲコウとその他名前のわからない鳥たち。
東アフリカ一帯は19世紀〜20世紀、イギリスが植民地にしていたので、この湖には”ビクトリア”という英国女王の名がついている。大英帝国は、そのかつて強大なりし頃の痕跡を世界中に残しているわけだ。アメリカ合衆国東海岸地域にもランカシャーとかマンチェスターとかイギリス風の地名が多い。まぁ北米の場合はイギリス人そのものが移民として移住したわけだから話は違うのだけれど、先住民を西へ西へと追いやって侵略したことには変わりない。アフリカの言葉の独特な語感を考えると、大英帝国の暴挙に対して無駄な腹立ちを覚える。何でこんなアフリカのど真ん中にある壮大な湖が”ビクトリア湖”なんだよ?っていう。”ナイロビ”とか”キリマンジャロ”とか”ンゴロンゴロ”とか、アフリカの地名の響きというのは僕ら日本人にとって、おそらく欧米人にとってもとても独特だ。”キリマンジャロ”だよ?この言葉の持つ響きにロマンを感じる人が多かったのもうなずける。アフリカのこれらの地名は、それぞれがアフリカの言葉である意味を表しているのだ。タンザニアやウガンダの人々が、イギリスが強制した英語を喋ってくれるのは後年今旅行をしている僕にとってはありがたいけれど(英語が国際語となった今、ウガンダ人やタンザニア人はひょっとして感謝しているかもしれない)。まぁこんなこと言ってもしょうがないが言いたくなる。
ビクトリア湖をしばらく眺める。大きい。大きいが左右には岬状に陸地がせり出しているので、水平線は正面だけであり、どこまでも続くよ果てしなく、という雰囲気ではない。湖岸の崖上に立つ灯台から見渡したスペリオル湖の果てしない広がりとはチト違った。岸では、ビクトリア湖に浮かぶ島々への連絡船を運航している組合のような人々が集まっている。
ビクトリア湖畔の小さな村、カセニは漁民たちと生活感で満たされていた。ボートを手入れする人々、湖で獲れたばかりの魚をさばく人々、ボートのエンジン修理屋、そして靴屋、雑貨屋、食堂、駄菓子屋などが並んでいる。いずれもバラック小屋のような趣である。これは村というよりも、岸に集まったコミュニティ、っていう方がふさわしいくらい。道は舗装されておらず、砂道。
カセニで僕は昼飯を食った。テーブルが一つとカウンター席がいくつかしかない小さな食堂は、まさに地元民が日々食べているものしか出さない大衆食堂。コレだよコレ、こういうところでその土地に”まみれる”のが旅の一番のハイライトなのさ。これは日本を旅しても同じこと。
この場末食堂ではメニューなんてないから何を頼んだらいいやら分からずまごつく。だが、ちょうど食事中だったお母さんと幼い子供が食べているものを見て、聞いてみる。
米(上)、サツマイモ(左)、マトケ(右)
骨付き牛肉の煮込み
「それは何ですか?」
お母さんは親切にも一つ一つ教えてくれた。
「これはサツマイモ、これがマトケよ。」
そうか、これがマトケか!!
マトケというのはウガンダの主食(タンザニアでもよく食べるらしい)で、バナナを煮てすりつぶしてペースト状にしたものである。”練りバナナ”か”マッシュバナナ”とでも言おうか。その他、彼らは米と骨付き牛肉の煮込みを食べていた。僕は店のおばさんに頼んだ。
「(親子が食べているのを指して)これください。」
エクアドルでバナナ料理には慣れている僕だけれど、このマトケの食感は初めてだった。そしてサツマイモは甘く、牛肉は味がよくついていた。これでわずか1500Ush(1ドル弱)。
ここにも子供たちがいる。彼らも黄色い僕に興味深々だ。
カセニには午後4時くらいまでいて、カンパラに戻った。
再びタクシーパーク近くの雑踏。ここにはいつでもカンパラのエネルギーやダイナミズムを感じることができる。カンパラが旅しやすい静かな街だなんてとんでもない。確かにあるエリア、つまりブルジョワエリアは比較的閑静で落ち着いている。だが僕は人が多く集まるところこそその土地を知ることだと思っているので、そういう場所ばかりに行く。カンパラの雑踏はすさまじい。そしてなぜか結構みんな早足で歩いている。東京みたいに。あの数で。
飛行機内や空港では白人を結構見かけたが、繁華街では白人やアジア人は全く見かけなかった。ウガンダで見かけた日本人は女の子二人組のみ。会話からするとどうやらもうすぐ帰国する協力隊員らしい。あと中国人が数人。
僕は、この辺りの繁華街をボラボラ(バイクタクシーのウガンダでの通称)で走り、後部座席からビデオ撮影することを思いついた。名づけて、「カンパラ1周ライドでゲリラ撮影」。
何人かの運ちゃんに交渉。何人目かで1500Ush(1ドル弱)で交渉成立。バイクの後部座席にまたがり、右手にビデオカメラを構える。タクシーパークを回り込み、人で満杯の通りを縫うようにボラボラは走る。僕はビデオカメラを回し続ける。7分ほど走って元の場所に戻ってゲリラ撮影は終了。
カンパラボラボラゲリラ映像
ゲリラ撮影完了の後、陽は傾きかかり、空の青さが濃くなりつつある。僕はカンパラ最後として再びキブリモスクへ行くことにした。今日12月30日はイスラム教の犠牲祭だと昨日子供たちから聞いていたので、イスラムの儀式を見れるかもしれないと再び足を運んだのである。だが、僕がモスクに到着した時には、神(アッラー)に捧げるための羊や牛を殺す儀式はすでに終了していた。何しろもう夕暮れである。閑散としたモスクの前庭で、昨日とは別の、高校生くらいの男の子と話す。彼には両親がなく、叔父のおかげで何とか暮らしているが、経済的な問題で大学へ進学したいんだけどできるか微妙なのだという。初対面の僕にそんな身の上話をした彼の意図は何だったのか分からないが、程なく日本のことを色々僕に聞いてきた。
「この裏で今犠牲祭の牛をさばいているから、見ていってください」
「そうか。俺はイスラム教徒じゃないけど、いていいのかな?」
「全然構いませんよ。」
夕闇が迫る中、小屋の裏、雑木林のはずれで、大人の男がなたをふるって先刻殺した牛を小さく分け、集まったイスラム教徒の家族にその肉を取り分けているところだった。犠牲祭で殺した牛の肉は、みんな少しずつ分けて食べるのである。僕を案内してくれた男の子は、礼拝の時間だと言ってモスクへ戻っていった。
イスラムのお母さんたちは、僕を見て笑顔を振りまいてくる。そしてビニール袋に肉をもらうと、足取りも軽く家路につく。一人、また一人。今晩はご馳走だ。
こうしてイスラムの神聖な祭りの時は、闇が降りた雑木林の傍らで、静かに、穏やかに、楽しげに過ぎていく。
帰路につくため坂道を下り始めた僕の後ろから、祈りから戻ってきた男の子が声をかけてきた。
「またカンパラに来てね!」
「あぁ、いつになるか分からんけど。」
残り短い人生、もう二度と来ることはないんだろうなとおぼろげながら遠い意識が言っている。こんなやり取りに一期一会の感傷を覚える。
「またな!いい年を!」
僕は叫んで彼に別れを告げる。そして乗り合いタクシーに乗ってしばらくして彼の写真を1枚も撮らなかったことに気づく。
(奴は大学に行けるのかな・・・。)
カンパラ最後の夜は更けた。
翌日。12月31日日曜日。大晦日。だが海外で越す年はいつでも、素通りする。実感がない。日本にいれば否が応にもメディアで流れる年末気分や新年気分が目から脳へ侵食してくるけれど、外国では言葉も分からないし、日本ほど社会全体が新しい年の到来を騒いでないように感じる。
今日はケニアの首都ナイロビへ飛行機移動する。言い忘れていたが、一昨日、カンパラ市内のケニア航空のオフィスで、このチケットを取ったのである。つまり、クレジットカードで。もしここでもカードが使えなかったらバスで10時間以上かけてナイロビ入りだったところだが、ここカンパラでは使えた。ホッと一息。
フライトは午前10時。フライト2時間前チェックイン、エンテベ国際空港まで1時間以上かかることを考え、6時半にカンパラを出発することにした。朝5時半に起き、6時にジャグア・ゲストハウスをチェックアウト。まだ外は真っ暗。ヤバイ。”バックパックを担いでいる”=”自分が旅行者であることを四方八方に示す”ということである。暗い道をホテルからタクシーパークへ歩く。日の出前、人影はまばらで暗い。一番危ないパターン。
ビビりながらタクシーパークへ足早に歩く。暗い道から一刻も早く街灯がある道へ出たい一心。ゼェゼェしながらも何事もなくタクシーパークにたどり着き、エンテベ行きのバスを見つけ乗り込む。まだ朝早いので客が集まっておらず、出発まではしばらくありそうである。車の中で待っているとだんだん日の出が近づいてきた。少しずつ空に白みが射してくる。タクシーパークは昼間の喧騒が嘘のように静かで、日中は敷地内ほとんど隙間なく詰まっている車の数も少ない。運転手、車掌そして乗客が徐々に集まってくる。冷気が支配する朝の静かな息づかいは、昼間の躍動するエネルギーの助走。
エンテベ行きに乗り合わせたオッちゃんがいい人で、空港へ行くのにどこで降りなきゃならないか教えてくれた(実は空港まで行く乗り合いタクシーはなく、空港近くで一度乗り換える必要ある)。車は1時間弱走って空港近くのバス停で彼と一緒に降りる。で空港行きの別の乗り合いタクシーを待つが、今日は日曜だからなかなか来ない。10分くらい待って一台来たが満席で乗れず。さらに10分くらい待ったが、次のタクシーは来ない。とオッちゃんは突然通りかかった普通のタクシーを止めた。どうやら知り合いの空港タクシードライバーのようである。僕を呼び寄せて、
「これに乗るぞ!」
空港はすぐだった。1500Ush払う。実は僕を案内してくれたオッちゃんは空港で働いているそうで、空港まで通勤だったのだ。当然空港タクシー運転手の知り合いは多いわけである。
オッちゃんと一緒に、空港横にある小さな駄菓子屋兼軽食屋でタバコを買って一服する。
飛行機は予定通り飛んだ。ナイロビ着午前11:30。いよいよケニアに入った。この旅で最も危ない街ナイロビに突入である。
入国審査で50ドルのビザ代を払い入国。両替を済まし、到着ロビーへ出る。来た来た、ワサワサと。腐臭をまとったオヤジたちがハイエナのように早速僕に群がってきた。
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