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アフリカ旅行記(2006年末〜2007年)
4.小さな独立国・ザンジバルの迷路(2)
狭い路地に看板、ヴァラナシを思い出す
オールドフォート内の円形競技場とザンジバルの街並み
大聖堂横にある奴隷の彫刻
12月27日早朝。ホテルの外に出ると青空がまぶしい。ホテルの前の道はもうすでに細い路地である。前方、細い道を区切る壁の向こうに、大きな教会らしき建物が見える。歩き始めた。すぐに迷路である。細い道がくねくねと曲がり、頻繁に十字路や横道が現れる。道の両側には普通の家、駄菓子屋、薬屋等の小さな店。建物はいわゆるアラブ風の建築で、1階は大きな木製の扉と庇、2階以上では格子のある長方形の窓が見られる。
少し歩くうちにすぐにインドのヴァラナシを思い出した。あそこもガンガー沿いのガート(沐浴場)の裏側というのがこのような細い路地の迷路になっている。あと行ったことはないがモロッコのメディナもこんな感じなのだろう。あそこもアラブだ。
ここザンジバルは、オマーン支配時代から続くアラブである。アフリカ大陸の沖合いに浮かぶイスラムの島。ここを歩く人は黒人だが、服装はアラブの民族衣装が多い。男性も女性も。
昼近くになって再び気温が上がってくる。汗をだらだらと流しながらオールドフォート近くを歩く。このあたりでは物売りとツアーガイドがひっきりなしに声をかけてくる。
「コンニチハー、スパイスツアーどうね?」
「アフリカ音楽、CDアルヨー」
彼らは僕のことを一目で日本人と判別するらしく、片言の日本語で声をかけてくる。つまりここには中国人はあまりいなくて、歩いている東洋人といえば日本人観光客だということである。しかも片言の日本語を話すザンジバル人が多いことから、日本人観光客もここには多く来ていることが推察される。声をかけてくる奴らをちぎっては投げ、ちぎっては投げて少しずつ先へ進む。
ストーンタウンの見所。
1833年にスルタンが建てた宮殿という”驚嘆の家”(The House of Wonder)。階上のテラスから日に照らされて青く果てしなく輝くインド洋を見渡す。♪気分爽快!そしてオールド・フォート内の円形劇場を上から眺める。
からゆきさんの家。1894年、日本人として初めてザンジバルを訪れた日本人娼婦が住んでいた家。彼女らも、アフリカ人の奴隷のように日本から売られていった。
アラブの島であるザンジバルだが、ストーンタウンの中心にローマ・カトリック教会がある。オマーンに支配される前にポルトガルが支配していた名残だろうか。この教会の前で、スペイン語を話すアフリカ人のガイドに会った。この旅でスペイン語を聞いたのはこれが最初で最後であったが、僕はすぐに反応した。彼は白人のカップルを案内していたので少ししか話ができなかったけれど。思えばこのアフリカ旅の序盤で一番歯がゆかったのは、僕の英語力の低下である。基本的にタンザニアもウガンダもケニアも昔イギリスの植民地だっただけあって英語が公用語(普段話す言葉は違う)なので、英語は大体みんなしゃべれるから旅がしやすい。だが僕の場合エクアドルから日本に帰ってきて1年経ったが、どうしても外人と話す場面でスペイン語が出てきてしまうのである。英語を自由自在に操っていた昔の僕の面影は全くない。思えば、アメリカ留学から帰国以来、もう8年以上経つ。旅をする分には何の問題もないけど、昔は言いたいことを平易な言葉に直さなくてもばっちり言えたのに。錆びついた英語をもう一度どっかで研がなければ。それにつけても”5ヶ国語を喋れる”とかいう人がたまにいるけれど、すごいよ、それって。”喋れる”レベルにもよるけれど。
大聖堂は、1873年に閉鎖されるまで奴隷市場だった場所に建てられた。当時、アラブの奴隷商人は、東アフリカ全域で捉えられたアフリカ人をザンジバルへ運び、ここを拠点として売りさばいたそうである。その悲惨な歴史の跡地に建てられたのが、この教会。
PM3時。好天の中迷路を歩き疲れて再びヘトヘトとなり、遅い昼飯。昨日上陸した港の近くのパッションショウというジモティーレストラン。2400Tsh(2ドル)のビーフ・ビリヤニ、マンゴージュース(300Tsh)、タマリンドジュース(300Tsh)。ビリヤニというのは僕はインドではじめて食べた料理(インドではビルヤーニという)であるが、要はピラフである。もともとはインド、パキスタン、イランあたりの料理とのこと。
ここのビリヤニは、炒めたサフランライスの上にビーフとか魚とかが乗っている、いわばワンプレート。
ほとんどの人々は、手でビリヤニやピラウ(これもピラフのような料理)やカレーを食べている。スプーンやフォークを使っている人はほとんどいない。数人のみ。
(うーん、つまりはここ東アフリカでは、インドと中東が融合しているんだな。)
飯の後、ウガンダ、ケニア行きの航空券を買いにケニア航空のオフィスへ行ったが、明日のナイロビ経由エンテベ(ウガンダの首都カンパラ近くの国際空港がある場所)行きは、満席だとのこと。さらにタンザニア航空のオフィスを探したが、『歩き方』に載ってる地図は古いらしく、見当たらない。一度宿に戻ってホテルのニーちゃんに調べてもらった。でまた再び疲れた体をムチ打って教えてもらった場所へ向かう。また少し迷い、余計な体力を使う。暑さと疲労でだんだん周りが見えなくなってくる。ようやくたどり着いたタンザニア航空のオフィスは、5時を過ぎてすでに閉まっていた。落胆で目の前が真っ暗になる。扉の前のガードマンのニーちゃんは、
「明日は8時に開くぞ!」
と明るい笑顔で疲れ切った僕に言った。
今日は一日中ずっと歩いていた。勘で歩いて全く違った方向に歩いてたことに気づき、方向を変えてしばらく歩くと再び自分がどちらの方向に歩いているのかが分からなくなる。それを繰り返し、ストーンタウン内をくまなく、何度も何度も同じ道を歩く羽目になった。もともと僕は方向に強いほうではないのだ。細い路地はどの道も結構似通っていて見分けがつかず、混迷に拍車をかける。さらにはこの道をとても地図には全部書けないのだろう、『地球の歩き方』には簡略な地図しか載っていない。道に迷いすぎ。とんでもない街だ、ストーンタウン。
ビーフ・ビリアニ
ストーンタウン写真集
クタクタになってホテルに戻ると、4人の従業員の若者が宿の外の壁際に腰を下ろしてゲームをしていた。これぞ外国の安宿、という風景。
鍵をもらって部屋の前まで来ると、再び部屋の中から声が聞こえる。よく聞くとやはり向かい側の部屋の夫婦が話している声だった。やれやれ。
部屋でベッドに倒れこんで気がつくと、今日1日で首筋と両腕が日に焼けてヒリヒリする。エクアドルでもそうだったが、赤道直下の紫外線は半端じゃない。
夜8時、シャワーを浴びていると突如大音響のアザーンが窓からなだれ込んできた。ダルエスサラームと同じだ。このホテルリバーマンのすぐ近くにもモスクがあるのだ。というより、このザンジバルはイスラムの島である。モスクは、街じゅうにある。祈りの時間、街はアザーンで満たし尽くされる。
シャワーを浴びながら、このアザーンがタンザニア人の道徳心を保たせることを祈りつつ。まぁ、イスラム教徒以外に対しては効力はないが。
翌日。12月28日木曜日。朝食後、真っ直ぐにタンザニア航空のオフィスへ。今日は昨日の学習効果あり、道に迷わず最短で行けた。カンパラへ行くにはやはり火・木・日曜しか便がなく、今日木曜のフライトはダルエスサラーム昼過ぎ発なのでもう間に合わない。
フングニ魚市場
仕方なく昨日に続きケニアエアーのオフィスへ。そしたら何と今晩夜中にカンパラに着く便に空席あり、というではないか。昨日聞いたときには満席だ、と言われたのだ。たった1日で状況が変わる。だけどこれは実は僕はひょっとしたら、とわずかに期待していた。キャンセルなんていつどこで発生するか分からない。実際今回の旅行でも、出発2週間前まで帰りの便のチケットが取れず、本当に旅が成立するか分からなかったが、2週間前にキャンセルが出て取れたのだ。航空券の入手は読めないことが多々ある。今日ないと言われても明日はどうなるか全く分からない。そこは旅程の立て方との兼ね合いになるので、そういう想定されるアクシデントを吸収できるような柔軟性のある日程を考えておかねばならぬ。僕は行き帰りの日本発着の航空券以外、現地での移動に使う航空券は予約せずに現地で探すので、出発前に計画する旅の日程はあくまでも大雑把なもので、現地状況によってどんどん変わっていく可能性があるのだ。
しかし喜びんだのもつかの間、またもや驚きの事実が発覚。このオフィスではクレジットカードが使えない、と言うではありませんか。やはりアフリカの旅はそう簡単ではない。こんなちゃんとした航空会社のオフィスでもクレジットカードが使えないのだ。これは認識が甘かった。現金で払うと$488である。そんな現金持ってるわけないじゃありませんか。ちなみに僕はクレジットカードの暗証番号を知らない(覚えてない)ので、”クレジットでキャッシング”もできないのだ。これには参った。僕はケニアエアーの女性に
「ちょっと考えさせてください。」
といってフラフラと外に出た。冷房の効いたオフィスから扉の外に出ると、容赦のない光線と熱射が降りかかってくる。途方にくれた気分と暑さで思考が途切れがちになる。
(どうすりゃいい???)
現金がなくなるということは旅が続けられなくなることである。つまり$488を払うという選択肢はないのだ。ここですっからかんになったら、この後何もできなくなる。外国で、特にアフリカのような国で現金がなくなるということは、まぁ絶望なわけで、逆に言えば金こそがよりどころなのだ。これはどこに旅行してようが変わらないけれど。海外で一文無し!この意味はとてつもなく重い。
しばらくはオフィスの外の木陰に座って打ちひしがれていたが、ヨロヨロと立ち上がって宿へ向かう。ずっと考えながら歩き、部屋に戻るとバックパックの奥底に隠していた第2財布を取り出して有り金を数える。
(うーーん。だがこのフライトを逃すと、ウガンダは行けないな。カンパラとビクトリア湖を諦めてキリマンジャロ周辺とモンバサに変更か・・・。)
だがやはり初志を曲げるのは僕の哲学に反する。基本的に旅というのは、行きたい所ありき、なのだ。つまり、どんな手段を使っても行きたい所に行かねばならぬ。日程は臨機応変に変えるけれども行く場所は変えない。
結局僕は決断した。最後のフライト、エンテベ⇒ナイロビを買わずにここザンジバルからエンテベまでのチケットを買うことにした。319ドル。これで何とか旅の最後まで現金がもつかどうか・・・。ウガンダでクレジットカードが使えなかったら、国際バスでウガンダからナイロビ入りだ。
この移動は、ザンジバル⇒ダルエスサラームがタンザニア航空、ダルエスサラーム⇒ナイロビ⇒エンテベ(ウガンダ)がケニア航空である。ということでザンジバルを今日の午後発つこととなった。ザンジバル島東岸にはいくつかのリゾートビーチがあり、本来ならそこで1日くらいのんびりしたかったのだが仕方ない。ウガンダに行くことが先決だ。
ウガリ(白いやつ)・サマキ(魚)
(右上のソースで食べる)
午後2時。ザンジバル最後の食事は、ようやく会えました、東アフリカの代表的な主食”ウガリ”である。これにサマキ(魚)をつけた、ワンプレート。これはうまい!ウガリなるものは、『歩き方』によれば、とうもろこしや小麦やキャッサバなどの粉を湯でこねて蒸したものらしい。表面はつるつるで、蒸しパンの腰を強くして弾力性を持たせたような食感である。味はないが、一緒に出される甘辛系ソースをつけて食べれば、深い味わいが出てくるのだ!日本で言えばごはんにあたる。
このレストランは野外型で、小さなスタンドの中に調理場があってそこでおばさんが料理を作り、外にあるテーブルに給仕される。丸いプラスティックテーブルとプラスティックの椅子が、木を配置した一角広場に並んでいる。ここには猫がたくさんいて、食事を始めた人間の足元に静かに集まってくる。人間が食事中は物欲しそうな目で見つめてくるが、基本的にはじっとしている。だが、人間が食べ終わって席を立つと、地面から一斉にテーブルの上に跳ね上がり、食べ残しに殺到、貪りつくのだ。何というしつけの良さと悪さ!学習している。ネコめ。そういえば、昨日のダルエスサラームから通算して考えてみると、ここには途上国にありがちな犬がいない。どこの途上国に行っても普通野良犬が跋扈しているものだが、ここタンザニアでは犬っこ一匹見ない。飼い犬のシェパードを一度見ただけである。ノラ公がいない。
ウガリ・サマキを片付けて幸せに浸り、宿に歩いて戻る。ボスのオヤジはいなかったが、仲良くなった宿のニーちゃんたちと握手を交わして別れの挨拶。バックパックを担いでタクシーを捜し、ザンジバル空港へ。一応国際空港だが小さい。今回の旅で目に付くのは、白人観光客がどいつもこいつも分厚いペーパーバック(旅行ガイドではない)を空港の椅子で一心に読んでいることである。これがかなりの人数だ。今まではこんなに目立たなかったように思う。どうしてあんな分厚い本を旅に持ってくるのか、理解に苦しむ。そんな長いスパンで旅をしているバックパッカーにも見えない人たちばかりである。
機体に『Air Malawi』(マラウィ航空)と書かれた飛行機は、ザンジバルを飛び立ちダルエスサラームへ向かう。タンザニア航空のネーちゃんは僕が予約するとき「あと1席しか残っていないわ」と言っていたが、ウソつきやがって、機内はガラガラ。海を一飛びしてすぐにダルエスサラームに到着。船で1時間半、飛行機でたったの20分。だが驚いたことに料金はほとんど変わらない。船は35ドルか40ドル、飛行機は39ドル(+ザンジバルの空港使用税5ドル)である。
日が暮れていく中、ダルエスサラーム国際空港でナイロビ行きの飛行機を待っていると、一人の男が声をかけてきた。
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